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2015/07/19

安さとボリューム、生活と趣味。

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2015/05/30
「豚レバ刺し問題。」では、墨田区向島の大衆酒場「かどや」の店長の「安さとボリューム」のコメントにふれ、「この話のおもしろさは、「安さとボリューム」であり、味にふれてないことだ。じつに、気どらない、即物的な文化。安さとボリュームを堪能するよろこび。いわゆる下町の大衆食堂や大衆酒場の文化とは、スノビズムから見れば文化とは言えないような即物性に、生き生きとしたフォークロアが息づいていて、だから、やはり、文化なのだ」と書いた。

安さとボリュームと生活の関係は複雑だ。

一方、その複雑さを切り捨て、フラットにならして批評を加えるという「趣味の評論」が、インターネットや出版を舞台にハヤリである。これは、とくに80年代以後の消費主義の大きな特徴といえるだろう。消費主義は、同一の金銭価値のもとに、すべてをフラット化し、比較し、評価しようとする。ブルドーザーみたいなものだ。

たとえば、500円で満足できる定食があるのに、700円なんか高すぎる。大衆食堂が800円の定食なんて、もはや「大衆」じゃない。などなど。

1円は、誰が持っても、どこで使っても、同じ1円の価値を持たなくてはならないというのは、資本主義の崇高な平等思想の結果であり、おかげで、現代人は、いろいろなしがらみから解放された。

そして、自由に食べ歩き、お客様は神様だぞ、おまえの店はたいしたことない、なーんて、働かなくては食えない貧乏労働者だって、偉そうにインターネットあたりに書けるようになった。

だけど、誰でも同じように収入があるわけではなく、その収入によって生活は縛られ、住むところもままならない。「地域格差」といった、いやらしい社会と歴史まで背負って生きなくてはならないことも多い。それに、なにより、労働によって、生活もちがうし、食事に対する考えもちがう。

そもそも大衆食堂は、批評を趣味として食べ歩く客ではなく、労働の日々の生活の楽しみとして食事をとる客によって支えられてきた。「安さとボリューム」と、フラット化視線からは安くはないかもしれない値段が、価値を持つ根拠は、その生活にある。

おれが知っている下町の大衆食堂の客には、日々の最高の楽しみといえば食事で、ほかに趣味らしい趣味も、娯楽らしい娯楽もない、という生活が珍しくなかった。

本を買うカネや、好きなファッションのためのカネや、旅行やレジャーのカネなどを気にする必要のない生活。老後のためを対策する、十分なゆとりもない。つまり、酒代も含め、エンゲル係数の高い生活だ。

そういう人たちが、大衆食堂の「上客」として、カネを使う。もちろん、文無しのときも、コップ一杯だけの酒を飲ませてもらうこともある、ツケでめしを食わせてもらうこともある。そういう付き合いのなかで、カネを使う。1円の価値は、さまざまな意味を持つ。

ところで、橋本健二さんの『居酒屋ほろ酔い考現学』には、サイデンステッカーの『東京 下町山の手』からの引用がある。

「今でも下町の方が人情に厚く、親しみやすいところではあるにしても、下町文化の栄光の時代はすでに終わった」のであり、「今日の下町には、せいぜい野球とテレビの文化しかないけれども、百年前の下町に比べて、これはあまりに貧寒な文化でしかない」

橋本さんは、「サイデンステッカー自身は、大の下町びいきでありながら、近年の新しい下町に対してはあまり好感をもっていなかったようだ」と書いているが、これは「ひいき」や「好感」の問題ではないような気がする。

先日来たびたびふれている工藤博海さんの指摘する、下町と山の手のあいだにある「圧倒的な非対称性」の存在についての認識の問題だろう。

おれは、サイデンステッカーも「下町文化の栄光」なんぞにも興味はないが、そこに「山の手」の視線を感じる。優位である自分の文化の価値観でフラット化する視線。

実際のところ、「安さとボリューム」というが、簡単ではない。市場も小さく消費性向の弱い地域で、店が生き残るのは大変であり、店は客と共に考え苦労して「うまく」やってきたのだ。それは、都心の一等地などとはちがう厳しい競争であり、共存をかけた競争というのが、消費主義に席捲された地域とは大いに異なる。

そこのところを、「下町人情」だのなんだのやフラットな金銭感覚で片づけるのは、マズイだろう。キチンと評価する必要があると思うね。

写真は関係ありません。このハムエッグは、ハムが切ってある。これも、ひと手間。

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