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2015/08/24

とりとめなく「お膳」のことなんだが。

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これこそ「日本文化」であり、伝統的な日本料理つまり「和食」の様式を決定づけていると思われるが、あまり話題にならないものに「お膳」がある。この上にのってしまえば、中華料理だって、日本文化だ。と、なぜか、今回の東京オリンピックエンブレム騒動で思い出した。思いつくままにメモしておこう。

日本料理においては、膳で、カタチが整う、というか、カタチを整える。このことは、日本料理の二重構造にも関わらず、比較的共通していたのではないか。それだけに、膳の四角い、方形が、かなり意味を持ってきた。

ちゃぶだいやテーブルの普及と共に、膳は、とくに家庭から姿を消してきたし、格式ある料亭などでも姿を消しつつあるようなのだが、これが、大衆食堂には、けっこう残っているのも、おもしろい。統計的なデータはないが、定食のばあい、お膳で出てくることが多いのではないだろうか。

大衆食堂によっては、膳ではなく、「お盆」にのせて運び、食卓のうえに配置するが、この場合、カタチを整えるといっても、ずいぶんちがう。膳という、四角いワクの空間がないからだ。

東京新聞の連載では、いつも食べた食事の写真を撮る。膳にのって出てくる場合は、それをそのまま撮ると、どうしても手前にごはんとみそ汁がくるのが定型だから、おかずは奥になってしまう。だけど、おかずを中心に撮りたい。

それで、膳のうえで、その位置を動かして、見た目も収まりのよいようにしようとすると、なかなかうまくまとまらない。という事態になる。

それは膳にのせた状態でカタチがついているからだろう。盆で運ばれたときには、そういう「不自由」はない。

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では、膳で運ばれたものも、膳をとって、食卓のうえに「自由」に並べ替えて撮ればよいではないかということになるだのが、どうもそれでは、膳のときとちがうものになる。

膳の配置は、お店の方の考えによる「デザイン」であり、それなりに決まっている感じがある。なにより、お店のカタチを崩すことになりはしないかという懸念が生まれる。

それでも、センデンとしては、おかずが中心にうまそうに撮れればよいということはある。ただ、この連載は、お店のセンデンに目的があるわけではない。膳のうえのことも、一つの文化、一つの現実と見れば、あまりいじりまわすのは好ましくないようにも思う。

そんなことを考えていると、気取っているわけでもなく、何気なく続いているだけのように見える、大衆食堂の膳にも、カタチの歴史というものがあると、これは、日本料理の歴史やデザインの歴史と深い関係があるのではないかと、あらためて見直したくなるのだな。

以前にも膳と盆について書いたが、この区別は難しい。一部では、少しでも「脚」がついているのが膳という説明がある。たしかに、長い脚から、ほんのちょっとの突起ぐらいの脚がついているものがあって、これは膳だろうと思う。だけど、脚がないものも膳である例は、少なくない。伝統的な分野でも、懐石の膳は、脚がないほうが多いような記憶がある。

運ぶだけなら盆、その上に食事の様式を整えたものは膳ということになるか。

膳も盆も、古くは「折敷(おしき、おりしき)」から始まっている。そのもとは、葉を折って杯の下に敷いたことからであるというような説明が何かにあったと記憶するが、とにかく折敷は、板を四角に切っただけのものだった。のち、折った板の縁がついた。

つまり脚はなかった。脚は、その後、なにもかも格式を重んじるようになったときに、意味を持つようになったのだろう。本膳料理では、大げさな脚や縁が発達したと思われ、そういう傾向に対して、懐石がもとの折敷に近いカタチを志向したといえそうだ。

旅館やホテルでは、かつては、畳の座敷というと大小に関わらず、脚つきの膳だった。これは、一度に全部並べる本膳式にしても、人手がかかるからか、近頃は畳の間でも、食卓を並べ、器を配置することが多いようだ。

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その場合、ランチョンマットあるいはテーブルセンターとかに類似のものを敷くことがある。近頃は、使い捨ての紙を見かける。ときには、竹の簾のこともある。格式ある料亭でも、そのようなものを見た。

これは、ランチョンマットあるいはテーブルセンターとかいうものではなく、「日本文化」らしく、折敷と考えるべきか。

017その四角いものがあるだけで、折目がキチンとし、食卓の上がまとまった感じに見えるのは、膳のデザインに馴れてきたからだろうか。あるいは、膳を成り立たせてきた、日本文化に馴れているからだろうか。

折目ということでは、折敷や膳からの発展形態と見られる「折詰」がある。

自由に動く方向のまとまりではなく、折目がキチンとしたところに収まる。「型にはめる」文化がある一方で、「型にはめられる」文化もある。それで、お互い、落ち着きがよく、よい気分になる。というのは、ずいぶん単純で不自由なことだとも思う。折目に収まらない、はみだし者も生む。

大衆食堂では、客が自由におかずをとるようになっているところは、膳が出ないことが多いようだ。膳で出すところは、そのほうが上げ下げに面倒がないからだろう。そこは、一度の食事の料理の品数も多く、食事の空間もちがう、旅館やホテルとは、逆だ。

とりとめなく、いろいろなことが浮かぶが、以前に、こんなことを書いていた。

2006/01/05
悩める膳と盆とランチョンマット

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