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2015/09/30

美術系同人誌『四月と十月』33号、連載「理解フノー」は15回目。

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一昨日の28日は誕生日で72歳になった。といっても、とくになにもない。

明日から10月。4月と10月に発行の美術同人誌『四月と十月』33号が届いた。

おれは同人ではないが、「理解フノー」というタイトルで理解フノーな連載をしていて、今号で15回目。そのタイトルは「フリーライター」。20年前、『大衆食堂の研究』を書いたのちしばらくして使いだした「肩書」と、出版業界との付き合いのことを少々。

表紙は福田紀子さん。表紙デザインの内藤昇さんによれば、福田さんは「一見おとなしそうな人なのに、ビシバシ!描くようです」。うん、その気配は、作品からも発散されているようだ。

福田さん、ビシバシ描き、ビシバシ活躍している。10月7日~18日、大阪のイトヘンで展覧会。福田さんだけでなく、同人のみなさんは若い。ビシバシ制作し活躍している。

「アトリエから」に掲載の美術作品だけでなく、文章がよいのも、あいかわらずだ。デロリの正成美雪さんは結婚されたからだろう、作家名が「瓜生美雪」に変わった。ビシバシ結婚おめでとう。

四月と十月文庫から発行予定のおれの原稿は、さっぱり進んでいない。おれより先に企画が決まっている4冊ができていないのをいいことに、サボりまくっている。

そろそろビシバシやらねば、と思いながら、今夜も酒を飲んでデレデレすることになるだろう。

おれのビシバシは、飲むことだけだ。

四月と十月のサイトも、スマホ対応にリニューアル、更新も早くなり、すでに今号の案内がアップされている。ビシバシやっていますなあ。
http://4-10.sub.jp/

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2015/09/29

「川の東京学」メモ 米と麦、深川飯。

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農文協発行の「日本の食生活全集」は、大正から昭和の初めヒトケタぐらいまでの食生活の聞き書きを、都道府県ごとにまとめたものだけど、⑬『聞き書き 東京の食事』の後にあるまとめ解説「東京の食とその背景」には、聞き取り調査地の地域区分図があって、それを見ると、なかなかうまいこと地域分けをしていると思う。

この地図は、調査地の一つである四谷番衆町(現新宿区)が、まだ豊多摩郡だったころのものだ。豊多摩郡ほか、荏原郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡は、昭和7(1932)年に東京市に編入された。

地域区分と調査地は、以下のようになっている。とくに「東京湾岸」の設定が面白い。全体の区分は自然条件と生産が基準になっているのだが、まだ東京湾岸では漁業やのり養殖が行われていたからだ。現在は、埋立てにより、これより海側に「東京湾岸」地域があるわけだが、それはともかく。

「東京湾岸」からは本所(現墨田区)・深川(現江東区)・大崎(現品川区)・大森(現大田区)。その北を「東部水田」とし水元(現葛飾区)・日本橋人形町(現中央区)・浅草駒形(現台東区)。

東京湾岸の西北方面は「北部畑作」で四谷(現新宿区)と久留米(現東久留米)。南西方面「多摩川下流畑作」は喜多見(現世田谷区)。その西を「多摩川上流水田」とし七生(現日野市)。その西を北部畑作の延長が囲み、その西側が「奥多摩山間」で氷川(現奥多摩町)。さらに「島部」があり岡田(現大島町)である。

東部水田、東京湾岸、多摩川流域は、「川の東京学」的にみれば、連なる地域として見ることができ、戦前から戦後になって工場が増え続け、いわゆる「下町」的な特徴を持っているといえる。

聞き書きのまとめは、必ずしも区分には従っていない。そこがまた興味深い。

最初の章「市域の四季と食事」は、「東京湾岸」の深川、「東部水田」の駒形、人形町、そして「東京湾岸」の大崎の順。

次の章は「下町の食」であり、「東京湾岸」の本所。次の章が「山の手の食」で「北部畑作」の四谷。次が「大森海岸の食」で大森。次から、「水郷・葛飾の食」で水元、「武蔵野台地の食」は「北部畑作」の久留米と「多摩川下流畑作」の喜多見、「多摩川上流の食」は「多摩川上流水田」の七生、「奥多摩山間の食」は「奥多摩山間」の氷川、「島〈伊豆大島〉の食」は「島部」の岡田、となっている。

このなかで、「俸給生活者」の家庭は、「山の手の食」に登場する「北部畑作」の四谷の家庭のみで、ほかは、職人や商人の家庭と第一次産業従事の家庭で、いずれも一般労働者というより、使用人がいる親方や旦那衆だ。

これは、この全集の特徴であり、だいたい中くらいから中上クラスの家庭がほとんどなのだが、といっても、「俸給生活者」以外は家族みんなが忙しく働いて、家業が成り立っている。

この時代は、「大衆」が流行語になり、「大衆食堂」の呼称が生まれる時代と重なる。その大衆食堂は「白飯」つまり米のめしをウリにしていたことは、すでに拙著などでも書いた。日常は麦飯の地域が圧倒的で、白飯は「あこがれ食」だった。本書のまとめにも、主食糧は、米、麦、イモ類とある。

調査地のなかで、米の白飯を毎日食べているのは、人形町と駒形と本所の家庭と、四谷の俸給生活者の家庭だけで、ほかは、米7:麦3から米3:麦7の割合の麦めしが日常だ。

本所は、両国で浪曲寄席を営む家庭で、こんな記述がある。「夏のごはんは、消化がよくからだによいということで、麦飯になることが多い。お弁当に麦が入っていると、子どもたちはきまりが悪いというので、目立たないように押し麦を使う。しかしそれでもあまり喜ばないので、麦の少ないところを詰めて持たせる」

当時の町場における麦飯の「立場」がしのばれる。

一方、麦飯が常食の水元の家庭だが、自作農であり、「ごはんは、麦を入れると腐りやすいので、夏だけは白米飯である」とある。

まとめ解説に、「東部水田地帯、多摩川上流水田地帯、多摩川下流畑作地帯など、米の自給が可能な地帯でも、幕府の米本位の財政政策により、農民の米食規制は昭和初期まで色濃く残され」とある、これだと農民の自己規制のようだが、そういう米節約の習慣もあったのだろう。一方、聞き書きのほうには、現金収入のために米は優先的に出荷する結果、日常は麦飯だったともある。

とにかく、食や料理は、政権が替わったぐらいでは変化するわけではなく、この時代まで江戸が残り、台頭する俸給生活者と共に、米食が普及する。ここには、ほとんど登場しないが、この時代に、その俸給生活者の家庭に広まったものに、ちゃぶ台がある。

というわけで、大衆食堂と共に、白飯とちゃぶ台の普及から、「近代化」を見ることができるかもしれない。この「近代化」は、戦争と敗戦があって、国の体制は大きく変わったにも関わらず、戦後へと続き、昭和30年代にピークに達する、とも見ることができるだろう。

ところで、深川の左官職人の親方の家庭には、こういう記述がある。「あさり、しじみ、はまぐりなどの貝売りは、年中、毎日のようにやってくる。彼らはたいてい浦安あたりから小名木川のポンポン蒸気に乗って高橋まで来る。あさりやばか貝のむき身に、ねぎのきざみを入れて味噌で煮た汁を、ごはんにかけて食べる深川飯は、冬から春にかけての手軽なごはんである」

まさに、浦安フィールドワークをした「川の東京学」の世界だ。あのときは、この記述に気づいていなかった。

そして、面白いことに、同じ東京湾岸で、深川のすぐ北の本所の家庭では、深川飯というと「あさりと油揚げを具にした醤油味の炊き込みごはんである」

拙著にも書いたが、深川飯は、大きく分けるとこの2種類になる。あるいは、汁をめしにかけて食べることを嫌う家庭では、炊き込みにした可能性があるかも。それは、もしかすると、深川と本所の微妙な違いと関係があるのかもしれない。

当ブログ関連
2015/04/09
4日の「川の東京学」浦安フィールドワークは、大いに楽しく有意義だった。

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2015/09/26

「C‐Dクラス」の面白さ。

品質さえよければ立地なんか問題にならないという選良志向のやりかたもあるだろうが、普通、飲食業は「立地商売」といわれるほど、立地がものをいう。

まちの魅力や面白さというと飲食業の店が話題になるが、一般的には、それを立地で見ることはしない。それが、普通だろう。おれのばあい、いつもそれが気になるのは、以前に立地調査もやるマーケティング屋だったクセで、前にも書いたが、まちを歩いていて店の立地と売上が気になることがある。

ここ東大宮に越してきて、まもなく8年、このまちは、なかなか面白い。住んでからわかったのだが、こんなところでと思うほど、飲食業の激戦地なのだ。

そして、この東大宮商圏は、都内や大宮あたりの大商圏とちがい、独自のローカルエリアを持っているために、割と動きが見えやすい。

立地を評価するのに、よく1等地、2等地、3等地という分け方をする。AからEで分ける方法もある。1等地やA-Bクラスは、地域のブランド性や歩行者の交通量など、場所の後押しがあるところであるが、ま、等級付けとか格付けとかいわれ、カタカナ英語だと、クラス、グレード、ランク、いろいろいわれる。ミシュランの星の数もそうだけど、日本のばあい、「上下意識」が強いので、それらを「カテゴリー」として見ることが、あまりない。

そのため、とにかく1等、A‐Bクラスがよいのであり、すべては、そこをモデルに目指すべきだ、そのモデルの条件を満たさないのはレベルが低い、テナことになり、あるいは、グルメなコンテンツで取り上げられる店も、たいがい、なんらかの意味で、このクラスであり、それなりにすでに商売が成り立つ客がついている「有名店」の位置にある。

ところが、実際には、2等以下、Cクラス以下の立地でも、商売して生きているひとたちがいる。では、その商売は、2等以下であり、Cクラス以下なのだろうか。

それがそれほど単純じゃないのは、商売は人間がやっているのだし、客も人間だからだろう。

最近、そういうことを考えさせる動きが東大宮で続いている、興味深く見ながら、ネットなんぞを検索してみたら、「悪立地商売」「2.5等地の儲かり店」なんていう記事がある。ここ1年ぐらいのことで、たとえば、こんなぐあいだ。

「飲食店の立地を1等地、2等地、3等地に分けるとすると、2等地は駅から200m以上離れたエリアで、3等地はそもそも勝負にならなエリア。2.5等立地とは、その2等地と3等地の中間的な立地ということ。/がっちりマンデーでは、その2.5等地に立地する飲食店のノウハウや強みなどついて特集していたので、まずはその内容をまとめてみました。」
http://knowledgestore.co.jp/food-doctor/?p=432

「《特集》 固定費圧縮、情報成熟時代の抜け道は「悪立地商売」 2.5等地 売れるロジック」「ネット社会の発達によって、外食ビジネスの「立地の常識」は大きく変わりつつある。むろん1等地の優位性が揺らぐことはないが、いまやスマートフォンひとつあれば詳細な外食情報がいつでもどこでも入手できる時代。外食ビジネスの「立地の常識」は大きく変わりつつある」
http://www.shibatashoten.co.jp/detail.php?bid=11150100

これらは、ビジネスの視点からまとめたもので、それなりに説得力もあるが、もともと個人経営のばあい、3等地だろうが条件の悪いところでチャレンジする人たちはいた。それは、ビジネスの常識からしたら間違っている、ということだったのだけど、エラそうな「中央」の、たいがい1等やA-Bクラスを自認する人たちからの見方にすぎなかったのだ。そこが変わりつつあるようだ。

1年半ほど前に、東大宮駅から1キロほどのところ、東大宮商圏としてはギリギリの端で、商店街はないし、店はまばらで、そこから先は、そのまばらな店すら途切れ、駐車場を備えた集客能力のある大規模チェーンの外食店しか出店してないところ。2.5等地というより、3等地だろう。どう見ても、個人店がやっていけるとは思えないころに、飲食店ができた。

とりあえず入って見た。若い夫妻と、1歳ぐらいの赤ちゃんがいて、厨房を日本語が十分でない夫、客席を少し外国語的な話し方になる日本語が堪能な妻が、1歳に満たない子供を見ながらやっていた。味は、可もなく不可もなく普通だけど、メニューは改善の余地がありそうだった。これは、かなりキビシイ。

と思っていたのだが、そのあと、3回行った。2回目は、近いから、たまにはのぞいて見ようていどの気分だったのだが、メニューがかなり充実していて、おどろいた。そして、3回目と4回目は、妻と行った。つまり、それぐらい安定感が増していた。子供は少し話せるようになり、あいかわらず店にいたが、以前より手間がかからなくなっていた。

ところが、このあいだ、前を通ったら看板がなくなって閉まっていた。やはりダメだったかと思ったが、簡単には潰れそうにない感じだったので、念のためネットで調べたら、なんと、東大宮の1等地とまではいかないが、1.5等地、駅近くのBクラスぐらいの立地に移転していたのだ。

この店では、若い子持ちの外国人夫妻ということもあり、いろいろ感じることがあったし、考えさせられることもあった。

まちの面白さは、このC-Dクラスのチャレンジャーがいてこそかもしれない。東大宮ぐらいの規模のまちは、それを体験的に感じやすい。

チャレンジにもいろいろある。C-Dクラスから上位をめざすものもあれば、上位は目指すことなくC-Dクラスを維持するのも、それなりの難しさがあり楽しさがある。マーケティングの専門家やグルメなコンテンツや評論家ライターたちがなんといおうが、また別の尺度の面白さが存在する。

まちは、そうして生きているのだ。

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2015/09/25

10月10日(土)は、小岩の野暮酒場で「つつっこ」を食べる会。

つつっこは、秩父・小鹿野町地方に伝わる料理。

以前、「路地と人」でも試食してもらったことがあるけど、この夏のお盆の帰省のときに妻と義母が作ったものがあるので、これを、食べようってことで、10日の野暮酒場は17時開店、18時スタート。

といっても、用意できるのは、8個ぐらい。1個2人で食べれば、味見としては十分の量。それなら16人分になるから、野暮酒場としては、ちょうどよいぐらいだろう。もし参加が多いようなら、1個を3人で食べるようになるか。それでも、どんなものかはわかる。でも、そんなには集まらないにちがいない。

つつっこは、もち米、小豆、粟、きびなどを、季節によって朴の葉かトチの葉に包んで、棕櫚のひもでしばり、茹でたもの。朴の葉かトチの葉と棕櫚は、湯通しをしてから使う。ま、それぞれの家のやり方があるだろうけど。

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チマキと似たような作り方だが、この地方では、チマキは作らずにつつっこを作る。家のまわりに笹の葉はないが、 棕櫚も朴もトチもある。

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茹でるのは、台所の外の釜。

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茹であがったつつっこは、食べるときに棕櫚のひもをとき、葉を広げて、そこにおかずものせて食べる。その写真が見つからないのだが、つつっこに味はついていないので、煮物やキンピラや梅干しなどと食べると、とてもうまい。もち米と小豆と粟やキビとのハーモニーが、とても素朴な味わい。滋味ってやつですね。

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昔は米作が不可能な地域にも、たくさん人が住んでいたわけで、そこでは、こうした雑穀や蕎麦やうどんが日常食だった。戦後に確立した米食中心史観の視線とはちがう、食と生活の実態に即して考えるのも、大衆食の視点。

秩父・小鹿野町は、小岩のある江戸川区と江東区の境を流れる荒川の上流で、「川の東京学」的に見ても、つながりのあるところ。また、勝手に非公式物産展番外編にもなるか。

当日は、つつっこや小鹿野のスライドも用意し、これを見ながら、大いに飲み食いしたい。

小鹿野町のつつっこのことは、ザ大衆食に書いてある。こちらには、茹であがって食べるとこの写真もある。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun/tutuko.htm

当ブログ関連
2015/08/17
ますます浮世離れ、秩父の山奥で、飲み過ごす。

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2015/09/24

悩ましい「おもてなし」と「もてなし」。

昨日に続いて、「おもてなし」がらみ。この言葉は調べるほど、わけがわからなくなる。だいたいが、日本の伝統のことになると、じつにアイマイなことが多く、根拠も薄弱な言説が出回りやすいのは、なぜか。それが日本の伝統なのか。

いま、インターネット上には、「まずは「おもてなし」の語源を理解しましょう」ということで、

1,「もてなす」の丁寧語

 言葉の通り、「客をもてなす」の「もてなす」からきています。「もてなす」の語源とは、「モノを持って成し遂げる」からきており、お客様に応対する扱い・待遇のことを指します。ここでいう「モノ」とは、目に見える物体と目に見えない事象の2つを示します。

2,「表裏無し」

 これも字の如く、表裏がない心でお客様を迎えるということです。


といった言説(というほどのものではないが)が見られ(http://u-note.me/note/47487286 世界に誇る「お・も・て・な・し」|「おもてなし」の語源と、日本の紳士淑女が心得なければいけないたった3つのこと。)、こういうことがまことしやかに言いふらされている。

普通こういうばあいは、典拠や事例などを示し論拠とするものだが、見当たらない。

とりあえず、広辞苑では、どうか。

もて‐なし【持て成し】①とりなし。とりつくろい。たしなみ。②ふるまい。挙動。態度。③取扱い。あしらい。待遇。④馳走。饗応。

もて‐なす【持て成す】①とりなす。処置する。②取り扱う。待遇する。③歓待する。ご馳走する。④面倒をみる。⑤自分の身を処する。ふるまう。⑥取り上げて問題にする。もてはやす。⑦そぶりをする。見せかける。

といったぐあいで、それぞれ古文からの用例がある。
それが、「モノを持って成し遂げる」になり、「表裏無し」まで加わり、

心得えポイント①:想定外の気遣いをすべし
心得ポイント②:見返りを求めるなかれ
心得ポイント③:「考える時間」をつくるべし

が「おもてなし」の心得になってしまう。もう、元の意味なんて、歴史なんて、どうでもいいじゃん、という感じの、お気楽な世界だ。

とりあえず、まだ調べは不完全だが、「おもてなし」の語源に「表裏無し」を持ちだす根拠は、見当たらないし、あとで誰かがこじつけた印象が強い。


古い昔は、「御もてなし」という言い方があって、これは「御」が「おん」と読まれていたように、「おんもてなし」が古文の読みとしては正しい。それが「おもてなし」になったのだろう。

ヤフーの知恵袋には、「古文の古文の「御もてなしなり」の読みは、「おもてなし」「おんもてなし」のどちらですか? 」の質問があり、そこでベストアンサーに選ばれている回答は、以下の通り。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10114896225

「おんもてなし」のほうが一般的です。
「おもてなし」は中世より古い用例がなく、比較的新しい言い方ですし、
近世でも 文章語としては「おんもてなし」の方が多く用いられています。


「おもてなし」は比較的新しいものだというのは、実感としてある。「もてなし」は、日常でも使われていたし、文章でもよく見かけたけど、「おもてなし」は近代の文学でも、おれは記憶の良い方ではないが、思い浮かばない。


となると、「おんもてなし」は、古文・古典の単語辞典【古文単語辞書】>ま行>もてなすの意味/もてなすの訳

もてなす(もて成す)

意味

執り行う・処置する
対応する・世話をする・ごちそうする

例文

何ごとの儀式をももてなし給ひけれど、(源氏)

http://kobun.qurlab.com/syllabary_ma/word138.html

この意味の「もてなす」に「御」がついた「おんもてなし」が語源に近いと見るのが、例文の時代などからしても、妥当のような気がする。


もう一つ、「おもてなし」論者のあいだに、その精神の拠りどころとして茶道や千利休を持ちだす人たちがいる。

こちらのほうも、論者のほうで、用例や根拠などを示してくれていないので、自分で探さなくてはならない。これから、とりあえず懐石関係の本にあたってみるのだ。

まったく、これほど「おもてなし」で騒いでいながら、このありさま、こんなふうに日本の伝統や歴史が語られる、それも自己称賛的に語られるって、「クール・ジャパン」は大丈夫か、「日本の紳士淑女」は大丈夫か、と、思わざるを得ない。

ま、日本料理にしても、伝統というと、まっとうな歴史でも伝統でもなく、あとからとってつけたような恣意的なリクツが多く、それがメディアの力で「正論」になっていくのは、オソロシイことだし、イヤだねえ。

最低でも、伝統をいうなら、いつの時代の誰の伝統かぐらい示して欲しい。

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2015/09/23

「おもてなし」と食事文化と料理文化。

なんでも「文化」という言葉がつくと神々しく、おしゃれで上等かつ上品なイメージで扱われやすいが、意味も概念もはっきりしないまま、テキトウに使われることも少なくない。それも仕方ない事情があって、おれも、アイマイなまま使うことがある。

たとえば、「食事文化」と「料理文化」だ。この関係は、アイマイで困ってしまう。その結果、「食事文化」という表現は、あまり使うことなく、「料理文化」ですましていることが多い。料理文化に食事文化を包括させてしまうのだ。

ところが、ちかごろ話題の「おもてなし」というのは、どう考えても食事文化のことになる。

しかし、これは「料理」をどう考えるかにも関係する。もし、料理を、「食べる技術」と考えれば、食べるところまでが料理に含まれるから、少し無理はあるが「おもてなし」は料理文化でも問題ないようだ。

だけど、おれは、料理については、「味覚と、それを求める調理法(技術)」というふうに考えている。それは「料理は食べる技術」であるにちがいないが、料理文化を考えるときは、もっと空間を限定したいということがある。

整理すると、食事文化は食卓を中心とする空間の文化、料理文化は買い物を含め台所という空間を中心とする文化と考えている。

パチパチパチ、これでよい。

とはならない。中心があるかぎり、周辺のアイマイ領域がある。

それが、ぶっかけめしをやるときに、露呈する。

先日の、つるかめ食堂歌舞伎町の文にも、おかずで出てきたハムエッグをどんぶりめしにのせて食べたと書いた。

ハムエッグや目玉焼のときによくやるテだが、これは、ハムエッグ丼または目玉焼丼として出てきたものではなく、自分の手で、そのように作ったのだ。これは、食べる準備でもあるが、ハムエッグ丼または目玉焼丼として料理を完成させる作業でもある。そういうことは『汁かけめし快食學』にも書いた。

問題は、「おもてなし」だが、元来は「主」と「客」があっての儀礼や応接といったことに関する文化であり、むかしの公家社会や武家社会の有識故実を継承しているものだろうから、食は、儀礼や応接に従うもので必ずしも中心ではない。歴史的に、その空間は「客間」など特別なもので、食堂や居間ではない。「おもてなし」と「食事」のあいだには、別のメンドウがある。

『大衆めし 激動の戦後史』89ページ、「料亭とは、なんぞや」の項では、日本料理業界団体の文章から「もてなし」に関する引用をしていて、そこには、こうある。

「日本料理はもともと、個室での接待を基本としていますので、そこに仲居さんなり芸妓さんが居て、心のこもった「もてなし」を受けつつ賞味してこそ、日本料理の本当の素晴らしさも発揮されます」

「もてなし」は、日本料理の賞味に不可欠とも読めるが、カクゴの出費が必要だ。それに「心のこもった」というのがクセモノだろう。

でもまあ、日本料理業界は、「おもてなし」がトツゼン脚光を浴び流行語になるはるかまえから、これを日本料理の様式の一環として、それなりの料亭料金を稼いできたわけで、「おもてなし」が流行語になってから、「おもてなし道」なるものを登録商標にして商売の道具にしている連中とはちがう。

ちかごろは、「スーパーコンパニオン」という職業があって、宴会の食事の席について、「心のこもった」もてなしをしてくれるらしい。しかも社員旅行ぐらいで楽しめる。男性体験者から話を聞いたことがあるが、食欲の満足というより性欲の満足で、なかなか、けっこうなものらしい。これも「おもてなし」の、イマに生きる伝統か。

なにかというと「道」であり「心」であり「人」になり、際限のない「向上」をはかろうとする。そのシワ寄せを背負う「人」もいる。

そうではなく、品質とサービスが行われる空間をしぼり、その機能や金銭や労働や時間などを「適切」に組み立てる方法もある。空間を限定し文化を考えることは、そのためにも必要だ。文化は神々しいものでなく、科学的に検討してこそ、世間の生活に役立つ。

話がそれた、いや、なにか結論のある話ではなく、いま「おもてなし」に関する資料を見ていて、頭に浮かんだことを書いたまで。

ついでに、少し前、あるスガれた大衆食堂で、ハムエッグをハムエッグ丼にして食べた写真を載せておく。この食堂は、7人ほど入れば一杯になるカウンターだけで、80歳すぎのおばあさんが1人でやっている。いい店で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」に載せたいのだけど、がまんしている。

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2015/09/21

みちくさ市日和、昼酒日和、泥酔記憶喪失帰宅。

昨日は、わめぞ一味が頑張っている、鬼子母神通りみちくさ市へ行った。みちくさ市は30回目だそうだ。けっこうなことだ、そして、絶好のみちくさ市日和。ひさしぶりに少し暑いぐらいで、昼酒日和でもある。

まずは池袋のふくろで一杯。13時近くに入ったが、この時間は一階しかやっていないから、ほぼ満席状態。瓶ビールからチュウハイ。いい気分でみちくさ市会場へ。

目白通り側から鬼子母神通りにはいると、すぐ柏のジモトワカゾー野菜市が出店していた。知った顔の五十嵐さんの教え子も店番をしている、五十嵐さんも来ているが昼食を食べに行っているとか。雨続きの影響で青物はない。サツマイモを買い、ぶらさげて歩く。

知っている人たちがけっこういるから、挨拶とおしゃべりをしながら、先へ進む。けやき並木の入口のところには、いつものように第2本部の店がある。いつものように、退屈くんと武藤さん。

武藤さんに、打ち上げに出ないかと誘われる。どうしても出ろという。そういえば、しばらく出てないし、酒飲み日和だし、出ることにする。しかし、始まるのは18時半だ。どこかで酒を飲んで時間をつぶそう。

来た道をもどる。来るときは見かけなかった塩爺がいた。やはり天気がよいと売れ行きもよいようで、ホクホク顔。と、五十嵐さんに肩をたたかれる。一年以上会ってない、あれこれ立ち話。来月上旬に柏で開催の、『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』ナイトII 久松達央×五十嵐泰正に行くことになっている、その話も。おもしろいトークを聴けそうだ。楽しみ。

けっきょく、古本を三冊、それからウチの米が切れているのを思い出し、ジモトワカゾーでコシヒカリ1キロを買う。本とサツマイモと米を持つと、けっこう重くなった。さて、3時間近く、どこで過ごすか。時間があるから、ひさしぶりに日暮里のいづみやへ行くことにする。

ここも、ほぼ満席。ま、日曜日だから、昼酒飲んでいるひとが多くても不思議はない。相撲中継を見ながら、デレデレ飲む。隣の席の男2人は、話の様子からするとスポーツ紙の仕事をしているようで、相撲についても詳しい。その話が、ちょうど酒のツマミにもなる。

ここの酒は、相変わらず安い。つまみも安いが。瓶ビールからホッピー。けっこう飲んだ。このまま打ち上げに突入したら酔い過ぎる、少し歩いて醒まして行こう。谷中から上野公園を抜け、上野駅へ。池袋に着いたら、ちょうど18時20分。

さあ、それからが大変だ。けっきょく、酔い過ぎた。ようするに飲んだ、飲んだ。途中から紹興酒がぶがぶ。

そうそう、この日は、みちくさ市連続講座「「作品と商品」のあいだ~表現という仕事のリアルな現場の話~」も同時開催で、それが終わってからのひとも加わり、40人をこえていたか。種々雑多な人たち、もうにぎやか、いつものことだが、わいわいカオス状態。それが、いいんだな。

遅れて参加の、ポポタムの大林さんや前田チン君と話していたのは覚えているが、記憶が断片から喪失。この写真、武藤さんが、21時21分にツイッターにアップしている。まったく記憶がない。

GOINGの素生さんは連続講座からの流れらしい。この3人には、共通点があって、同郷つまり新潟県出身、しかも近い。ようするに魚沼地方。そして、素生さんは、ここ東大宮から近いところに住んでいるのだ。という話をしていたのは、覚えている。

泥酔記憶喪失で帰宅したのだが、途中でアイスクリームのピノを買ったらしく、それがなぜか玄関に置いたままで、あとから帰ったツマが見つけ、溶けてしまったやつを、また冷凍庫に入れたとか。それを先ほど食べたら、とても不味かった。一度溶けたやつはダメだ。

そういうことでした。

それでは、最後に、わめぞの大将、早稲田の古書現世の向井さんが、「自分は前から「この曲が合う場所」を作りたい、というのがあって。それがGOINGの「ダイアリー」という曲なんです」という「ダイアリー」を。
https://www.youtube.com/watch?v=avrdpPNsufo

みちくさ市、わめぞ、いい感じだ。もっともっと続いてほしい。

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2015/09/20

家飲み、外飲み、町飲み。

きのうのブログで歌舞伎町にふれたからか、歌舞伎町のことを考えながら、「町飲み」について考えた。おれは、歌舞伎町という町が好きだから、歌舞伎町で飲んできた。これは単なる「外飲み」ではなく「町飲み」というものだ。

町飲みという言葉は、ほとんど使われることがない。インターネットで検索しても、いまのところ、ヒットがない。

しかし、おれの場合、確かに、「家飲み」でも「外飲み」でもない、「町飲み」というのがある。

飲食店で飲むことを「外飲み」といわれるが、これは「家飲み」に対する言い方で、「町飲み」は含まれていない。空間的にみれば、「町」と「店」は、あきらかにちがう。

そして、店は、町の空気を遮断し独自の方針のもとにコントールされた空間であるばあいと、大衆食堂のように、そういうコントロールは弱く、町との風通しがよい店がある。

おれは、いつも後者を好んでいる。

よく「いい人いい酒いい料理」という言い方があるが、これは町とは遮断された店の空間で成り立つことだろう。

以前に、このブログで「いい人いい酒いい料理に頼ることなく、自ら楽しく飲む人間をみがく。」と書いたが、これは、家飲みと町飲みのことになるだろう。「みがく」というのは、偉そうすぎるけど。「いい人いい酒いい料理に頼ることなく、自ら楽しく飲む人間でありたい」ということだ。

そのように家飲みと町飲みは共通するところがあるが、やはり「町飲み」は家飲みとも違うものがある。

店の方針でコントロールされた空間では、どうだ、おれの店のサービスや客や料理や酒はいいだろうという物語がある。それに対して、うんうん、おれはそれをわかる人間だからねと、お互いに「特別」であることを確認しあう儀式のようなものが陰に陽にある。

個人店ほどそれが強いが、チェーン店だって、それぞれの方針に応じてある。それは、店のイメージづくりや、固定客やファンづくりに関わることでもある。客は、たえず、それとの関係を意識せざるを得ない。そして「いい人いい酒いい料理」という言い方になり、それを評価できる自分がいる、ってことじゃないと「いい」グループに入れないし、「いい」グループに入るべく切磋琢磨するひともいる。

人間は、そういう関係をつくって商売したり楽しんだりするものかもしれないが、一方では、人間として、それでよいのか、それでは市場に飼いならされた動物ではないか、そういうものではないだろう、もっと店のコントロールから自由に、人間として個人として自由に楽しみたい。となったら「町飲み」なのだ。

そう「都市が個人を自由にする」という言葉があるように。

では、町飲みとは、どういうものか、もっと考えてみよう、ということで、昨夜は家飲みしながら考えた。「外飲み」にも、店を選ぶばあいと、町を選ぶばあいがある。

今日は忙しいから、忘れないうちに、これだけ書いて、オシマイ。

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2015/09/19

東京新聞「大衆食堂ランチ」35回目、新宿・つるかめ食堂歌舞伎町店。

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歌舞伎町では若いころヤーさんの暴力沙汰に巻きこまれ、ひどい痛い目にあったこともあるが、だからといってコワイ町だと思ったことはない。なんだかんだいって、1962年春の上京以来、金銭、回数、時間、ともに、もっとも注ぎこんだ町だと思うし、居心地のよい好きな町だ。といっても、風俗のほうは趣味でなく、もっぱら飲むのだが。

なかでも、この、つるかめ食堂がある一角、つまり、靖国通りとそこから元のコマ劇場へ向かう通り、コマ劇場の通りと新宿区役所の裏通りに囲まれた地域は、1962年春の一番早くから足を運んだところだ。

初めて行ったのは、つるかめ食堂の周辺に、うたごえ喫茶が2,3軒あったからだと記憶しているが、そのうち立ち飲みの店を覚えたりして、しだいに回数が増えた。とくに70年代始め、小田急沿線から市ヶ谷に通勤するようになってからは、ほぼ毎日という状態になった。74年だったか、数ヵ月ほど、政治の仕事の関係で靖国通りの選挙事務所に通勤するようになり、投票日前3か月ほどは一晩おきに泊りもあったので、ますます入り浸りになった。

ごく最近閉店したバー「フロイデ」などは、長い付き合いだったが、あそこがなくなったのは残念だ。ゴールデン街をはじめ、この町が、小市民的な居心地の良さを求め明るさと安全を演出するにしたがい、消えていった猥雑な新宿ならではの饐えたニオイを抱えていたバーだった。

歌舞伎町は「居心地」一つとっても、多様性や多文化主義、寛容と非寛容、そして自由と近代などについて、考えを磨くのに、とてもよい場所だ。

と書いているときりがない。

最初のころ、つるかめ食堂の前は何度も通っているのに気がつかなかった。なにしろ、この通りはうす暗かったし、いまでもそうだが、いまよりもっと、木造の間口の小さい店がゴチャゴチャ並んでいるところで、飲みに行く店が決まっていたから、あまりほかの店には注意を払っていなかったのだ。西口のションベン横丁(現思い出横丁)にある、つるかめ食堂で聞いて、この店を知った。

今回、ここを取りあげようと思ったのは、2015/09/05「豪雨の歌舞伎町で考えた。」に書いたように、日本最大の暴力団組織の「分裂」をめぐり、さまざまな憶測や妄想がながれ、歌舞伎町は「血の抗争」が起きてもおかしくない状態だから、「銃撃事件が起きたら、通行人が巻き添えになる危険もあります。サラリーマンは歌舞伎町の裏道を歩かないほうがいいでしょう」とか、風評被害を生みかねないことが話題になっていたからだ。

まったくモノカキというのは無責任な動物だけど、キレイゴトの甘いことは言わずに、キビシイ辛いことをいって煽っていれば信用される世間というのもどうかしている。

つるかめ食堂歌舞伎町店は、よい食堂だ。大歓楽街の真ん中にあって、店の前に植木鉢をならべる風景は箱庭的で、下町の裏通りを連想させるが、単なる見てくれの演出でないことは、ここで食事をしてみればわかる。

最後になったが、きのうは第3金曜日で、月一で東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だったのだ。すでにWEBサイトで、ご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2015091802000186.html

連載は、これでちょうど3年がすぎ、来月から4年目に突入。ま、才気走ることなく、凡庸に続いています。

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2015/09/18

自己顕示欲や承認欲求と食。

2015/09/12「瀬尾幸子さんの「料理レシピ本大賞」と新宅陸仁さんの「食とアートのくされ縁」。」の関連で書くのだが、「食とアートのくされ縁」トークで、新宅陸仁さんは「表現のテーマは食でなくてもよい、自分は自己顕示欲と承認欲求が強いだけなので、テーマはなんでもよい」というようなことを言った。

つまり、テーマにこだわりはないが、自己顕示欲と承認欲求が満たされやすいテーマとして食を選んでいる、というふうなことだったと思う。「表現」を仕事にしているひとには、けっこうありがちなような気がする。

酒も含め「食」のことになると、食欲を否定的に語ることも含め、たいがいのひとが関心を持ち、一過言持っているひとが多いし、興味を持たれる確率が高い。「おいしい」「職人仕事」「丁寧」「粋」な話をしていれば無難だし、さらに、ネタによっては、その表現は、ときどき感動ポルノに化けやすい。ひとに注目され、認められ、チヤホヤされ、いい気分でいるためには、食をテーマにすると、てっとり早いといえる。

「無名時代」つまり、まだ「名前」だけでは売れない時代は、食をテーマにし、売れるにしたがいテーマを広げたり移動したりし細工したりし、最終的に「作家」として認められたい。という文章系のひとも、けっこういるようだ。

背景には、あいかわらず「作品作家主義」が根強いこともあるだろう、そういうタテの上昇のための踏み台のテーマに、食は選ばれやすいわけだ。

文章系や美術系に限らず、食をテーマにした表現の前面に、うっとうしいほど、自己顕示欲と承認欲求が出ている場合がある。だけど、ひとによっては、表現技法がうまければ、うっとうしさを逆手にとって、魅力にできる。そういうひともいる。

新宅さんのばあいは、そうは言ったけど、展示の作品「カップヌードルの滝」を見たかぎりでは、そんなに自己顕示欲や承認欲求が強い印象はなかった。それは、美術であるからかもしれない。展示会場では、新宅さんのブログから選ばれ編集された『むろん、どこにも行きたくない。』というタイトルの小冊子が、できたてホヤホヤで売っていたから、買って来て読んだのだが、こちらのほうは、少し、その「欲」がにおう。悪くはないが。

文章のほうが、「欲」が出やすいということがありそうだ。

文章が権力的・権威的である歴史が、根強いからだろうか。非近代的な事大主義も根強いな。「作品作家主義」は、その歴史に負うところが大きい。

いま、日本の「民主主義」が問題になっている。食と民主主義は大いに関係あると思うのだが、そういう話にまで、いくだろうか。

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2015/09/16

東大宮で13時から18時ごろまで飲む。

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キッチンうろ覚えで、14時から22時ごろまで飲んで泥酔記憶喪失帰宅した翌日の14日は、二日酔いだった。しかし、13時に、東大宮のぎょうざの満洲で待ち合わせて飲むことになっていた。相手は、Uちゃん。

Uちゃんは、東大宮でバーと日本酒居酒屋とイタリアンの店を経営する会社の役員で、32歳。若いし体力十分、もちろん、酒も好きだし強い。で、まあ、またすごく飲むことになった。

飲食業界、流通業界、カリスマ経営者たち、チェーン理論や渥美俊一の影響、チェーン展開の規模と考え方、事業と社会貢献、Uチャンがこれからやりたい店、などなど、ちかごろこういう話をする人たちと飲む機会がないこともあって、大いに話がはずんだ。

餃子だの麻婆豆腐だのメンマだの各種中華をつまみながら、生ビール、チューハイ、紹興酒。ぎょうざの満洲でこんなに飲むのは初めて。しかも、気がつくと、16時すぎている。そろそろ鉄砲屋が開くころだ。

16時半すぎ、鉄砲屋へ移動。ここでは、たいがいホッピーなのだが、なにしろ、前夜の酒が残っているうえに飲んで、もうあまり飲みたい酒がない。初めてといってよいだろう、酒のメニューを念入りに見ると、なんと、バイスサワーがあるではないか。8年近く通っていて、バイスがあるのを知らなかったとは。

ってことで、バイスサワー。バイスはコダマ。このおかげで、鉄砲屋へ行く回数が増えそうな予感。

しばらくぶりに入った鉄砲屋は、店長が替わっていた。前の店長は6月ごろやめたらしい。替わって、以前店長の下にいた若い男が店長になったようで、それに、初めて見る若い女が2人という体制。

バイス、中おかわりしながら2本空けたまでは覚えているが、あとははっきりしない。18時すぎごろまで飲んだろう。モウロウヨレヨレ帰宅。

昨日は、三日酔いという感じだった。校正など、なんとかやらなくてはならないことは片づけたが、何もやる気がおきず、デレデレデレ。


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2015/09/15

非公式物産展【キッチンうろ覚え】アフリカ旅行編trial&errorの日。

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13日の日曜日は、前の日曜日に行われたlecture&meetingに続いて、実際に料理を作って食べるtrial&errorが行われた。会場は、同じ、荒木町のアフリカンバルtribes。

おれは14時ごろ会場に着いた。会費500円を払う。非公式物産展の大村みよ子さんは、前回のlecture&meetingのテープ起こしを徹夜して6ページにまとめ、資料として配布。これは、よい資料だ。おれは、前回の様子をこのブログに書いたけど、記憶だけで書いているから間違いがあり、、野暮酒場さんのアフリカ滞在が3カ月のところを1カ月半と書いたりしている。

調理人の3人は、すでに調理場で作業をしていた。まずはビール。この前は売り切れになっていた、モロッコのカサブランカ。店内は少し蒸し暑いから、テラス席に陣取り、飲みながら、その資料を見る。いい気持だ。

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まず出来あがったのは、rezzyさんによるセネガルのプレヤッサ。鶏肉、玉ねぎ、長粒米、マスタード、レモン、黒こしょう、油。

見た目は黄色く、タマネギと鶏肉のカレーといった感じだが、カレー料理ではない。食べると、じつに素朴な味わいのなかに、マスタードの味が漂って、なかなかいいアンバイなのだ。

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007調理場は狭いから、一度には作れない。つぎは、野暮酒場さんのアジフライぶっかけめし。モザンビークで食べたものだ。この日、材料を買った近くのスーパーの中アジはブランド物しかなく高いので豆アジを使った。そのほうがよかったと思う。豆アジの内臓をとり、3つにぶつ切りにして素揚げ。骨まで丸ごとカリッと食べられた。

使用の材料は、アジ、長粒米、玉ねぎ、トマト、パクチー、青唐辛子、ターメリック、ココナッツ缶、レモン、塩、こしょう。ターメリックライスは、最初はココナッツを使わず、2回目は使ってみたものを食べた。ココナッツを使うと、まろやかなタイ料理の味わいという感じになった。

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それはまあ、タイ料理とココナッツミルクという刷り込みがあるからで、食べ物のイメージは、ずいぶん知識や情報に支配されているということだ。

ricoさんは、アメリカにステイ中に食べたチキングランナッツシチュー。ガーナ料理で、使用の材料は、鶏肉、ピーナッツバター、玉ねぎ、マギーブイヨン、塩、こしょう、トウガラシ(粉)、にんにく、しょうが、トマト缶。

濃厚かつスパイシー。バケットが二切れついてきたので、これをちぎってシチューに入れて食べた。パンをちぎって、カレーやシチューのなかに入れて食べるのは、以前、スリランカ人に教わったのだが、これがなかなかよい。ま、パンのぶっかけめし的食べ方ですな。

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自分はアフリカ料理にどんなイメージを持っていたのだろうか。なんだか、やはり、「文明」から遠い「野生」をイメージしていたのだろうか。考えてみても、わからない。記憶は、変化しながら人からひとへと伝わり、滞留し、あるいは流れていく。料理は、食べたら無くなるけど、記憶や記録をもとに再現される。再現されたものは、完全なコピーであることのほうが、珍しいだろう。つまり、再現された時点で、再現した人の料理になる。キッチンうろ覚えは、その変容と受容の現場にいるようだ。そんなことを、あーでもない、こーでもない考えながら食べるのも、面白かった。

とにかく、こんどは、マスタードを使った料理をやってみようと思った。ターメリックライスもやってみたい。

2時から、どれぐらい飲んだか、ビールにワイン、かなり飲んだ。そして、夕方5時ごろまでだったかな、そのあとは、野暮2人と前回同様、四谷新道の竜馬へ。野暮1人が加わり、またまたかなり飲んで、もう記憶が失われかけたころ、片づけを終えた野暮酒場さんと非公式物産展さんが加わり、お疲れさまでした~。

どうやら22時近くまで飲んで、泥酔記憶喪失帰宅だった。

翌日、きのうだが、二日酔い。しかし、13時から東大宮で飲むことになっていたから、出かけて、たぶん18時ごろまで飲んだのではないかと思う。もうヨレヨレ。その件は、また。

当ブログ関連
2015/09/08
非公式物産展【キッチンうろ覚え】アフリカ旅行編lecture&meetingの日。

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2015/09/12

瀬尾幸子さんの「料理レシピ本大賞」と新宅陸仁さんの「食とアートのくされ縁」。

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「賞」なるものには興味がなく、芥川賞も直木賞も、だからどうだっていうのって感じなのだが、瀬尾幸子さんが受賞した、「料理レシピ本大賞」は、いいねえと思う。

というのも、受賞作が、『ほんとうに旨い。ぜったい失敗しない。 ラクうまごはんのコツ』(新星出版社)だからだ。

瀬尾さんは、『おつまみ横丁』が上下で100万部をこえ、一躍売れっ子スターという感じになったが、この「つまみ」というのは、日本料理業界でも料理レシピ本業界でも、「傍流」に位置付けられていて、つまり「料理の本流」とはみなされていないのだ。

『大衆めし 激動の戦後史』に書いたように、なにかというと「日本料理の二重構造」の悪しき因習というか偏見というかが残っていて、普段の食事の「おかず」なども料理のうちに入らない扱い、大衆食堂のおかずが日本料理なんてトンデモナイ、というメインストリームの世界が依然としてある。ちかごろ、なにかというと「おもてなし」や「丁寧」を強調するアレなんかだが。

そのなかで、「ラクうまごはんのコツ」の受賞なのだ。今回が二回目の開催で、まだ始まったばかりの小さな賞とはいえ、これは面白いことだと思う。

この選考の仕組みはよくわからないが、サイトを見ると書店員の参加もあるようだ。二重構造の料理界の権威より、生活の実態を反映しているといえるだろう。

料理レシピ本大賞のサイト
http://recipe-bon.jp/?p=2193

最近、瀬尾幸子さんは、ちくま新書(カラー)から『これでいいのだ!瀬尾ごはん』を出版された。いただいたまま、まだ読了してないのだが、「作るにしても、食べるにしても、がんばらなくてよし!」「簡単な料理と、手を抜いた料理は違います」「料理とは、食べられるようにするだけのこと」「自分で考える力をつける」「買い物は狩りである」「がんばって作る料理は、体と心をくたびれさせる」「料理をつくることは、生きること」といった言葉がある。

こういうことが、料理をめぐって堂々と主張できるようになったのは、大いにうれしいし、「生活料理」に軸足を置いているおれとしては、これからが楽しみだ。

が、しかし、まだまだ、なのだ。

003瀬尾さん受賞のニュースは、発表会があった昨日の夕方、ある書店員の方がメールで知らせてくれた。おれは出かけてしまったあとだったので、今朝、メールを見て知ったのだが、出かけた先は谷中、新宅陸仁さんの個展「カップヌードルの滝」のオープニング+トークイベント「食とアートのくされ縁」だった。

新宅さんは1982年広島生まれで、2005年に九州産業大学芸術学部美術学科卒業し、2013年に新宿調理師専門学校調理師本科を卒業している。

「食とアートのくされ縁」は、新宅さんと花房太一さんの対談で、冒頭、新宅さんが配布の資料をもとに自己紹介と、今回の作品意図ノヨウナモノを話した。その資料には、調理師学校の「調理祭」という、卒業料理の展示会の様子と受賞例の写真があった。新宅さんは、この写真の話から始めた。

それは、調理祭の料理は、どれも「美しく」飾られているが、味付けはされてない、食べられない、見た目だけなのだ。

新宅さんは、日々の授業では先生がナスのヘタも捨てないで料理することをドヤ顔で話していたのに、卒業料理は見た目だけで味は関係ない、そして、終わったら捨てられるだけだった、そこに違和感のようものを感じたという。

そこで彼は、美術というのは、片方では何か捨てるものであると気づいたらしい。そのことは、カップヌードルを食べたあとの割り箸を高く積んだ(といってもカップヌードルをそんなに食べたわけじゃなく、割り箸を割って積んだのだけど)、今回のインスタレーションとも関係あるようだった。

が、おれは、ああ、調理師学校というのは、あいかわらずなんだなあ、まだむかしのままを繰り返しているのかと思ったのだった。二重構造の権威のほうは、あいかわらずなのだな。

時間がなくなったので、今日は、ここまで。

「カップヌードルの滝」も「食とアートのくされ縁」も、なかなか興味深いものがあった。花房太一さんの話も、想像を刺激しふくらませてくれた。食の面白さは、無限だね。この件は、あらためて書く、ツモリ。

そうそう、インスタレーションなんていうと小難しそうで、おれは「立体美術」ぐらいにしか考えていないが、写真撮るのが、ずいぶん難しい。なにしろ、ここには、ズルズル、カップヌードルをすする音まで流れていた。音は、撮影できない。滝のようにカップヌードルを食べ、あとに割り箸が残る(ほんとうはカップも残るのだが、この作品になるまでは食べてないから、10コほど)、割り箸からでも実際のマスをイメージすれば、「カップヌードルの滝」はすごいものだ。

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2015/09/11

「ワインブーム」と「日本酒ブーム」なるもの。

「まち」の資料と共に、「酒」の資料もあれこれ、見ている。

米の自主流通米制度の導入と、ワインブームが、その後のあることに関係するんではないかということで調べてみたら、ドンピシャ、という感じだった。

1969年 自主流通米制度

1972年 第一次ワインブーム(本格テーブルワイン市場開幕)
1978年 第二次ワインブーム(1000円前後のワインが人気)
1981年 第三次ワインブーム(地ワインブーム)
1987~90年 第四次ワインブーム(ヌーヴォー&高級ワイン)
1994年 第五次ワインブーム(ワンコイン低価格ワイン登場)
1997~98年 第六次ワインブーム(赤ワインブーム)
2012年~ 第七次ワインブーム(低価格輸入ワイン市場拡大)

これに、日本酒や焼酎のブームをからめてみるのは、これからだが、ワインブームについては、その根拠になるデータが消費数量からも明確で、上の推移はキリンのサイトにも載っている。
http://www.kirin.co.jp/company/news/2014/0903_02.html

焼酎ブームも、あるていどは、数量的な裏付けが可能だ。

ところが、最近、「日本酒ブーム」といわれたりするのだけど、こちらのほうは、少し事情が複雑なようだ。

SAKETIMESのサイトに、「日本酒ブームの光と影。消費量から見る日本酒業界の現状」という記事があって、なかなか興味深い。
http://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_promlem_on_boom

著者の内藤酒造の内藤俊さんは、「私の持論となってしまいますが、特定名称酒が普通酒に比べてより優れているなどという考えを皆さんにはしてほしくはないのです。それぞれに個性があり造り手の思いが入ったお酒に違いはないのですから。場所や状況に応じて普通酒がベストなシーンがどこかに眠っているかもしれません」と述べている。大いに同意したい。

「純米酒ブーム」をもって「日本酒ブーム」といえるか。なにかというと、なにごとにつけても、ありふれた大衆消費レベルより上位文化にスポットをあてて語りがちだが、とくに日本酒については、いろいろハッキリしないことが多いから、注意が必要だと思う。どこに根があるかを見極めないと、上滑りに終わる。

煽られず、煽らず、あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい。

ってあたりで時間がなくなったので、これまで。

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2015/09/10

もっと近代を消化して先へ進みたいものだ。

根をつめて「まち」がらみの資料を読んでいたら、くたびれた。けっきょく、ようするに、近代を消化できないでいるために、より複雑になっているってことが、いろいろあるのだな。

食については、もうたくさんあって、たかがカレーライスの歴史にしても、近代を消化しきれないままだし、だからこそ「近代日本食とは何か」が問われるのだけど。

食における「手づくり」「職人仕事」崇拝の背景も同様、近代の、とくに合理を消化しきれないがゆえの近代への反発がある。産業化、機械化、工業化、大きな組織=「悪」。これに対して「善」として、手仕事、職人仕事、小規模生産と商いが、ロマンとしてある。

その根っこには、儒教思想の影響があって、これを克服するのは、大変だ。とくに、その垂直的価値観が、しっかり根をおろしているし、「手づくり」「職人仕事」崇拝の根っこは深いのだな。ってことを、イヤというほど、感じざるを得ない。

「まち」をめぐっては、近年「小商い」というのが注目されているようだけど、昔からまちは、中小零細業者で成り立っていたのに、なぜこれがいまさら話題になるのだろう。商店街が激退しているからか。

そこには、あいかわらず、近代を消化しきれてないロマンがあるようにも思える。近代的な企業組織やシステムへの反発もあるようで、それをさかのぼれば、けっきょく江戸の商人職人みたいなことになってしまう。

ま、「江戸しぐさ」なんていうインチキもあるのだが、食の分野でも江戸回帰に類することは、何度も繰り返し蒸し返され話題になりやすい状態が続いている。

いったい、いつになったら、この近代を消化して先へ進めるの?という感じ。

もっとも、少し前に紹介した、『小さくて強い農業をつくる』の著者の久松達央さんのように合理の人もいるけど、「小商い」が目的のわけじゃない、ちょっとちがう。「ソーシャル時代の新しい有機農業を展開」のための「小さくて強い農業」であるし、図体だけ大きくて中身は旧態依然の組織より、はるかに近代的な手法やシステムで動いている。

ある意味では、「大」か「小」かより、大事なことがあるのだ。近代に生きるとはであり、近代的経営とはであり、それを自分のものにできるかどうかという。近代を消化していけば、そういうことになるだろう。

あと、「まち」の関係者がよくいう、まちの再生なり活性化の成功のカギをにぎるのは「わかもの、よそもの、ばかもの」という話だが、それは、地域や業界に固く根をおろしている垂直的価値観があって、その固い殻を破って行動する力となるからだろう。それはそれで、けっこうなことだが、ひとり一人が、もっと近代をキチンと消化して、先へ進むことを考える必要があるのじゃあんまいかと思ったのだが。

そういうことにも「近代日本食とは何か」を考えることは大いに役立つはずだ。とくに「ぶっかけめし」なんぞは、しつこい垂直的価値観を蹴散らすものだしね。

近代のフリをした、旧態依然の思考やモロモロが多すぎる。

当ブログ関連
2015/06/06
生きることが批評である生き方、『小さくて強い農業をつくる』久松達央。

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2015/09/09

下北沢で打ち合わせ飲み。

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6日の日曜日に泥酔記憶喪失帰宅した翌日の7日は、二日酔いは身体がだるいていどでたいしたことなく、18時から下北沢で打ち合わせだった。

下北沢の駅は地下化の工事中だし、周辺もどんどん変わって、ただでさえ入れ替わりが激しかった街は、もうどこが変わったかも判然としない変わりよう。

アルシーヴ社で待ち合わせて、近くの居酒屋へ。都市のしくみとくらしの研究誌『city&kife』の原稿の打ち合わせなのだ。

同誌の最近の特集は、「新しいパートナーシップ PPP>PFI>コンセッション方式」「新しい図書館」「空き家 家と暮らしと地域のこれから」というぐあいに、あいかわらずビビットなケーススタディが中心にまとめられている。

比較的新しい連載、スキマ探検隊による「スキマファイル」が、すごく面白い。

で、次号は、酒が関係するのだけど、少しテーマがバクゼンとしているから、うまい酒を飲みながら絞ろうとなったしだい。

いま、「地方創生」とかで、いろいろ税金も動いているのだけど、なにしろタテ割り行政もあって、「まちづくり」だの「まちおこし」だの「地域おこし」だの「地域活性化」だの、わけがわからない。

しかし、考えてみると、ワザワザそのような予算を組んでやれば、うまくいくのかという気がしないでもない。普通に地域の産業や暮らしが成り立つように税金を使ってきて、うまくいかないのなら、どこかおかしいところがあるわけで、それをそのままにして、「地方創生」の予算を組むというのは、なんか筋がちがう。という気がするのだが、そういうことは、このことに限らずあるわけで、根本的なところから、いろいろ動きが激しいわけだ。

それはともかく、陸奥八仙から初めて、何種類かの清酒を飲み、80年前後ぐらいからの酒と飲酒のマーケットの動き、それと地域の関係を、ああでもないこうでもないと話しているうちに、なんとなくテーマは絞られた。

あれこれ話しているうちに、最近おれも気になっていた「洗練しすぎ問題」になり、なぜそういうことになってしまうのかという話は、クックパッドやサノケンさん問題のことも含め、なかなか面白かった。この話が一番おもしろかったかな。

リーズナブルやスタンダードがない、青天井の「洗練しすぎ」は、いま日本人が背負っている一つの不幸というか。

より洗練をめざし、お互いの首を絞めあいながら縊路にはまる構図から脱却し、オリジナルな地平が拓けるか。それができないから、コンニチの事態になったのではないか。でも行き詰まれば、ほかの道を探すしかないだろう。でも、「洗練しすぎ」になれた感覚や思想で可能か。気が付いている人は、まだ日本の体力が残っているうちにと考えている人もいるようだが、なかなか難しい。それにもう「体力が残っている」といえる状態でもないような。あれこれ、あれこれ、悩ましい。

ちかごろ都内の酒場は2時間の時間制限があるところが増えているようで、それは、安くうまくを成り立たせるために必要なことでもあるらしいし、だいたい、おなじ店で2時間すぎてもデレデレ飲んで、店も客もいいことはない。と、おれも思うようになった。

ということで、2時間過ぎたところで、おひらき。2時間飲んだぐらいじゃ充ち足りない身体は、さらに飲みたがるので、安全圏の東大宮に着いてから、ガルプキッチンで飲んで、無事に帰宅。トシのせいか、二晩続けて遅くまで飲むと、くたびれる。

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2015/09/08

非公式物産展【キッチンうろ覚え】アフリカ旅行編lecture&meetingの日。

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6日(日)は、非公式物産展【キッチンうろ覚え】アフリカ旅行編のレクチャー&ミーティングの日だった。これは、13日(日)に、うろ覚えのアフリカ料理を実際に作って食べるための、「公開打ち合わせ」。ドキュメンタリーを生で見ている感じで、すごく楽しく収穫もあった。

アフリカ旅行をした2人と、アメリカでホームステイの最中にアフリカ料理を食べた1人が、うろ覚えのそれを思い出そうとする。非公式物産の大村みよ子さんが、それを黒板に書いていく、そばで会場であるアフリカンバル tribesのオーナー石川さんが、さまざまなレクチャーというかアドバイスをして、3人が思い出そうとするのを助ける。

料理がどう記憶され、伝播するか、とくに記憶がどう上書きされていくかの生の場面であり、なかなかスリリングでもあった。

当日は、地下鉄四谷三丁目駅から歩き、新宿通り側から荒木町の飲食店街に入った。こちらから入るのは、初めてだ、しかも昼。日曜日ということもあり、駅周辺から閑散としていた。

13時スタートだったが、おれは15分ほど遅れた。店の前のオープンテラスで、ちょうど始まるところだった。

015非公式物産展の提灯がぶらさがり、アフリカの地図や地球儀、それに注文したアフリカのビールなどが配置され、雰囲気も上々。

うろ覚え調理人3人。RICOさんはアメリカ・メリーランド州シルバースプリングでおそらくガーナ料理と思われるチキンのグランナッツシチュー、rezzyさんはセネガル・ダカール州ゴレで食べたプレ(チキン)ヤッサ、野暮酒場さんはモザンビーク・マプトの市場の安食堂で食べたアジフライぶっかけめしを作るツモリだ。

石川さんが地図でその場所を示しながら、その国の人口や歴史などを話す。セネガルとガーナは大西洋側で、古くからラテン系ヨーロッパの国々の支配が強かった。モザンビークはインド用に面し、やはりラテン系ヨーロッパ(ポルトガル)の支配があったが、インドや東南アジアとの交易も盛んだった影響が町並などにも残っている。

話を聞いていると、ラテン系の支配があった地域は、やはりクレオールの文化や料理との共通性もありそうな印象があった。

016野暮酒場さんの場合、約1年3カ月かけてのバックパック旅行の最中、1997年にエジプトに入り、当時は内戦があちこちであった時期だが、スーダンは危険なので飛行機で通過、エチオピアから海岸沿いに下りモザンピークに着いた。アフリカ滞在は、一ヵ月半ほど。

途中の国々は、ラテン系とはちがいイギリスの植民地だったところであり、めしは口に合わなくて、マズイだけだったが、モザンビークに入って、やっと「うまい」といえるめしにありついた。それが、東南アジア料理のような趣があって、とても懐かしく感じたという。

彼が克明に記録した手帳には、ちゃんと「アジフライぶっかけめし」と書いてある。もちろんこれは正式名称ではなく、黄色いスパイシーなサフランライスのようなものにアジフライがのっているだけだったが、それを彼は、「アジフライぶっかけめし」と呼んだのだ。ちなみに、おれの『ぶっかけめしの悦楽』は1999年だから、まだ読んでなかったという。

彼の記憶で確かなのは、長粒種の黄色いライスと、その上にのっかったアジフライだけで、そのほかのことはアイマイだ。そこを石川さんのアドバイスを受けながら、さぐる。石川さんは、何かソースのようなものは使わなかったかと聞くが、思い出せない。ライムのようなものを絞ってかけたのではないかというと、そういえばと思いだす。といったぐあい。

そのようなミーティングの結果、黒板の野暮酒場さんのところには、大村さんによるこのようなメモが残った。

モザンビーク、マプト、インド文化入っている町並が面白い、2139万人、内戦後1997年、50円弱、・米(長い)ターメリック、ココナッツ缶、・アジ素揚げ ・トマト、ライム(レモン)、アーリーレッド(むらさきタマネギ)、チリ、パクチー、青とうがらし、・サラダ油

アジの素揚げに使われた油は、ヤシ油の可能性が高いが、入手価格の関係もありサラダ油を使うことにした。アーリーレッドは入手が難しいので、日本のむらさきタマネギに。ついでにパクチーを入れた方がうまそう。というふうになったのだ。

こんなふうにして、それぞれの、うろ覚え掘り起こしがされた。途中で、よくわからないソースを、石川さんが、タマネギやトマトなどで、ちゃちゃっと作って、これでしょうと差しだしすと、試食してみた調理人が「これ!」と思いだす場面もあった。

018こうして、なんとかレシピになりそうなものができたところで、買い出しのためのリストを作る。やはり、調味はタマネギとトマト、それにマギーが、共通のベースだ。来客数や単価などもはじき、だいたいの予算もできた。

もう打ち合わせも終わるころ、途中で雨が降り出したので、店内に移動。

石川さんが、アフリカ政府観光局の認定を受けて店で作っているソーセージで、ホットドッグを作ってくれた。500円。これが、うまかった。量もタップリ。ソーセージの肉は羊がベースだけど、いろいろ混ざっている、ワニの肉も入っていたかな?それに、スパイスいろいろ。ソースは、やはりタマネギとトマトがベースで。

会場では、ビールをだいぶ飲んだが、当然さらに飲みたい。終了後は、野暮酒場さんと、ほかの野暮2人と四谷新道の竜馬へ。さらに、もっと飲みたいと、野暮1人脱落のち、浅草橋西口やきとんへ。結果、泥酔記憶喪失帰宅だった。

そうそう、1987年、RICOさんはアメリカ・メリーランド州シルバースプリングに1年ぐらいホームステイで滞在し、そのあとも訪問しているのだが、その家庭の台所の写真が、面白く、いろいろ考えさせられた。取材された台所の写真とちがい、ステイしていた人が撮ったからか、驚くこともあったし、生活や生活の考え方まで、想像できるのだった。

あと、RICOさんの専門の関係でもあり、アメリカの「編集」という職業の仕組みが、ちょっとだけだけど聞けたのもよかった。おれは必要があって、80年前後に、アメリカのデザインと写真の仕事の仕組みと料金について調べたことがあるのだが、そのとき編集についても少しだけ情報があって、日本で考えているのと、まるで「構造」から違う印象があり、そのことを思い出した。

ずいぶん国際化され、多様化や多文化主義もいわれてひさしいが、まだまだ国内だけの偏狭な価値観に凝り固まった脳ミソで、人間や仕事や飲食を見る傾向が圧迫的に存在するから、こうして国境を超えた話をしていると、視野がドバッと広がり解放的な気分で、さまざまなことを見直せるから、とても刺激的だ。

日本人としては「正しく」ても、人間としてどうかということは、たくさんあり、料理や飲食は、そういうことを考えるうえでも大事なのだ。

さて、それで、こんどの日曜日、13日は、 調理人によるtrial&error。13時スタート、作るところから見て、大いにチャチャを入れたり考えたりしたい。

みなさんも、ぜひ。

詳しい案内は、こちら非公式物産展のサイト。
https://note.mu/hi_bussanten/n/nb4964a5db6c8

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2015/09/06

『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その7。

『大衆めし 激動の戦後史』に対する評価は、読んだ方の食文化や料理文化そして生活への関心の持ち方と度合が、わりとはっきりあらわれる。

とくにおれの文章は変化球を多用するから、その読み方のあらわれぐあいは、また一冊の本が書けるぐらい面白い。さまざまなレビューを集めて見ると、いまの食文化状況が見えてくるからだ。

そして、発売時より時間がたってからの読者のほうが、ハヤリの情報に流されない、食に対する自らの関心にもとづいて深い読み方をされるので、それを読んで、また別の意味で一冊書けそうな気になる。

久しぶりにサーチしてみて見つけた、このレビューは、そういうもので、当ブログに掲載した評者からの引用や、『大衆めし 激動の戦後史』に引用した本などにまでふれ、とくにほめそやすわけでもなく、表現方法がどうのこうのでなく、内容を把握し要点をまとめ充実しているので、ありがたい。

こういうレビューを書いてくださる方が増えると、出版文化にとってもプラスになると思うね。

もちろん、本の内容に関係ない中傷のような酷評や、見当違いのどうでもよいようなレビューも、けっして無駄ではなく、ありがたいものだけど。

というわけで、こちらを、是非ご覧ください。

muse-A-muse 2nd
覆水梵に還る
遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425007585.html


今日から一週間は、いろいろ、忙しい。

当ブログ関連
2014/05/27
『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その6。

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2015/09/05

豪雨の歌舞伎町で考えた。

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世界も日本も、そこらじゅうがガタピシしているが、日本最大の暴力団組織までガタピシしているらしい。

そのスジの専門家によると、歌舞伎町には1000人ぐらいの組員がいて、その半分ぐらいが最大組織の構成員とかで、歌舞伎町は「血の抗争」が起きてもおかしくない状態だから、「銃撃事件が起きたら、通行人が巻き添えになる危険もあります。サラリーマンは歌舞伎町の裏道を歩かないほうがいいでしょう」などといっている。

それは、またもや、「風評被害」のもとになるのじゃないか、やはり現場を見る必要がある、と、ついでの用をつくり、歌舞伎町の裏道へ行ってみた。

昨日のこと。ところがだ、現場に着くと、ポツンと当たった雨粒が数秒もしないうちに土砂降りに変わり、ちょうど近くにあった飲食店の日除けテントの下にかけこんだまま、身動きならない。すぐそばの王城ビルも新宿区役所も霞んでしまう降り方。さすがの暴力団も身動きならないだろう。

通るのは、飲食店などに、食材や何かを配達のカタギの人たち。その飲食店に出勤の店員たち。周囲は風俗店がたくさんあって、そこの白ワイシャツに黒ズボンのオニイサンたちが、昼飯なのか、あまり役に立ちそうもないビニール傘をさして食堂に入っていく。そして、風俗店の女たちが、通る。女たちは若い。なかなか美人のうえボディもよい。むきだしの首から胸や腿のあたりが、しゃぶりついて舐めたいほどだ。おれは、ジロジロ舐めまわすように見ていたにちがいない。なにしろ、することないからね。

おれが立っていた、すぐ横は、隣のビルの地下階段出入口で、「個室」ヘルスの看板、「9000円」の文字が見える。と、その店から出てきた、わりと地味なカタギとわかる30代の男が、出てきて土砂降りを知ったのだろう、そこでボー然と立ちつくす。そんなところにいつまでも立っているわけにいかないだろう、おれが立っていたところは余裕があるから、少し移動して空けてやったのだが、気がつかなかったのか気がついても一緒に並んで雨宿りする気がなかったのか急いでいたのか、雨の中に突っ込んだ。たちまちグショ濡れになって、通りの角から消えた。

強い雨は30分ぐらい続いただろう。あがってから、ザッと歌舞伎町のなかを歩いたが、来るたびに変わる景色の変化におどろいたぐらいで、とくに緊張感はなかった。

王城ビルは、いまでは数少ない、おれの1960年代の歌舞伎町のままだ。歌舞伎町という町をみていると、いろいろ考えることがあったし、チョイといい考えも浮かんだ。

それは、「スタンダード」が関係する。

憲法ですらスタンダードではなくなった国。というか、憲法をスタンダードにしたことがなく、そのくせ「コンプライアンス」を唱えて平気でいた。その感覚で何かを評価する。政策を評価する、人を評価する、仕事を評価する、味覚を評価する、デザインを評価する…いろいろ評価する、その基準は「スタンダード」がないゆえに「私主義」。しかも、それを「個人主義」とカンチガイする人も少なくない。

そこのけそこのけ、「スタンダード」がなくて宙ぶらりんの「私主義」がまかり通る。私主義は、私が、正しいこと、よいことの基準だ。それに他を従わせようとする。暴力的なら、他を潰そうとする。そして、あちこちで「私物化」が進行する。

すでに、テレビや新聞や雑誌などでも、私物化が進行している。そもそも、メディアはパブリックなものだ、それがスタンダードなのだという自覚も習慣も希薄だ。メディアの権力や権威をかさに私主義。大私主義から小私主義まで。

こういうものがのさばるところに、さまざまな矛盾が生まれる。そこに、ビジネスチャンスがありそうだ。

ただ、すぐには、あまりカネになりそうにない。

きのう歌舞伎町へ行ったからか、今日、しばらく行方不明だった、新宿の下層労働者から電話があった。大阪で下層労働者をしていたとか。何かおもしろいことがありそう。でも、おれ、もう若くないからね。

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2015/09/02

非公式物産展《キッチンうろ覚え アフリカ旅行の巻》。

2015/08/27「食とアートのくされ縁。」で、「文筆系の食べ物の話は、時流にのりたいのか、小賢しい話が多く、チャレンジや攻めがなくてツマラナイが、アート系の人たち、とくに現代アート系は、果敢に攻めるから、おもしろいことが多い」と書いたばかりだが、こんどは、木村みよ子さんの非公式物産展《キッチンうろ覚え アフリカ旅行の巻》の案内が届いた。

いやあ、果敢にやってますな。こんどは、アフリカ旅行の巻ですよ。しかも、あの野暮酒場が、「モザンビーク/料理名:不明。市場の安食堂で食べたアジフライぶっかけめし」ってことで参加する。

アジフライぶっかけめし!野暮だねえ、大いに興味あるねえ。

これはもう、みなさんお誘い合わせのうえ、ぜひご参加ください。

大村さんからの案内。

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非公式物産展は9月6日13日の二日間、東京・四谷三丁目にあるアフリカンバル「tribes(トライブス)」にて〈キッチンうろ覚えアフリカ旅行の巻〉を開催いたします。
ご多忙中とは存じますが、お近くにお越しの際は是非お立ちより下さい。
また、近隣のお知り合いの方にもお知らせいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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《キッチンうろ覚え アフリカ旅行の巻》

1日目 2015年9月6日(日) lecture&meetingの日 13時〜16時
2日目 2015年9月13日(日) trial&errorの日 13時〜18時

会場:アフリカンバル tribes 東京都新宿区荒木町7-14 AXAS四谷三丁目 1F (四谷三丁目駅から徒歩5分)

入場料
1日目 無料(1ドリンクのオーダーをお願いします)出入り自由
2日目 500円(スプーンフォーク、紙ナプキン、lecture&meetingの日の記録付)+1ドリンクオーダー 出入り自由

主催・お問合せ
非公式物産展(大村)

hikousikibussanten@gmail.com
https://note.mu/hi_bussanten/n/n812b6a046a24←詳細はこちら。

〈キッチンうろ覚え〉は、旅行先で食べて美味しかった食べ物を舌の記憶と勘で再現する会です。会場のキッチンを利用して、記憶と勘と、時には居合わせた人の知恵を頼りに、思い出の味を再現することを試みます。旅行先で美味しかったもの/もう一度食べてみたいものであれば、郷土色や地域性を問わず楽しみます。第一回は今年の2月に開催。4組6名の調理人がメキシコ・北海道・韓国・山形で食べた料理の再現を試みました。

今回の〈キッチンうろ覚え〉はテーマを「アフリカ」に限定し、2日間にわけて開催します。まず1日目は各調理人が、会場のアフリカン・バルtribesのオーナーで南アフリカフード親善大使でもある石川邦彦氏のアドバイスのもと、3名の調理人とともにうろ覚えの味を思い出し、どのような調理方法になるか/どのような食材を使うかを決めていきます。2日目は調理の日です。各調理人が記憶と1日目のアドバイスをたよりに、試行錯誤を繰り返しながら思い出の「アフリカ料理」を再現します。

両日とも見学や試食のみの参加も大歓迎です(一部有料)。

旅行者の味の記憶を通して知るアフリカの食や社会。ガイドブックやWEBサイトを見るのとは違う愉しみを、この場で見つけていただければ幸いです。

皆様のお越しをお待ちしております。

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おれはこれまで全部顔を出しているのだが、6日(日)は、ビミョー。いや、なんとか都合つけたいと考えているところ。

食とアートの可能性は、どうなるんじゃ。とにかく、愉快に果敢にやろう。

前回のキッチンうろ覚えは、今年の2月11日だった。
2015/02/23
「Wコージの麹酒場@さばのゆ」と「キッチンうろ覚え@野暮酒場」などのこと。

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新宿東口闇市に幼いころの自分の姿を探す。

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前のエントリーにも書いたように、『東京人』9月号の特集は「ヤミ市を歩く」だ。新宿、新橋、上野、池袋、渋谷、神田、荻窪、蒲田、三軒茶屋、自由が丘、小岩、吉祥寺などのヤミ市が載っている。

なかでもおれは、新宿駅周辺の1949年の地図が気になった。虫眼鏡で拡大し、念入りに見て、ネットでも検索して調べた。

というのも、おれは小さいころ、4歳ごろだったと思うが、その齢も含めて正確に知りたいのだが、新宿駅東口改札前の雑踏のなかで、迷子になったことがあるからだ。

もちろんその頃の改札は、いまのように地下ではなく、単なる平屋の建物に木造りの改札があるだけで、簡単なものだった。その記憶は、割とはっきりしている。

迷子になったときのことは忘れられない。

おれが泣き叫んでいると、国防色のコートを着た男たちや着物姿のおばさんたちが、おれのまわりを取り囲み話しかけてくるのだ。だけど、人垣のなかで、おれはコワイだけ、泣き叫ぶしかなかった。

という話は、2005/08/01「10年目の大衆食堂の研究」にも書いている。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/08/10_cf4e.html

「小学校入るまでは、世間が落ち着かないように、おれ自身も落ち着かなかったね。母方の兄弟5人のうち、男2人が戦地で罹ったマラリアがもとで復員後しばらくしてから病死、女1人が離婚で出戻ってから肺病死、よく可愛がってもらい覚えている。母の実家は、当時、すでに母の父はなく、いまの調布市のつつじヶ丘にあったから、おれは田舎とココを行ったり来たりの生活だった。おかげで、水が貯まった庭の防空壕や、占領軍や、紙芝居や、配給のパンや、そうそう新宿の闇市も記憶にあるぞ。おれは、新宿の東口で迷子になって、国防色の服や外套を着たオジサンたちに親切にされたのかアブナイ目にあわされたのかしたのさ。そのころは、東口の前は、広場というより焼け野原で、伊勢丹が見えたよ。そこにあった公衆便所の前の激しい混雑の中で、おれは一緒にいた母方の祖母の姿を見失ってしまった。」

これが、何歳のときか、はっきりしない。4歳のときに、弟が2歳で死んでいる。その前か後ぐらいのはずだが、そのとき、おれは一人で調布の金子(いまの調布市つつじヶ丘)の祖母のところにあずけられていて、祖母に連れられ新宿に出たのだ。

東口の周辺は、すごい雑踏だった。小さい子供だから、ただでさえ人に囲まれて流されている感じだったが、目の前の通りからは見通しはよく、その向こうに伊勢丹が見えた。そして、いつのまにやら、祖母と離れてしまったのだ。あとの話では、祖母はトイレに行きたくなり、おれに動かないようにいって、つないでいた手を離した。

おれが泣きわめいていた場所の景色の記憶はある。奥の方に、あとから知った闇市らしきものがあって、左側に公衆便所があった。つまり、おれは祖母が用を足しているはずの便所の近くにいたらしいのだ。伊勢丹が見えるあたりから祖母を追って動いたのか、最初から公衆便所のそばだったのか、わからない。

当時は、「ひとさらい」といって、子供をさらっては売ってしまう連中がいるといわれていた。

とにかく、泣き叫んでいると、人ごみをかきわけて、祖母がアワアワアワという感じであらわれ、おれを囲んでいた人びとは散った。

『東京人』の新宿駅周辺の闇市の地図は、1949年だから、そのころだ。いや、おれは1943年生まれだから、少しあとだろう。

その地図を見ると、新宿駅東口改札の前に野原組のマーケットがある。場所的には、野原組の「野」の字の左上あたりと想像できる。これは「ハモニカ横丁」と呼ばれたらしい、そのあたりのはずと思うが、地図には公衆便所がない。もっとも、公衆便所といっても、近頃の仮設トイレの長屋みたいなもので、ちゃんとした屋根のある建築物ではなかった。

それに、改札の前あたりは、小さい子供だったからか、かなり広い茫洋ゴミゴミした広場に人がうごめいている感じだった。

おれが泣き叫んでいたところはどこなのか、正確にはわからないし、どこからそこへ行ったのかも、わからない。あのころは、何度か新宿へ行っているから、いくつかの記憶が混ざっているかも知れない。

おれが泣き叫んでいたはずの、野原組マーケットがあったあたりは、いまは新宿前広場というか、人も滞留できない広場になって、跡形もない。

闇市の発生と整理からみる新宿駅近傍の形成過程
―都市組織の動態分析―
明治大学 石榑 督和
http://static1.squarespace.com/static/5361e50fe4b088f0b6279958/t/5412195fe4b05a9f6b75c065/1410472287607/m_ishigure_2011.pdf

というのがあって、次のような記述がある。

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新宿マーケット:中村屋から三越の西まで。戦前は主に木造三階建ての小売店が12軒並んでいた土地である。終戦後それらの建物の焼け跡を尾津組が整理し、ヨシズの日よけがあるだけのマーケット32コマを建設する。昭和20年末、16コマを焼失した事をきっかけに、木造屋根付きでペンキ塗装を施した建物へと建て替える。

和田組マーケット:武蔵野館西側から新宿駅南口。昭和21年10月、和田組によって建設・管理され、約400店が入っていた。

安田組マーケット:西口の線路沿いに。昭和21年の年末から、翌年の頭にかけて、青梅街道から西口改札前まで一気にマーケットが建設され、新宿西口には約300軒ほどのマーケットができあがった。

高野西に鉤の手状に並ぶバラックはハモニカ横丁で、昭和23年1月から4月の間に野原組によって建設された。昭和24年の火災保険特殊地図には固定式屋台33軒と記載されている。もう一つ野原組によって組織されたマーケットが聚楽東から南にかけて広がっている。このマーケットは昭和22年9月8日から昭和23年4月の間に野原組によって建設された。

………………………………

西口の安田組マーケットの北側部分だけは、現在でも思い出横丁として残っている。

これによると、ハモニカ横丁の建設は昭和23年1月から4月だから、おれがそこで迷子になったときは、まだこの横丁はなかったのではないかと考えられる。

すると、奥の方に見えた闇市の雑踏は、昭和22年9月8日から昭和23年4月の間に野原組によって建設されたものか、和田組のものであり、おれは、のちにハモニカ横丁になるあたりの新宿通りに近い、つまり伊勢丹が見えるあたりにいた可能性がある。

ハモニカ横丁以前のそこはどんなだったかわかる資料があれば、もっとわかるんだが。

なーんてことに、時間をつぶしてしまった。

地図を虫眼鏡で見ていたら、大衆食堂の長野屋は、いまの場所にあった。当然だろう。三平は、まだない。聚楽は食品ストアだったし、中央口の奥、かつての旭町ドヤ街に近いほう(甲州街道と明治通りの交差点に近いほう)に、聚楽の旅館がずいぶんあるので驚いた。

それに、明治大学・石榑督和さんのレポートには、和田組の移転が、どのように行われたかもあって、かつて中央口近くにあった「いすず」は、そこからの移転の跡らしいとわかった。そういえば、あの店は、闇市の雰囲気が濃厚で、戦後がいつまでも漂っていた。

1970年代ぐらいまでは、戦争も戦後も濃厚に残っていたのだ。70年代は、軍歌を歌いながら、戦争はもうコリゴリといっていた時代の最後のころといえる。

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