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2015/09/02

新宿東口闇市に幼いころの自分の姿を探す。

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前のエントリーにも書いたように、『東京人』9月号の特集は「ヤミ市を歩く」だ。新宿、新橋、上野、池袋、渋谷、神田、荻窪、蒲田、三軒茶屋、自由が丘、小岩、吉祥寺などのヤミ市が載っている。

なかでもおれは、新宿駅周辺の1949年の地図が気になった。虫眼鏡で拡大し、念入りに見て、ネットでも検索して調べた。

というのも、おれは小さいころ、4歳ごろだったと思うが、その齢も含めて正確に知りたいのだが、新宿駅東口改札前の雑踏のなかで、迷子になったことがあるからだ。

もちろんその頃の改札は、いまのように地下ではなく、単なる平屋の建物に木造りの改札があるだけで、簡単なものだった。その記憶は、割とはっきりしている。

迷子になったときのことは忘れられない。

おれが泣き叫んでいると、国防色のコートを着た男たちや着物姿のおばさんたちが、おれのまわりを取り囲み話しかけてくるのだ。だけど、人垣のなかで、おれはコワイだけ、泣き叫ぶしかなかった。

という話は、2005/08/01「10年目の大衆食堂の研究」にも書いている。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/08/10_cf4e.html

「小学校入るまでは、世間が落ち着かないように、おれ自身も落ち着かなかったね。母方の兄弟5人のうち、男2人が戦地で罹ったマラリアがもとで復員後しばらくしてから病死、女1人が離婚で出戻ってから肺病死、よく可愛がってもらい覚えている。母の実家は、当時、すでに母の父はなく、いまの調布市のつつじヶ丘にあったから、おれは田舎とココを行ったり来たりの生活だった。おかげで、水が貯まった庭の防空壕や、占領軍や、紙芝居や、配給のパンや、そうそう新宿の闇市も記憶にあるぞ。おれは、新宿の東口で迷子になって、国防色の服や外套を着たオジサンたちに親切にされたのかアブナイ目にあわされたのかしたのさ。そのころは、東口の前は、広場というより焼け野原で、伊勢丹が見えたよ。そこにあった公衆便所の前の激しい混雑の中で、おれは一緒にいた母方の祖母の姿を見失ってしまった。」

これが、何歳のときか、はっきりしない。4歳のときに、弟が2歳で死んでいる。その前か後ぐらいのはずだが、そのとき、おれは一人で調布の金子(いまの調布市つつじヶ丘)の祖母のところにあずけられていて、祖母に連れられ新宿に出たのだ。

東口の周辺は、すごい雑踏だった。小さい子供だから、ただでさえ人に囲まれて流されている感じだったが、目の前の通りからは見通しはよく、その向こうに伊勢丹が見えた。そして、いつのまにやら、祖母と離れてしまったのだ。あとの話では、祖母はトイレに行きたくなり、おれに動かないようにいって、つないでいた手を離した。

おれが泣きわめいていた場所の景色の記憶はある。奥の方に、あとから知った闇市らしきものがあって、左側に公衆便所があった。つまり、おれは祖母が用を足しているはずの便所の近くにいたらしいのだ。伊勢丹が見えるあたりから祖母を追って動いたのか、最初から公衆便所のそばだったのか、わからない。

当時は、「ひとさらい」といって、子供をさらっては売ってしまう連中がいるといわれていた。

とにかく、泣き叫んでいると、人ごみをかきわけて、祖母がアワアワアワという感じであらわれ、おれを囲んでいた人びとは散った。

『東京人』の新宿駅周辺の闇市の地図は、1949年だから、そのころだ。いや、おれは1943年生まれだから、少しあとだろう。

その地図を見ると、新宿駅東口改札の前に野原組のマーケットがある。場所的には、野原組の「野」の字の左上あたりと想像できる。これは「ハモニカ横丁」と呼ばれたらしい、そのあたりのはずと思うが、地図には公衆便所がない。もっとも、公衆便所といっても、近頃の仮設トイレの長屋みたいなもので、ちゃんとした屋根のある建築物ではなかった。

それに、改札の前あたりは、小さい子供だったからか、かなり広い茫洋ゴミゴミした広場に人がうごめいている感じだった。

おれが泣き叫んでいたところはどこなのか、正確にはわからないし、どこからそこへ行ったのかも、わからない。あのころは、何度か新宿へ行っているから、いくつかの記憶が混ざっているかも知れない。

おれが泣き叫んでいたはずの、野原組マーケットがあったあたりは、いまは新宿前広場というか、人も滞留できない広場になって、跡形もない。

闇市の発生と整理からみる新宿駅近傍の形成過程
―都市組織の動態分析―
明治大学 石榑 督和
http://static1.squarespace.com/static/5361e50fe4b088f0b6279958/t/5412195fe4b05a9f6b75c065/1410472287607/m_ishigure_2011.pdf

というのがあって、次のような記述がある。

………………………………

新宿マーケット:中村屋から三越の西まで。戦前は主に木造三階建ての小売店が12軒並んでいた土地である。終戦後それらの建物の焼け跡を尾津組が整理し、ヨシズの日よけがあるだけのマーケット32コマを建設する。昭和20年末、16コマを焼失した事をきっかけに、木造屋根付きでペンキ塗装を施した建物へと建て替える。

和田組マーケット:武蔵野館西側から新宿駅南口。昭和21年10月、和田組によって建設・管理され、約400店が入っていた。

安田組マーケット:西口の線路沿いに。昭和21年の年末から、翌年の頭にかけて、青梅街道から西口改札前まで一気にマーケットが建設され、新宿西口には約300軒ほどのマーケットができあがった。

高野西に鉤の手状に並ぶバラックはハモニカ横丁で、昭和23年1月から4月の間に野原組によって建設された。昭和24年の火災保険特殊地図には固定式屋台33軒と記載されている。もう一つ野原組によって組織されたマーケットが聚楽東から南にかけて広がっている。このマーケットは昭和22年9月8日から昭和23年4月の間に野原組によって建設された。

………………………………

西口の安田組マーケットの北側部分だけは、現在でも思い出横丁として残っている。

これによると、ハモニカ横丁の建設は昭和23年1月から4月だから、おれがそこで迷子になったときは、まだこの横丁はなかったのではないかと考えられる。

すると、奥の方に見えた闇市の雑踏は、昭和22年9月8日から昭和23年4月の間に野原組によって建設されたものか、和田組のものであり、おれは、のちにハモニカ横丁になるあたりの新宿通りに近い、つまり伊勢丹が見えるあたりにいた可能性がある。

ハモニカ横丁以前のそこはどんなだったかわかる資料があれば、もっとわかるんだが。

なーんてことに、時間をつぶしてしまった。

地図を虫眼鏡で見ていたら、大衆食堂の長野屋は、いまの場所にあった。当然だろう。三平は、まだない。聚楽は食品ストアだったし、中央口の奥、かつての旭町ドヤ街に近いほう(甲州街道と明治通りの交差点に近いほう)に、聚楽の旅館がずいぶんあるので驚いた。

それに、明治大学・石榑督和さんのレポートには、和田組の移転が、どのように行われたかもあって、かつて中央口近くにあった「いすず」は、そこからの移転の跡らしいとわかった。そういえば、あの店は、闇市の雰囲気が濃厚で、戦後がいつまでも漂っていた。

1970年代ぐらいまでは、戦争も戦後も濃厚に残っていたのだ。70年代は、軍歌を歌いながら、戦争はもうコリゴリといっていた時代の最後のころといえる。

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