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2015/10/01

料理の精神分析的賞味法があってもよい。

芸術には精神分析的鑑賞法みたいなものが存在するようだ。このあいだ、そういう類の話を聞いた。

ある作品を指して、「すべてセックスの隠喩である」といった評し方をする。その「隠喩」を解く作業が、鑑賞の一つであるようだった。そして「隠喩」を解きながら、作者を解剖し晒す、つまり作者の精神分析を試みるのだ。

おれは、そういうメンドウなことは好きじゃないんだが、なかなか面白いと思った。

日本で、「料理は芸術」という人たちは、そういう鑑賞法を試みたことがあるのだろうか。料理の場合は、「鑑賞」とは「賞味」であるが。文学者とか作家という方に、料理を精神分析的に扱った例が、わずかにあったようにも記憶する。

お遊び的だが、それにしては意外に深いところをついてくる、東海林さだおのエッセイがある。

グルメ雑誌では、ほとんど見かけない。読者はそんなことは期待していないし、編集者も関心がない。グルメな情報を盛り込んだ、文章の上手な小技の世界であり、時代の上っ面をなでる、空虚なエンターテイメントとして成り立っている。

料理から料理人の精神分析に進んだら面白かろうと思うが、おれはそういうメンドウは好きじゃない。

もう一つ、食べ物について書くライターの精神分析なんかも、面白いと思う。料理より、はっきり文章に出る。料理に限らず、ひとの作ったものを、褒めたり、けなしたり、分析したり評価したりする、その奥に潜むことは何か。こんなのを精神分析的鑑賞の対象にしてみたところでカネにならないが、ブックレビューなどより、はるかに面白そうだ。

とにかく、もし、料理が表現なら、芸術であるかどうかに関わらず、精神分析的賞味法があってもよいのではないか。

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