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2015/11/30

来年1月16日の、大衆そば研究の坂崎仁紀さん×エンテツのトークについて。

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2015/11/11「来年1月16日17時半から、溝の口の「ふみきり」でトークやります。」で簡単に告知したトークについて、詳細が決まりましたので、よろしくお願いします。

場所は溝の口の、「惣菜食堂・ふみきり」です。

17時オープン、17時半スタート、参加費1500円(ワンドリンクと、この日のためのそば米みそ汁付き)。

坂崎さんは「大衆そば研究」の方なので、「大衆食トーク…『ちょっとそばでも』の坂崎仁紀×エンテツ」ということで、やらせてもらいます。

テーマは、「大衆そばと大衆食堂で語る、これが昭和だ東京の味だ」。

「これが昭和だ東京の味だ」は、「でも、『昭和』って、『東京の味』って、なんだろう」という含みです。

話の入口は「昭和と立ち食い立ち飲み」あたりからになるでしょう。テーマに関係する画像をご覧いただきながらすすめるつもり。

トークのあとは懇親飲み、新年会もかね、大いに飲みましょう。実際のところ、いつもトークのあとの飲み会が楽しみ。

ふみきりは、客席20名から20数名の、スタンディングが基本の店です。
https://www.facebook.com/shokudou.fumikiri

近頃はトシのせいもあって、東京の南の方へ出かけることはあまりないし、こちら方面でトークをやることはめったにないと思うので、この機会にぜひご参加ください。

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2015/11/27

『city&life』115号に「酒好きと酒と酒蔵と『町』または『ふるさと』」を書いた。

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第一生命財団が発行、アルシーヴ社が編集協力の、まちとくらしの研究誌『city&life』115号に、ひさしぶりの登場だ。

年に三回発行の同誌は「都市のしくみとくらし」について、ケーススタディを中心にまとめている。今回の特集は「酒とまちづくり」。おれは、エッセイを頼まれて、「酒好きと酒と酒蔵と『町』または『ふるさと』」のタイトルで、4ページ4000字ほど書いた。

昨日は、下北沢のアルシーヴ社で、京都の酒を飲む会をやるというので行ったら、ちょうど同誌が出来あがって届いていた。

編集部の巻頭言は「『酒の町」を味わう」と題して、こう書いている。

 国内には、清酒製造業を営む1500以上の酒蔵がある。だがそのほとんどが小規模で、生産量も少なく、限られた地域にしか流通していない。そこで近年、そうした酒蔵を巡り、その土地ならではの酒を味わい、その酒を生んだ土地の風情を楽しもうという「酒蔵ツーリズム」なる観光スタイルが盛り上がりをみせている。
 もちろん日本酒だけに限らない。ワインでも焼酎でもウイスキーでも、そもそも酒造りは、地域の歴史や風土、文化と密接にかかわっている。(略)

というわけで、いつも同誌の内容は充実しているのだが、とくに今回はタイミングもよい。

まずエリアスタディ「酒と地域のライフデザイン」として、三つの地域が取り上げられている。

山梨・甲州「ワインにまつわる遺産や風景を楽しみ、歩き、飲むのが勝沼流」
京都・伏見「京都で生まれ育った酒米を、京都の水と技術で醸す」
東京・阿佐ヶ谷「地域の『飲み屋文化』を活かした『阿佐ヶ谷飲み屋さん祭り』」

京都・伏見では、伏見酒造組合が取り組んでいる「祝(いわい)」という、「育てるにも酒を仕込むのにも難しい」京都独自の酒米の復活と、その酒造りに取り組んでいる。その中心である、増田徳兵衛商店の「月の桂」は、昨夜飲んだ。

ルポ1「地ビールづくりはまちづくり」は、近頃は「クラフトビール」と呼ばれる新しい潮流。小規模生産だからこそ、まちづくりに効く、と。

ルポ2は、「京都発、全国に広がる『乾杯条例』」について、「日本酒条例サミット in 京都」の取材を中心に、その動向をルポしている。

そして、おれのエッセイ。ワインや焼酎のブームに少しだけふれているが、「酒」は「日本酒」「清酒」にしぼった。

おれにしては、めずらしい、しっとり静かな文章で、かつての地酒ブームから最近の「純米酒ブーム」までを、自分の飲酒史もからめ語りながら、町の財産でもあり「まちづくり」に不可欠な場所の記憶の発掘と更新に、酒や酒好きはどう関わってきたかと最近感じている新しい動きについて(若干の懸念も述べながら)書いている。

最後は、このように終わっている。

「近頃の酒場のメニューには、酒の銘柄、種類や製法と共に、産地が明記されていることが多い。つまり産地を意識しながら酒を注文する機会が増えている。産地には産地の人びとの暮らしがある。その暮らしが成り立つ町があって、その酒が飲める。そのあたりに思いをめぐらしながら飲む酒好きでありたいと、私は思っている。」

編集関係者からは、大変おほめをいただいた。ま、うまく書けているかな、という感じではある。

レギュラーページの「スキマファイル」というのが、すごくおもしろい。都市にスキマを探しに行く、スキマ探検隊、6回目だが、「ドンツキラビリンス、向島・京島を行く」。

『city&life』企画委員は、以下のみなさん。
日端 康雄(慶應義塾大学名誉教授)、陣内 秀信(法政大学教授)、林 泰義(特定非営利活動法人玉川まちづくりハウス運営委員)、大村 謙二郎(筑波大学名誉教授)、小泉 秀樹(東京大学教授)、森田 弘志(当財団専務理事)、佐藤 真(株式会社アルシーヴ社)

『city&life』は500円。こちら、第一生命財団のサイトに案内があります。前号No.114特集「空き家―家と暮らしと地域のこれから」は、全文が公開されているので、こちらでご覧いただける。
http://group.dai-ichi-life.co.jp/d-housing/citylife.html

おれは、2008年8月発行のNO.88特集「美味しいまちづくり」では、「青森県八戸市『B級ご当地グルメ』でまちづくり」と「岩手県一関市「建物を活かし地産を活かす『食』のまちづくり」のルポを書き、2009年9月発行のNO.93特集「マチとムラの幸福のレシピ」では、「日本で最も美しい村―地域に生きる幸せを求めて」ということで、日本で最も美しい村連合に加盟の、北海道美瑛町、山形県大蔵村、長野県大鹿村をルポしている。

当ブログ関連
2009/09/27
「city&life」93号、発行。特集「マチとムラの幸福のレシピ」…ルポ「日本で最も美しい村」連合。
2008/06/25
『city&life』美味しいまちづくり、岩手県一関、青森県八戸。

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2015/11/24

店の柄。

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「人柄」という言葉がある、「生活の柄」という詩がある。町や街にも柄があるし、店にも柄がある。

「柄」ということについて考えている。

柄というのは、「よい」「悪い」では、いいあらわしようのないことが含まれている。かりに「柄が悪い」にしても、それが魅力であることも少なくない。たとえば、「猥雑な柄」などは、とかく「柄が悪い」といわれたり「下品」といわれるが、それだけじゃすまされないものがある。

さまざまな柄で、この世は成り立っている。どっちが上か下かではない。柄というのは、深いなあ。

味覚というのは、柄のことでもあるだろう。品ではない柄だ。

柄をちゃんと捉えているか。

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2015/11/21

東京新聞「大衆食堂ランチ」37回目、王子 キッチン・タイガー。

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昨日は、第三金曜日で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。

すでに東京新聞のWebサイトにも掲載になっているので、ご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2015112002000166.html

そこには、「ひっそりたたずむこの食堂は、見るからに「昭和感」タップリだ」と書いてあっても、例によって、本紙のほうには外観の写真が掲載になるが、こちらにはのらない。

いつもそのことは計算に入れて書いているのだが、今回は、うっかり、というかそこだけではなく、自分の事情でいたらない点がほかにもあった。間違いという意味ではなく、内容的に不足があった。凡庸を心がけている文章も練れてないところがあり。

ちょっと「昭和」に拘泥してしまったか。ほかに書くべきことがあったような気がして、煮え切らない。

「昭和感」「「昭和の食堂」ならでは」というふうに、「昭和」という言葉を肯定的に使ったのは、この連載では初めてだと思う。もともとおれは、大衆食堂を「昭和」の文脈とは違うとらえかたをしてきた。そのなかに「昭和」はふくまれるにしても、もっと大事にしている文脈がある。

ともあれ、キッチン・タイガーは、かつて西日暮里にあって最も足しげく通った竹屋食堂を感じさせた。客席や配達を担当する「「おいら」という言い方が似合う」ご主人、料理を担当するおかみさんも。そこで、ツイうれしくなり、「「昭和感」タップリ」ということになった。

ダメだね、自分で舞い上がっては。いいトシこいて。

しかし、読者の方からメールをいただき、「いいですね。行ってみたいです」と。ありがとうございます。

これはこれでよいのかも知れないとは思うのだが…ま、ヨシとしておこう。

データのところには、「カレーライス630円、スパゲテーナポリタン630円、洋風チャーハン630円ほか」とあり、「洋風チャーハン」もおもしろいし、「スパゲテー」というのもおもしろい。メニューは、お店の表記にしたがって書いているので、そのまま載せている。それが実態だし、個性も感じられる。

ついでに。おれとしては、この100字ばかりの短いデータ原稿で、大いに考え迷う。たいがい多くのメニューから選ばなくてはならないわけだが、メニューはお店の個性であり、自分の興味や記録性ばかりを優先させるわけにはいかないからだ。

そのあたりの折り合いは、けっこう難しい。ライスとみそ汁の値段は、必ず入れるようにしている。もしかすると、お店にとっても読者にとっても、あまり必要ではない情報かも知れないが、記録性ということでは、はずせないと思っている。

本文中にある、皿のふちにある刻印の写真を最後に載せておく。ここに、昭和のハイカラやモダンを感じるかどうかで、トシや昭和に対する認識の違いも判断できそうだ。、

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2015/11/19

溝口久美さんが遺したメッセージ。

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この2、3日、「溝口久美」の検索から当ブログにアクセスしてくる方が何人かいる。

元ミーツ・リージョナルの編集者、溝口久美さんが急逝されて5年目の命日がきたのだ。

亡くなった正確な日にちは、知らない。2010年の、11月17日から18日にかけての夜中のことだったらしいし、おれがそれを知ったのは19日で、溝口さんのご遺体が故郷に帰り荼毘にふされたのが20日だった。

溝口さんと最初で最後の仕事になった、2009年7月1日発行のミーツ・リージョナル別冊『酒場の本』で、溝口さんが言い遺したことを、また思いだすことがあって、あらためて大切なことだと思っている。

つまり、溝口さんは、表紙に「いまや『酒を飲む場』を求める時代ではないのだろうか」と書いた。

そして本文大扉のリードでは、最後をこう結んでいる。

酒場を流行軸でとらえることの
無意味さに気づいたいま、
われわれが酒場に求めるのは、
そこで過ごす
「何ものにも代えがたきひととき」
なのではないだろうか。
さあ、そんな酒場へと、還ろう。

ほんらい、アタリマエのことだと思うが、「流行軸」の風は強く、アタリマエがなかなか難しい。だから「還ろう」なのだ。

最近この言葉を思い出したのは、「酒とまちづくり」に関するエッセイを依頼されて書いたからだ。その雑誌は、まもなく刷り上がるらしいが、「酒好きと酒と酒蔵と『町』または『ふるさと』」というタイトルで4000字ほど書いた。

詳しくは発行になってから紹介したいが、もともと飲食と場所は大いに関係あるし、とくにその場所の更新に関わる積極的な面が、「まちづくり」といった場合、いろいろ関係する。

「まちづくり」や「地域の活性化」とかいうのは言葉はよくないと思うが、ようするに言葉はいろいろでも、場所の記憶の更新を意味する。場所の記憶が更新され、活き活きと息づいているかどうか。

そこに、酒や酒飲みがどう関わっているかというのは、なかなかおもしろいことだし、それは時代によっても変わってきている。そのあたりを、自分の飲酒史あたりもからめながら書いた。

溝口さんが言い遺した、「いまや『酒を飲む場』を求める時代ではないだろうか」について、もっとよく考えなくてはならないと思ったのだった。

この言葉は、昨今の「日本酒ブーム」といわれる「純米酒ブーム」を考えると、対照的に際立つ。なので、エッセイでは、ほんのちょっぴりだが、「純米酒ブーム」のオカシイところについてもふれた。

今日は、溝口さん追悼の意味もこめ、ザ大衆食のサイトに、『酒場の本』のページをつくった。まだ書き足すが、とりあえず公開。…クリック地獄

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2015/11/17

鬼子母神みちくさ市「講座」のち、清龍から打ち上げ。

一昨日15日は、わめぞ一味が運営する、今年最後の鬼子母神みちくさ市だった。市の日には、かつておれも五十嵐泰正さんと対談した、トークなどがある。

今年は、連続講座「『商品と作品』のあいだ~表現という仕事のリアルな現場の話~」ということで、毎回ちがうゲストを招き、「聞き手講師に東北新社でCMディレクターとして数々の作品を世に送ってきた」中野達仁さん 司会を「東京をハイパーローカルに掘り下げるシティカルチャーガイド『TOweb』を立ち上げた」武田俊さんで開催してきた。

今回の最終回は、というのはマチガイでして、連続講座は来年も続くので今年最後のゲストですが、森山裕之さんなので、ひさしぶりに森山さんにも会い、話も聞きたくて参加した。時間は13時半から15時まで。

森山裕之(もりやま・ひろゆき)さんについては、みちくさ市のサイトには、「1974年、長野市生まれ。編集者、ライター。大学卒業後、印刷会社の営業マンを経てフリーライターとして活動。2001年より編集の世界に入り、雑誌『クイック・ジャパン』、『マンスリーよしもとPLUS』の編集長を務める。」という紹介がある。

森山さんは、一部では、「カリスマ編集長」といわれたり、編集以外の分野でもジャーナルな感覚で活躍しているが、おれのなかでは、彼は「あだち充のひと」なのだ。10年前ぐらいか、南陀楼綾繁さんが座長のBOOKMANの会というのがあって、そこで森山さんが、あだち充について語ったことがある。その知識のすごさもさることながら、漫画の読み方ということからも深いものがあって、おれはすごくビックリした。

その印象が鮮烈で、そのころ森山さんは『Quick Japan』の編集長をしていたが、おれはそちらのほうは疎く、とにかく「あだち充のひと」になってしまった。ひさしぶりに会う森山さんは、ヒゲをはやしたこともあるが、すぐにはわからなかった。

出版関係のゲストは森山さんが初めてということだった。表現をめぐって、ジャンルクロスオーバー的、かつ「有名人」というよりは現場で格闘し活躍しているひとをゲストに招くというあたりが、わめぞらしい。

話は、「大学生時代に始めた『みえない雑誌』」「印刷会社営業から太田出版『Quick Japan』へ」「飛鳥新社 『daikaiパンチ』から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー『マンスリーよしもとPLUS』へ」「独立、ひとり出版社の立ち上げ」という順に進んだ。

森山さんは74年生まれ。『みえない雑誌』は、大学に入り長野県人学生寮で過ごしていたとき、同じ寮の学生たちと始めたもの。現物を見せてもらったが、創刊号の特集は「大学」で、94年12月の発行。ワープロで作成した版下を簡易印刷で印刷し、自分たちで中折りホチキス留め、500部ぐらいだったかな、フリーペーパー。森山さんは、大学を4年で卒業し印刷会社の営業マンになっても続けた。それが2000年11号まで続くのだが、9号からは表紙はカラー印刷の厚い平とじで3000部ぐらい印刷、書店売りもしていた。もう「出版人」だ。

印刷会社をやめフリライター、『Quick Japan』に出入り、編集に欠員ができ編集部に入った。編集長になったのは、わずか3年後ぐらい。それは突然やってきた、ある日、赤田祐一編集長が、「疲れた、お前がやれ」と言って。ま、中小出版社というのは、そんなものなのだろう、面倒なこともなくチェンジ。

その赤田さんは、のちに飛鳥新社に移り 『daikaiパンチ』を立ち上げた。おれは、その 『daikaiパンチ』に何度か寄稿している。知り合いの編集者、清田麻衣子さんが声をかけてくれたからだ。そこに森山さんが副編集長として転職。2007年ごろのこと。

その後一年ぐらいで、森山さんはよしもとクリエイティブ・エージェンシーへ。清田さんも、そこへ移った。清田さんは、一昨年だったかな、里山社という出版社を立ち上げ、11月に田代一倫写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』を出版、昨年7月には、おれも買って持っているが『井田真木子 著作撰集』を発行。いずれも、出版人として、熱く、ドッシリした仕事をしている。

森山さんが、この9月でよしもとをやめ出版社を立ち上げる選択をしたのは、元同僚の清田さんの仕事ぶりに刺激を受けたこともあるのだろうか。その話はなかったが。とにかく、森山さんは、雑誌編集だけではなく書籍編集も手がけている。もとはといえばライターをやりたかったらしいが、編集の才能もあったのだろう、なにより「出版人として生きる」自覚や気概がある。「出版」にアイデンティティがあるというか。

つまりは、「『商品と作品』のあいだ」は、出版人としてのあり方と密接なのだ。その意味では、組織でやってきたことが、大いに力になりそうだ。年内立ち上げの予定だが社名も決まっていない出版社では、「ミリオンセラーをねらいたい」と力強く言っていた。これまで20万部30万部は経験しているから、そこまでは見える、その先を。

いまどき紙物の出版社を立ち上げるなんて、といわれるが、「いい本」なら売れる、売れる「いい本」を作りたい。それは、彼が知っている長野の田舎のヤンキーのような人から都会のインテリまでが読む本。時代の波長と著者なり作品なりを、どうマッチングしていくか。

と、なかなか力の入ったおもしろい話だった。ひとり出版社というと、最初からニッチ狙いのコツコツ路線、小さいことはいいことだコツコツはいいことだ式が少なくないのだけど、ミリオンをめざす、出版だからこそ大小関係なくミリオンをねらえるのだという考えに、可能性を感じた。森山さん42歳、大いにやってほしい。

終わって、16時までやっている、みちくさ市へ。鬼子母神商店街を歩いていると、道路わきに野糞をするようにうずくまっている、冴えない老人がいる。誰かと思ったら塩爺。古本が売れない、赤字になりそう。そもそも、みちくさ市は、鬼子母神境内で行われる手づくり市と連動しての開催なのだが、この日は朝方まで雨模様で境内の地面は濡れているため手づくり市は中止、そのぶん人出がガタ減りという影響を受けたようだ。ま、いい日もあれば、悪い日もあるさ。

00418時ごろから「打ち上げ」があるというので参加することにし、それまでどこかで一杯やることにして池袋へ。たまには、ひさしぶりで「清龍」へ行ってみようかと、南池袋公園近くのそこへ。すると、なに、これ、清龍。以前は2階か3階ぐらいまでの営業だったのに、全館ギラギラの清龍。しかも、一階には、最近清龍が始めたバルが入っている。いやあ驚いた。じゃ、本店に行ってみようと、本店まで行った。本店は変わらず。ビールと本醸造大徳利を空けているうちに、ちょうど時間となりました。

打ち上げの会場は、名前を覚えていないのだが、前にも一度行った、地下鉄東池袋駅そばの高速高架下にある、すがれた居酒屋。一軒貸切飲み放題。まいどのことだが、もう野武士の宴会、梁山泊のよう。いろいろ話もはずんで、なかには離婚話もあったような気がするのだが、その夜の夢のことなのか区別がつかないアリサマ。とにかく、森山さんの話もそうだったし、わめぞ一味の雑多な人たちの可能性を感じながら、楽しく泥酔の淵に沈み帰還。

最後に野武士のような落武者の写真。
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2015/11/13

悩ましい味覚、麺の湯切り。

ときどき利用する中華のチェーン店でのこと。

頼んだラーメンが出てきたのを見たとき、どうもいつもと違う感じがした。違和感を持ちながら見つめると、スープ面の景色が、いつも見慣れているものと違うのだ。

トッピングは、いつものように配置されているが、真ん中へんの麺のあたりが、スープの景色のなかに溶け込んでいない。麺のカタマリがどんぶりのなかの島のように見え、そこだけスープの色とはちがう。つまり中央部がスープ色を排除し、透明感のある白っぽい色のカタマリに見えたのだ。

もしかして、これは、麺から何か滲み出ているのではないだろうかと考えながら、まずは麺を箸で持ち上げ口に入れて、スグわかった。湯切りが悪いのだ。しかも、いつもより微妙に茹ですぎたのか、湯切りが悪いせいか、麺の感触が、のび加減のそれのように少し、ヌルッ、ボテッ、としている。

この店は、少し前に店長クラスの料理人が変わったばかりだった。そのせいか。しかし、チェーン店が、それぐらいで味が変わることはないだろう。とか、考えながら食べているうちに、しだいに、この味覚が、なんだか懐かしい気分になった。

ツルツル、スルスルとすすりこむのではなく、ズルズル、ズボズボと食べているうち、そういえば昔のラーメンは、こういう感じのものが多かったなあと思いだした。湯切りが悪く、麺とスープの関係が、なんとなくスッキシしないでドロッとしている。アンカケほどではないが。

昔のラーメンは、麺のヌルッボテッのなかに、シッカリ、かん水の味がした。それ丸ごとラーメンの味だった。おお、懐かしい、この野暮な味こそラーメンではないか。

ま、昔は、ラーメンの湯切りをするのに、大きく手を振るような黒い衣装の「職人」などはいなかったし。ラーメンはポエムじゃなかったしな。

おれは夢中になって食べ、食べ終わるころになり、これはこれで、いいよ、うん。しかし、おれもずいぶんキチンと湯切りした味に飼いならされたものだと思った。

そして、今日、また再びを期待して行ってみると、やはりキチンと湯切りされた、いつものマニュアル通りです、という感じのラーメンが出てきた。おれは、このあいだのラーメンを食べたいと思ったが、どうすることもできない。あの野暮な味に比べると、どうにも食べごたえのないラーメンだった。

もしかすると、いまの時代、「スッキリ」だの「サッパリ」だのが、雑みがなく品がよいだのといわれ、そういう教条的な脳ミソの舌になってしまい、じつは、じつに薄っぺらな味覚で薄っぺらなものを食べてよろこんでいるのではないかという疑惑が湧いてきたのだった。

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2015/11/11

来年1月16日17時半から、溝の口の「ふみきり」でトークやります。

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一昨日は、ひさしぶりに鴬谷で飲んだ。

『ちょっとそばでも』の著者、坂崎仁紀さんとトークをやる話が前からあり、その話を持ちかけていた溝の口の「ふみきり」のタイショーと小岩の「野暮酒場」の店主、そしておれは初対面になる坂崎さんと信濃路であったのだ。

17時に信濃路で待ち合わせだった。信濃路はひさしぶりだ。ま、最近は都内で飲む機会も減っているのだが。

遅れて、ふみきりの女シェフも参加。

信濃路で、いいかげん酔っぱらったあと、ラブホ街をぬけて、「ささのや」へ。ラブホ街、建物がどんどん大型化しているような印象。入口周辺のクリスマス飾りがエロい年末を誘っているようだった。おれには、年末に関係なくエロいことはなさそうだが。

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ささのやは、タイミングよく奥のテーブルが空いて、5人で腰かけられた。テーブル席は初めてだ。頼んだやきとりは皿に盛られて出てくる。すると、立ち食いでひと串ずつもらって食べていたときは気がつかなかったが、皿に盛ったやきとりにかかっているたっぷりのタレは、みたらし団子のタレみたいなのだ。食感が、カタクリのトロミのようだし、甘みもみたらし風。いままで気がつかなかったが、めずらしい。

記憶喪失まではいかなかったが、泥酔帰宅。

昨日、前夜持ち歩いていた手帳を開いたら、「2016.1.16(土)17:30~ふみきり そもそもなぜ立ち食いそばなのか」のメモ。

つまり、来年1月16日(土曜日)17時半から、溝の口の「ふみきり」で、坂崎さんとトークをやることになったのだ。坂崎さんからは『ちょっとそばでも』をいただいた。まだ読んでないので、感想は後日に。

坂崎さん、本のプロフィールによると、「1959年、神奈川県生まれ。大衆そば・立ち食いそば研究家。コラムニスト。」

「ふみきり」は、日本森林再生機構の同志タイショーと女シェフが、去年だか一昨年に始めた店。行ってみようかと思いながら、まだ行ったことがない。

というわけで、このトークは、日本森林再生機構と野暮連の大決起大躍進大新年酒飲み大会にもしたい。だから、そば、森林、野暮、酒、に興味あるみなさんは、予定しといてね。詳細は後日。

ふみきりのフェイスブックは、こちら…クリック地獄

Meets_hitorimesi006ひさしぶりに、「ザ大衆食」の「信濃路」を見てみよう。09年4月ミーツ・リージョナル別冊『東京ひとりめし』に掲載の「遠藤哲夫の[信濃路]偏愛話」を、かつての下北沢のスローコメディファクトリーにおける「エンテツ泥酔論」で、村上航さん(猫のホテル)が朗読したものがユーチューブにアップされている。このページからリンクがあるのだが、忘れていた。何度見ても、愉快だねえ。…クリック地獄

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2015/11/10

歌舞伎町、1974年の思い出のビルがなくなった。

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10月30日、歌舞伎町へ行ったついでに、靖国通りからの歌舞伎町入口を全部撮影しておこうと、西の端の西武新宿駅の横の通りから東へ、順番に撮った。すると、東通り入口の西側角のビルがなくなっていた。工事の塀で囲われ、解体の最後の作業中という感じだった。

東通りは、新宿駅西口から、新宿通りの高野の前を靖国通りへ向かう道が、靖国通りに突きあたる正面ぐらいになる。もう一本西側はさくら通り、東側は区役所通り。

1974年、おれは30歳、このビルのたしか5階にあった選挙事務所へ出向していたのだ。このビルの隣、東通り入口の東側角のビル、これはまだ残っているが、その3階か4階も同じ選挙事務所だった。

そのことについては、以前にもちょっとだけ、このブログに書いている。どこまで書いてよいかわからないが、ついでだから、もう少し書いておこう。

74年の7月7日は、「保革伯仲」がいわれるなか、もしかすると保革逆転がありうるかもしれないと注目された、第10回参議院議員選挙が行われた。「七夕選挙」として話題になったが、保革逆転を阻止するため、自民党は大きな二つの手を打った。一つは、党として初めてタレント候補を数名たてた、もう一つは、「企業ぐるみ選挙」と批判されたように、各候補それぞれに応援する企業を割り当てた。

企業ぐるみ会社ぐるみで特定候補を応援することは、別にめずらしくない。いまでも続いていて、違法ではないかと裁判沙汰になることもある。そういうやり方を、堂々と選挙方針として進めたわけで、批判は相当あった。

岩波日本総合年表には、選挙投票日直前の7月2日に、「中央選挙管理会委員長掘米正道、参議院選挙につき個人の資格で、〈企業ぐるみ選挙〉を批判する異例の見解を発表。7.4橋本自民党幹事長、職権濫用、選挙の自由を理由に委員長を東京地検に告発」との記述があるぐらいだ。それぐらい自民党は必死であり危機感があったといえる。

タレント候補は全国区のみで、宮田輝、山東昭子、齋藤栄三郎、糸山栄太郎、森下泰、それから鳩山威一郎も含まれていたかもしれない。6名か7名だったと思うが、正確に思い出せない。とにかく、橋本幹事長の直轄のようなかたちで、特別選対会議がもたれた。

おれは「大物候補」といわれた宮田候補のキャンペーン企画を受注した会社に在籍していたから、そこからの出向だった。記憶がはっきりしないのだが74年早々から、これは確かだが投票日のあと8月一杯までだった。この出向は、おれの人生で最も濃かった日々、といえる。

どんな仕事になるのかわからないまま「社命」に従い行ってみると、いきなり「宮田輝秘書」の名刺を持たされ、総務と遊説の責任者ということだった。総務と遊説というと、参謀格の幹部をのぞく、ほとんどのスタッフと業務が指揮下になる現場の責任者だった。

このビルのワンフロアーは広く、エレベーターから最初の部屋は応接スペース、次がおれもいる事務室で、参謀格の幹部数名ほどのデスクや、10名ほどのスタッフのデスクや作業のスペースがあり、その奥が会計責任者の部屋、その奥が事務長の部屋、その奥に泊りのスペースがあり、おれは投票日の3ヶ月ほど前から、ここに一日置きに泊ることになった。

隣のビルのワンフロアーは、うぐいす嬢の研修トレーニングや、彼女たちも含めたアルバイトの控室だった。

ほかに指揮下ではないが連絡を密にしておかなくてはならない事務所があった。「企業ぐるみ」ということで宮田候補を応援するのはトヨタ自販(当時)で、この九段の本社ビルに選対の事務所があった。「企業ぐるみ」は、自民党側が企業に割り振った候補を応援するのだが、企業側には、それぞれ「事情」があった。

当時は、首相の田中角栄と大蔵大臣の大平正芳の派閥が、いわゆる「角大連合」で主流派だったが、選挙となると派閥ごとの戦いになる。宮田は、田中派と大平派が争って、大平派が獲得した候補だった。そこにもいろいろ「事情」があった。ところが、トヨタ自販は、田中派と密接な関係があり応援していたのだ。

トヨタ自販の選対のほうで宮田を担当する責任者は、1964年東京オリンピックのバレーで金メダルをとった「東洋の魔女」の一人だった。この方には、いろいろ親切にしてもらった。

ほかに、候補者宅に女性秘書が一名付いていた。候補者は全国を遊説して、たまにしか帰らない。その間は夫人が一人になるので、泊りこみだった。おれは、何日かおきに行って、あれこれ打ち合わせやら、不満を聞いたり。彼女は、選挙中というか公示日ごろ、ある事件で、大変な思いをした。

自民党本部の幹事長室でタレント候補の特別選対会議が開かれるときは、ほかの事務所は事務長が出席したが、宮田事務所だけは事務長ではなくおれだった。みな50代以上、バリッとした恰好のなか、若造のおれが一応上着は着ているが、ノーネクタイにジーパン、長髪でぼさぼさ頭。しかも、候補者の「格」のようなものがあり、宮田はNHKのど自慢や紅白の司会をつとめ理事にまでなった人だから、おれは幹事長席に近い一番の上席に座る。初めてのとき、幹事長には十分怪しまれた。

おれをそこに出席させた事務長は賢明だったといえる。幹事長は田中派だからだ。その立場から、知名度抜群の宮田を自派に有利に使おうとする。なにしろ幹事長だから、なにか要請されたら事務長は正面切って断るわけにはいかない。党員だし、あとあとのことがある。で、おれを出席させておけば無難というわけだった。彼はおれに、「なにを頼まれても全部断って来ればよい」とだけ指示して、おれはその通りにした。幹事長もほかの事務長たちも、宮田が票をとりすぎると「悪影響」が出るということから、ああだこうだいった。ぜんぶ無視。

事務所は、大平派の国会議員の私設秘書、大平派と密接な企業から出向者、宮田個人を応援している企業から出向者、NHKのOBで宮田を応援するひと、将来政治業界に入りたい学生のアルバイトなどだった。

おれの文字通り右腕となったギュウチャンがいて、おれは大いにたすかった。かれは大手アパレルからの出向で27歳ぐらいだった。仕事ができるひとだった。

公示前の日常の事務仕事の大部分は、候補者の遊説と後援会のフォローだ。とくに東京での遊説のばあいは、会場の下見から設営、会場周辺のポスターはりや看板立て、その撤収などがあった。後援会のフォローは、そのための物資や宣材の発送が多い。これら力仕事のほとんどを、ギュウチャンがアルバイトを使って完璧にこなした。おかげで、おれは自分の仕事に専念できた。

とか思いだしているときりがないな、やめよう。

宮田は目標だった200万票をこえる票を獲得。

選挙結果は、「自民党62・社会28・公明14・共産13・民社5」で「7議席差の保革伯仲」といわれた。自民党以外は、まだ「革新」だったのだ。7議席差とはいえ、ここで、なりふりかまわず保革逆転を阻止した自民と、保革逆転ができなかった「革新」の差は大きかった。やがて民社や公明が「革新」を捨て、自民に接近する流れにつながったといえる。

祝勝会と事務所のご苦労さん会は、たしか9月になってからだった。赤坂の四川飯店だった。それから一ヵ月もたたないうちに、いつもおれが乗る事務所のクルマを運転してくれたMさんが盲腸炎をこじらせ急逝した。23歳ぐらいだったか、長髪で快活な青年だった。

煩雑な仕事で多忙だったが、この間、夜遅く、歌舞伎町でよく飲んだ。これ以後、政治の仕事にはあまりはまらなかったが、歌舞伎町には、シッカリはまった。

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2015/11/08

「ですます」の気分転換に、ザ大衆食のサイトに『雲のうえ』のページを作った。

はあ、今月になって、初めての更新だ。いったい何をやっていたのだろう。出かけもしたし、とにかく原稿書きだ。

なんとまあ、おれに原稿依頼なんて、何かのまちがいじゃないかと思われる超カタイところからの依頼で、それゆえ「ですます調」で書いてほしいとの注文つき。「ですます調」の鍛錬にもよい機会だと、気軽に引き受けたはよいが、やはり苦労した。いや、まだ、苦労している最中だ。いい勉強になりますなあ、ニンゲン、いくつになっても勉強だ。

しかし、やはり気分転換もしたくなる。なので、以前からやろうと思ってやれてないことのアレコレに、バラバラ手をつけた。そのうちの一つが、ザ大衆食のサイトに、文を担当した『雲のうえ』22号うどん特集を掲載すること。

掲載してみたら、以前に5号食堂特集の文を担当した、そのことに関するページがすでにアップされていたので、5号と22号をたばねる、『雲のうえ』のトップページを作った。

ザ大衆食のサイトは、ボチボチ直しているのだが、しばらくホームページビルダーをいじってなかったから、忘れている操作もあり、めんどうが多いが、これはこれでやり始めるとおもろく没頭できる。つまり、気分転換によい。

あわてたのは、作ったページをホストにアップしようと、FTPツールを使いアクセスしたら、パスワードが無効で使えないと言うのだ、機械の野郎が。そんなわけはない、だいたい、ここのところ使ってないのだから。

ああでもないこうでもないで、NIFTYのサービスをひっくり返して見たら、6月ごろにホストに侵入者の形跡があったので全パスワードを無効にする、ついては新たにパスワードを設定するようにメールが届いていたのに、気がつかなかったのだ。

近頃は、メールもちゃんと見ないことが多い。見たとしても忘れる。返事をしたツモリになると、もう思い出すことはない。すべてにおいて、反応が鈍くなっている。ボケのせいにしていたが、ほんとうにボケが始まっているのかもしれない。それはそれで気楽でよい。そう思っているので、ますます反応が鈍くなる。

ところで、ザ大衆食のサイトに作った、『雲のうえ』のトップページは、こちら。そこから、5号と22号のページにリンクを張った。…クリック地獄

5号のときは、60代になっていたけど、いまから思えば若かった。アタリマエか。

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