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2016/01/31

戸板康二「米の飯」から。

山本容朗さんが編集の『日々これ好食』(鎌倉書房、1979年)は、飲食に関する作家の作品から「二編の小説と四十八の随筆」を選んでいる。

そのなかの戸板康二「米の飯」に、こういう文がある。以下引用………

 ライスカレーをはじめ、上にものをかけて食べる米の食べ方を、ぼくは一番、身になる食べ方のような気がしている。ぼくは高級レストランで食べるビーフシチューを飯にかけたい誘惑に、しばしば襲われる。
 三田通りにむかしあった洋食屋の加藤では、「カツのっかり」というのが名物であった。カツを飯にのせて持って来るのである。ナイフを入れてあって、ソースを上からかけると、カツの間からそれが飯に沁みていった。
 ハヤシライスにしても、のっかりにしても、カレー同様、飯をじかに自分の身につける気のする食べ物である。むろん、その米が、よく炊けていたら申し分はない。

………引用終わり。

引用しながら、ヨダレが出てきた。加藤の「のっかり」については、池田弥三郎『私の食物誌』にも、「のっかり」の一文があり、拙著『汁かけめし快食學』でも引用している。

体験的には、カレーやハヤシライスやのっかりは、「上にものをかけて食べる米の食べ方」である。「ぶっかけめし」「汁かけめし」のはずだが、こういう体験は、なかなか「歴史」にならない。ってことについては、その何故も含めて、『汁かけめし快食學』でも書いた。

それはともかく、「身になる食べ方」「飯をじかに自分の身につける気のする食べ物」という表現が、いいねえ。

戸板康二は、1915年生まれ。この文でも「米というものが、何ものよりも尊くおもわれたあのいやな時代」「「天道様と米の飯はどこへもついてまわる」という諺が、遠いところへ行っていた暗黒の時代、もうあんな時代は二度と願い下げにしたいものである」と述べているが、戦争の飢餓を体験している。「身になる」は、だからこその表現かもしれないが、食うことの根源のような気がする。

「暗黒の時代」は願い下げにして、身になる食べ方をしたい。もしかすると、「身になる食べ方」を大切にすることは、「暗黒の時代」の再来をふせぐことにつながるのかもしれない。

なにより、こういう体験を大切にし、シッカリ語り継ぎ、「歴史」にすることだろうね。ふわふわした味覚の話ばかりしてないで、「身になる食べ方」から「身になる歴史」をつくる。なんてね。

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