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2016/02/01

開高健『鯨の舌』から、味の言葉。

きのうの話の、山本容朗さんが編集の『日々これ好食』(鎌倉書房、1979年)には、開高健『鯨の舌』も収録されている。

開高健というと、味覚の表現が豊かで、それも、世界の認識や真実に迫ろうという姿勢が、おもしろく楽しいし、ためになる。この話のばあいも、そうなのだ。

『鯨の舌』は、おでんと鯨の話だが、大阪生まれ大阪育ちの氏のことなので、とくに道頓堀にあるおでんやの「たこ梅」と、鯨のコロやサエズリのことが中心になっている。

とにかく、例によって、多彩な言葉を「まさぐり」ながら動員して味覚を探索しているのだが、「味」の言葉が多い。

「たこ梅」特製のコンニャクについて、「淡白な滋味」に感動するのだが、そのコンニャクを刺身や天ぷらにすると、「《無味の味》とでもいうか禅味があって、私は好きである」とか。

禅味なら、なんとなく想像つくが、サエズリについては、こうだ。

「サエズリの味を文字に変えるのはたいそうむつかしく、ほとんど不可能を感じさせられる――すべての"味"や"香り"がそうであるが――」と書いたのち、「奇味。怪味。魔味。珍味。」とあげる。

そして「いろいろと風変わりでしかもうまいものを表現する言葉をまさぐりたいが、子供のときから鯨をいろいろな料理で食べ慣れてきた私には珍しさよりも親密さがあって、もし一串のなかで香ばしくて淡白な脂のあるコマ切れに出会うと、滋味、潤味という言葉を選びたくのである」といったぐあいに続けるのだ。

味覚には、多様で豊かで雑多な快楽があるはずだが、とくに近頃は、あんがいツマラナイ話が多い。なんていうのか、書く人が自分の感覚の心地よさに酔っているような、味覚自慢のような、とにかく言葉をつくしているようでも、なんだかふわふわしていて薄っぺらで、味覚を掘り起こしてくれるような話が少ない。

「私は「いい味」を知っている」式の話は、ともすると説教臭くもあり、辛気臭くて、解放感がない。だから、味覚が、ちっとも楽しくない。

味覚というのは、世界の真実を認識し理解をするための大切な感覚なのに、いつのまにか、卓抜した感覚や能力を称賛したり誇るためのネタになった感じがある。満たされない自己の何かを満たすための踏み台になるネタを、味覚に求めている人が少なくないということでもあるのだろうか。

もっとも、いまどきは、「世界」だの「真実」だのというのもダサイ感じで、そんなことより、自分の心地よさが大事という感じではある。

開高健の味覚の話は、食べる歓びや、未知の世界へ、どーんと解放してくれるような、おもしろさがある。

以前このブログでもふれた、昨年亡くなられた文化人類学者の西江雅之さんの食の話がおもしろいのも、世界や人間の多様性を認識しながら、かつ興味深く追いかけていたからではないかとおもう。

味覚は、広い世界、深い真実へ向かってこそ、おもしろく楽しい。

おれは、聴覚と視覚が失われた、ヘレンケラーのような人の味覚を想像してみた。味覚は、世界や真実の窓口であり、それらを認識する重要な手掛かりなのだ。それを、ふわふわと消費していて、いいものだろうか。

日本の文化は、日本料理など典型的だけど、系譜主義と純血純粋主義の影響を強く残している。そこにある狭量な価値観は、少なからず味覚にもつきまとっている。

はあ、もっと解放された味覚で、大らかに食を楽しみたい。

そういう意味では、おれが最も好むのは「痛快味」なのだ。でも、これ、しゃくだけど、まさに系譜主義と純血純粋主義の権化みたいな、辻嘉一の本から知った言葉なのだ。辻さんは、「快味」という言葉も、ときどき使っていたとおもう。ま、ニンゲンは、矛盾に満ちた動物であるってこと。

いままで最も傑作だった味の表現は、大宮いづみやの名代もつ煮込み(170円だったかな?)を「ルサンチマンの味」と書いたひとがいて、これですね。脱帽。

「ルサンチマン」って、「悪」「負」「タブー」のイメージだけど、それはルサンチマンの標的になりやすい立場にあるエスタブリッシュの希望なのではないだろうか。そんな思想をうのみすることはない。

ルサンチマンを抱え安酒場で飲んで癒されているものが、せっかく頂戴したルサンチマンを簡単に放棄すべきではないだろう。ルサンチマンの味は、ルサンチマンを植えつけられたうえ、さらにそのルサンチマンを否定される状況からの解放であろう。ある種、痛快味でもある。いや、このうえない野暮味かな。

なーんて、考えた、『鯨の舌』だった。

当ブログ関連
2007/11/18
大宮いづみやで「ルサンチマンの味」を知る

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