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2016/02/14

「深情け」問題。

味覚に関する本を読んでいたら、「悪女の深情けはいけない」という表現がでてきた。

それは「日本の美点」に関係する調味料の話で、それがどんなに美味であっても、「悪女の深情けはいけない」というのだ。

話としては、まったくその通りで、よくわかることなのだが、「悪女の」をつけなくても、「深情けはいけない」で十分に話は通じる。なんのために「悪女の」としたのか、文学的なアヤなのか、チョイとひっかかった。

書いているのは男の作家だが、「深情けは」は男にも女にもあり、どっちにしろいいことではない。男の深情けも女の深情けもコワイものがある。

「情け」だって「贔屓」だって「思い入れ」だって、なんでも「度」が過ぎたらよくないに決まっている。

だけど、いったん「好き」となると度をこしやすい。好きなんだからいいじゃないか、ということになりやすい。押しつけがましく、うっとうしくおもっているひとのことなど眼中になく、傍若無人ともいえる言動やふるまいに出る、「好き」ゆえに。

SNSなんてものが普及して、眺めていると、けっこうそういうことが多い。しかもSNSは、深情けにはまりやすいようだ。なにしろ、私がキレイとおもった花を、おなじようにキレイといってくれるひとが、簡単に見つかるのだ。そして気にくわないやつは、フォローしなければよいし、ブロックもミュートもできる。

「ニッポンすごい」とやらは組織的にお盛んなようだし、度のすぎた粘着質の「○○すごい」やら「オレすごい」やらが、あふれかえっていて、それに批判どころか、ちょっと疑問を示したぐらいで根に持たれ、大変なことになる。「深情け」は、たちまち「憎悪」に変わったりするのだ。もうとてもオトナのこととはおもえない。

「深情け」の裏側には、過剰で幼稚な自己愛や自意識が貼りついていて、ワタシが好きなことに、ちょっとでも疑問をさしはさまれると、たちまち、それが強力に前面に出てくるようだ。

おれは、ベタベタするのは苦手のうえモノグサもあって、「情け不足」が常態のように見られるようだし、そのうえあまり忖度なくものを言うから、「もっとファンを大事にしたほうがいいよ、あんたは冷たすぎる」と忠告されることもあるが、「そうかなあ」ですましている。

もともと「度」というのは、はかりかたが難しいものではある。

ファンを持つのも、ファンになるのも、メンドウなことだ。それに「深情け」は、公平公正を欠きやすい。お互いに、普通に大らかで愛情豊かであること、つまり公平公正に公共関係が成り立つことを心がけていればよいのではないか。

とくに食べ物や味覚などは、公共関係をよりよくするのに、大いに役立つものであるのに、「深情け」でそれを難しくしては、なんにもならない。

今日はバレンタインデーだが、誰もチョコをくれないぐらいが、ちょうどよいのだ。酒をもらうのは、情など関係ない好物だから、意地汚く飲めて、うれしいが。

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