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2016/05/31

「つくる!」「なごむー」「たべる!!」大田垣晴子『きょうのごはん』。

001「食生活」については、カタクルシイ話やキマジメな話が少なくない。

だいたい、「生きること」に関わる話というと、ある種のカタクルシさやキマジメさがついてまわる。アバウトやテキトーは、不真面目や手抜きや野暮として非難されかねない。そして、かたくるしくキマジメな戦意がのさばる。おれのようなズボラで大ざっぱな人間は、まことに生きにくい。

これは、日本人のあいだに深層的によこたわっている、茶道や武士道などの「道」の精神というか思想、そして近代のごく日本的な自然主義文学の影響だろうと、おれは決めつけている。とくに日本の食文化をめぐるアレコレを見ていると、そう思う。

しかし、それは権威的権力的に主流であったりするが、世の中いろいろなのだ。そうでなくては、ツマラナイ。

先日、古本で買った大田垣晴子の『きょうのごはん』(メディアファクトリー、2005年)はおもしろい。いい感じだ。

著者独特の画文集だが、腰巻から引用すると、構成はこのようになっている。

「煮る、焼く、漬ける、保存などなど、毎日の食卓に酒のつまみにぴったりなメニューが描かれた『料理道場』。セイコが実際に友人をもてなしたフルコースレシピの『MENU ムニュ オオタガキセイコ特製レシピ』。食にまつわるあれこれを描いた『クイイジっぱり』。家族ごはん4コママンガの『キュウちゃん』」。

日常のひとりめしから「おもてなしごはん」、あるいは外食や旅先の食事などが舞台になる。著者は酒が好きらしく酒のつまみも充実している。

自己流のところもある。自己流を否定しない。

料理は、たいがい「自己流」なものだ。いわゆるプロが示す「基本」「基礎」といわれるものでも、それぞれの系統や系列にしたがって自己流であるし、豊かな文化というのは無数にある自己流のもみあいのなかで育っていくものだろう。

「クイイジっぱり」の「ご飯とみそ汁」では、「わたしは『作るのが好き』でも『片づけ』がヘタ。片づけることを『手間』に思うんです」という。

たいがい料理上手や生活上手を語る人たちというのは、準備から片づけまでカンペキを誇る。細々としたところまで、じつにカンペキでありケッペキなのだ。どこから見ても、清く、正しく、美しい。

その「カンペキ主義」と「ケッペキ主義」が、とてもカタクルシイ。食生活、いや「生活」というのは、そういうものでナケレバナラナイ、というような、ヒジョーに高度で教条的な意識を感じる。

「ご飯とみそ汁」では、だしをとる話で、「何が『手間』と感じるかは人それぞれでしょうが」という。たぶん、人間というのは、「手間」と感じたことを、省略したり要領よくこなしたり、そこに合理的な精神を働かせたりする。そこに文化の違いや個性もあるだろう。「手間」は、その感じ方からして、一様ではない。いまハヤリの「丁寧」も、そういうものだろう。

そのだしをとる画文では、「大ざっぱなだしのできあがり」が描かれている。「大ざっぱ」を否定しない。

全体を通して、「大ざっぱ」が生き生きとしている。作ること、食べることが、かたくるしくならず、のびのびしている。

でも、作るときや食べるときの細かいところも、ちゃんと描かれている。それは、著者が実際にやって気づいたところであって、カンペキを期すための説教ではない。

「あとがき」に、「わたしの『ごはん』の三大テーマ」として、「つくる!」「なごむー」「たべる!!」とある。これもいい。

生活は、昼夜のように、向こうからやってくるものだ。どうせやってくるものならば、どう迎えるか。ってことでもあるのだな。大田垣流、なかなか楽しくおもしろい。

当ブログ関連
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「食べる」「つくる」「考える」。

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