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2016/06/04

労働者!

少し前のことだが、『散歩の達人』4月号は、20周年記念企画の第一弾で、「酒場100軒」という特集だった。

そのなかに、「ライター西澤千央がすすめる清く正しい労働酒場」というのがあった。おすすめの酒場は、横浜・新子安の「市民酒蔵 諸星」だが、西澤さんの文章が、おれの興味をひいた。

本文には「京浜工業地帯の酒場で労働賛歌を聴く」の見出しがついて、その書き出しは、「私は労働者だ」で始まるのだ。

おれはうれしくなって、「おお、おれも労働者だよ」と応えた。おれはザ大衆食のサイトに、「世間では『フリーライター』といわれる不安定自由文筆労働者」と自己紹介している。

「しかし」と西澤さんは書く。「フリーランスはなかなか『労働者』の仲間に入れてもらえない」

たしかに、そうなのだ。そこで、おれが大宮の「いづみや」へ行くように、西澤さんは「諸星」へ行き、「ここで架空の労働者となる」

本文のむすびは、「隣に座った若い労働者にかつての自分を重ね……あぁ夢なら覚めるな、労働酒場」と。

うむ、いいぞ、とおもった。

ときどき、ここを取り出して読んでは、いいぞ、とおもう。いまも取り出して読んで、こうして書いている。

まもなく73になるおれの人生で、近年ほど、「労働者」が、その言葉も含めて軽んじられたことはなかった。その「近年」は80年代ぐらいから始まるのだが、1985年の労働者派遣法の成立あたりが大きな転換点だったろう。

労働者は使い捨てがアタリマエになり、年々、労働者の立場は、政治的にも経済的にも、なにより文化的に、軽んじられてきた。

使い捨ての労働者になるのは能力のない人間である、自分の努力が足りないからだ、自分への投資が足りないからだ、テナ認識が共有されるようになり、組織の「会社員」はバカにされ、フリーターとかわらないようなフリーランサーや自営業までが、自分の好きなことをやって自分の能力で生きる自由で素晴らしい人生や文化の体現者としてチヤホヤされたり、ときには貶められたりするようになった。

一方では「文化的」な「クリエイティブ」な仕事をしているものや特殊な「職人技」や、「アントレプレナー精神」「起業家精神」などが持ち上げられ、独立自営を促進するようなキャンペーンが続いている。

「小商い」なるものも脚光浴びているが、昔から景気が悪くなると「スモールイズビューティフル」がはやり、企業からの労働者の放出と独立自営や就農が鼓舞されることが繰り返されているのであり、オイルショックのあとの「ペンション開業ブーム」などは、そのよい例だ。

そして、バブルが崩壊し大リストラが横行し、「労働力」が絶えず流動しているのがアタリマエとなり、労働者は使い捨てがアタリマエになった。会社にしがみつこうとしたり、会社にしがみついて生きていると、ばかにされる風潮も横行している。就職しないで生きることが、さもさも素晴らしいかのような主張も、なかなか華やかだ。

おれは、「小商い」も「職人技」も「起業家精神」も、けっこうなことだとおもうが、それがどういう構造で語られ礼賛されているかは、大いに問題とおもうし、そのへんを考えない、この種の礼賛は、ようするに迎合であり、うすっぺらに感じる。

「労働者」という言葉自体が、労働行政や労働問題など以外では、あまり使われなくなり、「市民権」を失っている感じもある。

労働者の嗜好や文化などは「労働者」のそれとしてではなく、「下町」という言葉や「市民」「庶民」に置きかえられて語られることが、普通になった。もちろん「下町」でも「市民」でも「庶民」でもよいのだが、その言葉に労働者の文化と歴史を受けているかだろう。そこのところは、じつに心もとない。

ここまで労働者をないがしろにしながら、そのじつ使いツブスほどコキ使うだけで、その先になにがあるのだろう。

獅子文六は『食味歳時記』で「若い学生と労働者の健康なる食欲を、私は尊敬する」「健康なる労働者が、一日の仕事が終わって、飲み食いする愉しみも、想像できる」と書いているし、おれは、その解説で「労働者の味覚や労働者的食欲の文化は、著者がいうまでもなく、もっと正当に評価されてよいはずだ」と書いたのだが。

働かなければ食べていけない労働者が圧倒的なはずなのに、おかしなことだ。

ま、とにかく、『散歩の達人』なんぞに、「私は労働者だ」というライターさんが登場して、とても愉快だ。かっこいいよ。

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