« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016/07/31

「川の東京学」メモ、川本三郎『遠い声』から。

032

「詩小説」を謳う川本三郎の掌編集『遠い声』(発行・スイッチ書籍出版部、1992年)は、不思議な味わいの書だけど、東京の川(河)や橋がよく出てくる。

205ページに48の掌編が詰まっていて、その最初の「救済の風景」の書き出しから、「知らない町に行きたかった。まだ一度も行ったことのない町に行きたかった。それもできれば川沿いの町を選びたかった」で始まる。

そして「その町は東京の西を流れる大きな川の河口にあった」と。

この川は多摩川だけど、ほかの掌編に登場の川は、ほとんど「東東京」の川だ。

「救済の風景」の次は、「朝、川へ」だ。このようにタイトルに川や橋がある作品は、「橋」「河を渡ってマジック・アワーへ」「橋からの眺め」というぐあいだが、「救済の風景」のようにタイトルに川や橋がなくても、それらが登場する。

腰帯に、著者が「スイッチ」92年1月号に書いた、こういう文がある。

「ふと路地を曲がった途端に全然いままでと違った風景が出てくるというような、生活の延長にある日常的なファンタジーという意味で、幻影に惹かれるんです」

川や橋は、さまざまなファンタジーをもたらす「装置」のようだ。

「川」をはさんで「こちら側」と「向こう側」があり、その橋渡しとして、「橋」がある。この関係がファンタジーを生み、だけど、リアルと反対の位置にあるファンタジーではなく、それはファンタジーだけどリアルな体験なのだということは、たしかにある。

このあたりのことが、もっとも鮮明に書かれているのが、「河を渡ってマジック・アワーへ」だと思う。

「河を渡ってマジック・アワーへ」では、「電車を二つ乗り換え、東(この「東」に傍点がある)東京から千葉の方に延びている私鉄に乗った。河を見たくなるときはいつもこの電車に乗る」。

この電車は京成成田線だろうけど、「千葉県に入るまで、隅田川、荒川、中川、江戸川と四つの河を渡る。ふだん西東京に住んでいる人間には、河を四つも渡ることはとても新鮮な体験になる。電車が鉄橋を渡るたびにこの都市にはこんなにたくさんの河があったのかと驚く」

そういえば、川の東京学で山本周五郎の「青べか物語」を散歩するために浦安駅で待ち合わせたとき、電車から降りてきた、杉並の中央線のほうに住んでいる瀬尾さんがまず言ったことは、「鉄橋をたくさん渡るんでおどろいた」だった。

「驚き」はファンタジーでもありリアルでもある。どうやら「詩」はこのあたりで生まれるのかなと思うのだが、川と橋があることで、思いがけない風景や驚きと出あえる。

それはともかく、川本さんが乗った電車は、「運河のような隅田川を越える。鉄橋を渡る時の音が耳に心地よかった。「橋」というのは不思議だ。どんな小さな「橋」でもそれを渡ると、違った世界、別の場所に入ったような気がする。"向こう側"に入っていくような気がする」

そして著者は、荒川を渡って最初の小さな駅で降り、商店街をぬけ、荒川の高い土手を駆け上がる。

「視野が一気に開けた。広い河川敷の向こうに荒川のゆったりとした流れがあり、その先にいま電車で通り過ぎて来た町の光が夕暮れのなかで輝き始めていた。河に沿って走る高速道路の照明灯が白い光を放っていた。「風景」というより「パノラマ」だった」

見たことがある。こういう景色、目に浮かぶ。

「荒川の土手から対岸の東京を見ながらいまがその「マジック・アワー」かもしれないと思った」

「マジック・アワー」とは、川本さんが雑誌で知ったカメラマンたちの呼び方で、夕暮れ時、太陽が沈んでしまったあと、残照でまだかすかに明るい時間のことをさす、「短い特別の時間」のことだ。

「トワイライト・タイム」「トワイライト・ゾーン」という言い方もある。夜から昼、昼から夜へと、リアルが別のリアルに変わる時間や空間、どちらでもあってどちらでもない、どちらでもないがどちらでもある。まさにファンタージなのかも知れないが、そこにまた別の真実が見えたりする。

「こちら側」と「向こう側」は、仏教的な用語だと、「此岸」「彼岸」ということになるか。

男と女のあいだには深くて暗い川があったり、2人を隔てる天の川もある。あるいは、スピリチュアルなどにはまってしまった人のことを自分は正常と思っている人は、「向こう岸の人」などと言ったりする。これらは、橋がない状態のようだ。

人と人のあいだに川をつくりたがる人もいれば、橋をかけようとする人もいる。

山﨑邦紀さん脚本監督の作品、たくさんは見てないが、彼のピンク映画には、川や土手や鉄橋が印象深く映像化されている。とくに、題名を忘れたがボーイズラブ系の映画では、利根川の栗橋あたりの映像が印象的で、シッカリ記憶に残っている。

ほかにも、鉄橋を渡る電車のなかで映画が終わる場面があって、それを見たときに、山﨑さんに、なぜ川や土手や橋なのか聞いたら、たしか「此岸と彼岸ですよ」と言われたように記憶している。ある種の隠喩でもあるか。「あちらからこちら、こちらからあちら」というようなことだったと思う。ボーイズラブの人たちのほうが、此岸と彼岸を意識することが多いのかもしれない、その分、世間をいろいろに見ているのかもしれない。

川の東京学、いろいろ刺激的で、おもしろい。

当ブログ関連
2016/07/16
川の東京学メモ 「下町はこわかった」。

967

|

2016/07/30

東京新聞「大衆食堂ランチ」45回目、ときわ台・キッチン ときわ。

Photo

梅雨が明けて暑さが厳しいけど、梅雨の最中も何度か暑い日があった。ときわ台の「キッチン ときわ」へ行ったのは、7月6日、暑い日だった。

ときわ台は、ひさしぶりだった。かれこれ20年前ぐらいになるか、知人がときわ台駅北口から10分ほどのところにあるマンションに住んでいて、そこにおれの荷物を預かってもらっていたから、ときどき訪ねることがあった。

なので、この食堂や、SB通り(昔からカレーのSBの工場があったので、こう呼ばれているらしい)にあった大衆食堂(すでにない)のことは、入ったことはなかったが、存在は知っていた。

ときわ台は、庶民のイメージの板橋にありながら、「北の田園調布」といわれたりするらしい。北口の改札を出ると、木の茂る植え込みがあるロータリーから、放射状に道路がのびているからだろうか。

ただ、田園調布の駅は高台の底のほうにあり、放射状の道路は高台へ向かって登っているが、こちらは駅が高台にあり、駅近くの「キッチン ときわ」の前の道路は、しだいにSB通りへ向かって下り坂になっている。

この地形が、「キッチン ときわ」やSB通りの大衆食堂の、かつての繁盛と大いに関係があったと見ることができる。つまり、ときわ台駅がある台地から下ったほうには工場がたくさんあり、そこの労働者が、出前を含め、多く利用していたからだ。

高台はお屋敷街で低い方は工場の街という東京の台地側の構造だったのだけど、ご多分にもれず、宅地化が進み工場はマンションになり、ときわ台は、落ち着いた住宅街の雰囲気になった。

003001キッチンときわは、1962年に、当時新築のこの建物で始まった。1962年は、おれが上京した年だ。店主夫妻は、新婚でここを始めたのだから、もちろんおれより年上になる。

笹塚の常盤食堂は、たしか1964年に建て替えだけど、ここの建物と外観の仕上げが似通っている。当時、流行りだったらしい。その比較は、そのうち写真でやってみたい。常盤食堂は和風を基本にしているが、こちらは、「洋食・中華・喫茶」の店という違いが、建物にもある。

サンプルショーウインドーまわりなどは、なにもかも手仕事だった時代の、あのころの特徴を、切ないぐらいよく残している。しかも、よく手入れして、使い込んでいる。店内の天井は高いし、とても落ち着くのだ。

当時のこういう食堂では、喫茶メニューのコーヒー(インスタントが普通だった)やコカコーラが、ハイカラ気分を盛り上げていた。この店でも、たぶんそうだったのではないかと想像した。

それはともかく、この日は、暑かったこともあり、また外のサインボードに書かれた「当店人気自家製スープ 冷し中華ソバ」が、その文字のシッカリぐあいからして気になったので、これを注文した。

7月15日の掲載だったので、すでに東京新聞のサイトに本文が載っている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016071502000154.html

009

014

|

2016/07/24

新潟日報、獅子文六と枝豆。

001とりあえずビールと枝豆、という季節ですなあ。

7月18日の新潟日報が届いた。「にいがた食ひと紀行」の26回目が「獅子文六と枝豆」なのだ。少し前に、担当の文化部の記者の方が、取材で東京に来られたときに会った。おれが獅子文六の『食味歳時記』(中公文庫)の解説を書いている関係で、獅子文六のことや枝豆のことなどを話した。そのときのおれのコメントがちょっとだけ載っている。

「にいがた食ひと紀行」は、新潟日報メディアシップ5階にあるという「にいがた文化の記憶館」と連携した企画らしいが、新潟の食とゆかりのある著名人のエピソードや著作などをもとに、そのひとと新潟の食を紹介している。大活字の全5段を使った、いい企画。

『食味歳時記』では、9月にあたる「今朝の秋」に枝豆が登場する。獅子文六も枝豆は夏のものだと思っていたし、東京あたりではそう思っている人が多いだろうけど、ちがうのだ。6月ぐらいからわせが始まり、これから9月中頃までが、いわゆる「旬」なのだ。

獅子文六は、「関東産の枝豆を、美味なものと、思ってたが、近年になって、その誤りを知った。/枝豆は、越後とか、庄内平野のものが、ウマいのである」「新潟のも、酒田のも、実がマルマルと肥えて、見るからに立派だったが、食べる時に、オナラの臭いがするのも、同一だった。最初は辟易したが、そんな臭いがすることが、豆の味のウマさと、密接な関係があるらしく、しまいには、それが魅力となった」と書いている。

「オナラの臭いがする」には、オナラだっていろいろな臭いがあるから見当がつかないが、とくに茹でたては独特の臭いがするのは確かだ。

これは、山形産の「だだ茶豆」で有名になった茶豆の種類らしいのだが、新潟でも庄内と同じ茶豆を作っているし、味も甲乙つけがたい。記事によれば、新潟市西区黒埼地区のものが「黒埼茶豆」として、よろこばれ賞味されているとか。その生産者も取材している。「茶豆の里」というJA越後中央の農産物直売所もある。

山形の庄内というと酒田や鶴岡が中心だが、そこの「だだ茶豆」と「黒埼茶豆」のつながりを追いかけたのち、最後にこう書いている。

「つながりが深い「黒埼茶豆」と「だだ茶豆」だが、山形大学農学部の江頭宏昌教授(51)は「鶴岡は間食文化。女性や子供が小腹を満たすのに、甘みが強いものが好まれる。新潟の人たちは酒のあて。甘みより、うまみ重視する」と説明、風土や食文化が品種改良に反映されているのが興味深い」

ほんと、なかなか興味深い。

ってことは、酒のつまみには新潟の茶豆のほうがよさそうだが、新潟県人も大人にかぎらず枝豆をよく食べる。関東とは一度に食べる量からしてちがう。どこの家でも、ザルに山盛り茹で、大量に食うのだ。「酒のつまみ」といった優雅な食べ方ではない。おれが子供の頃からそうだったが、いまでも変わらないらしい。

じつは、新潟県は枝豆の作付面積は全国一なのだが、出荷量の順位は下がるのは、県内消費が多いからだ。県民の経済や文化などの「格差」に関係なく、枝豆の季節になると県民こぞって賞味するのは、食文化としては素晴らしいことだ。作付面積全国一と共に、「枝豆王国」は、虚構ではない。

しかし、食文化としては豊かで素晴らしいが自家消費は「経済」にならない。そこが悩ましいところだ。

この記事は文化のことなので、経済にはふれてないが、いまや東京市場でブランドになれるかどうかによって、地方の「経済」は左右される。そして、東京市場でブランドになることは、選択肢の多い東京人の消費の気まぐれに左右されながら、地元の消費が流通量や値段などで圧迫を受ける関係にもなるのだ。つまり地域の食文化は面倒を抱えることになる。それで地域の食文化が危機に瀕したり、変わる例もある。そのへんは、なんでもいいものは東京に集まるのがトウゼンと思っている東京人階層は気づきにくい大きな矛盾だろう。

それはともかく、この記事の冒頭に、獅子文六の息子さんが登場する。文六が還暦の年に生まれ、16歳で死別、現在62歳だ。記者はその方まで取材している。おれはその帰りに、大宮で会った。

一地方紙、がんばっている、なかなかの力作。

当ブログ関連。
2016/04/21
解説を書いた獅子文六『食味歳時記』中公文庫復刊が今日から発売。

|

2016/07/18

日本の変わり目。

酒と肝臓のことを考えているうちに、昨日書いたような、身体や健康やバランスのことを考えることになり、今日は日本の変わり目と身体や健康や病気のことを考えるようになった。

体験的にふりかえってみると、戦後から高度経済成長期の入口ぐらいまで、ま、感じとしては1955年ぐらいまでは、社会が病気や病人を抱えているのは普通という状態だったと思う。人間あるいは人間の社会は、病いを抱えて生きているものだという認識があった。

それが高度経済成長期を通じて変わっていった。これが最初の変わり目。

つまり病気や病人がマイナスの存在であるという認識が、この時期に広がった。それは、片方に生産に貢献するほどよい人間という、これは以前からあった考えだろうけど、とくに戦後の時代にはそれほど支配的ではなかったものが、表に出てきた感じと言えるか。

「能率」という言葉がはやり、やがてどれだけの技術や能力を持ち、どれだけの経済効果を産み出したかで人間がはかられるのが普通、という認識がマンエンした。

そして高度経済成長期が終わると、消費が経済成長に貢献するものになり、生産だけでなく消費の面でも優れているかどうかが問われることになった。

これは、経済効果で人間をはかる延長線だろうけど、優れた消費者としての感性やら知識やらがチヤホヤされる状態が生まれたという意味で、文化的には大きな変わり目だったといえるだろう。

生産にどれだけ貢献するかというなかでは、病気や病人はマイナスだったが、消費の面から見ると、必ずしもそうではない。そういうことで、健康増進法まで突き進んだ。このあたりが次の変わり目か。

では、人間あるいは人間の社会は、病いを抱えて生きているものだという認識があるかというと、そうではない。

優れていなくてはならない、健康でなくてはならない、病気はマイナス、さまざまな意味で劣っているのはマイナス、という認識のうえに健康増進法は成り立っているのだ。

ってことで、時間がなくなったので、ここまで。

|

2016/07/17

身体、健康、バランス。

自分はよくわかっているつもりだが、それはいつのまにか自分の脳ミソに溜まった単なる思い込みにすぎず、じつはよくわかっていない、ということがけっこうある。それでも自分は正しい判断をしていると思っている。「健康」や「病気」という言葉についても、そのようなことがいえる。

「健康」「病気」とくれば「身体=からだ」があってのことだ。これがまたよくわからないシロモノだ。なのに、その身体が感じた味覚に、絶対的な自信を持つひともいる。

味覚のことはさておいて、「からだについて最も意識するのは、病気になった時だろう」ということはよく言われるし、実感したこともある。

このばあい、「病気」というほど大げさではなくても、「いつもと異なる調子」つまり「変調」をきたしとき、それが軽いものであっても、いつもと調子がちがう身体を感じる。

いま「「病気」というほど大げさではなくても」と書いてしまったが、そもそも「病気」についてもよくわかっていない。

でも、こういう言い方がある。「「私とはすなわち私というからだである」といういささか哲学的な実感をまさしくからだの内部から了解できる経験、それが病気である」

なるほどねえ、と思いながら、ここで飛躍するのだが、じつは飲兵衛というのは、健康や病気つまり身体について、最もよく知っている人種ではないだろうか。

二日酔いになるほどの悪酔いは、誰も病気とは見てくれないし同情もされないのだが、あきらかに身体の変調であり、不健康な身体の状態を認識できる。そして、自分で自分の二日酔いの身体と向かい合わなくてはならない。ほとんどは、医者のやっかいになることなく、自力で解決するのだ。もしかすると、仕事という社会的な関係まで。そこに身体や健康を知る大きなチャンスがある。

ひどい二日酔いを経験したひとは、二度と同じ目にあいたくないと思いながら、二日酔いにならない飲み方を研究し、あるいはクスリの類を備え、そしてやっぱり二日酔いするほど飲んで、二日酔いに陥った時の対策のさまざまを研究し、ということを積み重ねている。

実際に、飲兵衛が書いたものには、二日酔い悪酔いに関する話が、たくさんある。

それほどツライ目にあっても、それでも飲まずにいられず、そして二日酔いになり、ああ人間てなんてバカな生き物だろうと哲学を深め、つまり飲兵衛こそは、人間という動物、その身体を知る人物なのだ。

「健康」「病気」「身体」のことは、飲兵衛に聞け、いい加減な医者や哲学者や思想家やエセ科学者やエセ文化人やなどより、はるかに実践的な知識を持っている。

ではないか。

ではないかも知れないが、そうだということにして話をすすめよう。

実践的な知識といえば、「バランス」に関することだ。二日酔いというのは、身体のバランスが崩れて不調に陥った状態だ。

ここから回復するために、どんだけの努力をすることか。そのとき、自分の身体がどんな状態であり、何に対して何をなすべきか、考えて実行する。

水をガブガブ飲んで寝る。風呂に入る、いや、ただの風呂ではなくサウナだ。おかゆと梅干がよい。トマトジュースだ。なんといってもビールで迎え酒だ。などなど、涙ぐましい苦心と工夫と格闘。

それもいまやさまざまな知識と情報と商品により、いまおれの身体のわき腹なか10センチの、方位20度と30度が交差するあたりの細胞Yに、サプリメントなんじゃかんじゃを注入することで、沈没しかけているおれの身体のバランスは80度まで回復する、なーんていうじつに化学的かつ科学的なことになっている。

そして、自分の身体のバランスを知る。これが、生きるうえでも、大変価値ある経験知になる。

けっきょく、モンダイは、身体にせよ社会にせよ、バランスのとりかただ。

バランスのとりかたは、船と飛行機ではちがう。ヤジロウベエ型のバランスもあれば、皿回し型のバランスもあれば、独楽型バランスもあれば、宇宙型バランスもあれば、じつにさまざまだ。そのすべてが、身体のバランスと関係している。

そのめちゃくちゃ多様なバランスを、飲兵衛は二日酔いをきっかけに、二日酔いを重ねるたびに、一つひとつ見つけていく。複雑な人間の身体と社会は、このようにできていて、このようにバランスをとりながら成り立っていると理解する。

そして、しだいに、悪酔いしない、悪酔いしてもヒドイことにならない身体や社会を獲得する。

そうなればいいね。

ほんと、二日酔いはタメになります。積極的に二日酔いを体験しましょう。それも若いうちに。

|

2016/07/16

川の東京学メモ 「下町はこわかった」。

去る3月21日の「川の東京学2016 vol.0 春の遠足+川の東京学親睦会」では、野暮酒場で簡単なトークになった。そのとき、安倍徹郎さんが池波正太郎の藤枝梅安シリーズの文庫の解説で「下町はこわかった」と書いていると、アイマイな記憶で話した。

その文庫が見つかった。

『梅安蟻地獄』で、安倍徹郎さんは「池波さん・私記」というのを書いているのが、それだ。

安倍さんは、「池波さんは、こわい人です」と書き出す。「なぜ、そういうことになるのか」

「強いて分析すると、池波さんが東京・浅草生まれの下町っ子であり、私が山の手の中野生まれだということにあるのかも知れません。私の生まれた中野あたりには、深川や浅草に一度も足を伸ばしたことのない人間がたくさんいます。小学校の同窓生はおそらく半数は、深川のお不動さんを知らないでしょう。理由を聞いてみると、「なんとなく、向うの方はこわい」というのです」

「今はもう、ちがうかも知れません。中野から深川まで、地下鉄で一直線という時代ですから東京も変わりました。でも、私の少年時代には、たしかに下町はこわかったのです。なぜか、下町の少年たちは、世慣れていて、素ばしっこくて、それに何より喧嘩が強いというイメージがあったのです」

「それともう一つ、中野あたりの少年たちには、下町が本当の東京で、自分たちは東京のよそ者という思いが、どこかに潜んでいたのです。事実、中野あたりの小学校では、両親は地方の出身という生徒が圧倒的でした。つまり、下町っ子にはとてもかなわないという意識の中に、自分たちは、どうも田舎者らしいという気持ちがあったのです」

こんなぐあいなのだ。

安倍徹郎さんは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「必殺・仕掛人」などの脚本を担当した。1928年(昭和3年)生まれで、今年の2月23日に亡くなっている。

こういう雰囲気は、1970年代までは、けっこう色濃かったように思う。たとえば、70年代前半ごろの浅草三社祭りなどは、「完全に」といってよいほど土地の祭りで、おいそれとは近寄りがたいものがあった。

いつのまにか、山の手が「東京」のイメージを代表するようになったのだが、渋谷、青山、原宿、六本木あたりが消費の中心地として脚光を浴び、いわゆる「第3山の手」「第4山の手」が形成される70年代後半ぐらいからだろう。

同時に、東京のイメージから下町は希薄になっていくなかで、1978年に隅田川花火大会の復活したが、まだまだ隅田川は汚く、「汚い」は「こわい」イメージに連動していたように思う。1986年に錦糸町西武ができて話題になったが、そういうイメージは変わることなく、錦糸町は汚いこわいイメージだった。

下町の、いまではもてはやされる「昔ながらのゴミゴミした家並み」は、新しい東京の目線からは、けっして好ましいイメージではなかった。

「こわい」という言葉で語っているが、これを「ギャップ」という言葉に置き換えてみると、このモンダイは、「東京」と「地方(田舎)」のあいだのギャップにも重なる。

そして、同じような現象が生まれているように思う。つまり、その「ギャップ」を引き受けるのではなく、「東京」の目線のまま、「下町好き」「地方(田舎)好き」になる現象だ。これは、かつての「下町こわい」の延長線だろう。「下町」だろうが「地方(田舎)」だろうが、おいしいところしか相手にしない「東京」は続いている。

このギャップからは、いろいろなことが見えてくるのだが、それはまたの機会に。

それはともかく、安倍さんがあげている、「なぜか、下町の少年たちは、世慣れていて、素ばしっこくて、それに何より喧嘩が強いというイメージがあった」という点は、言葉を選んで書いているにせよ、なかなか面白い。

いまだって、浮ついた東京人にとって、下町は十分こわいはずだ。

当ブログ関連
2016/04/06
川の東京学2016 vol.0 春の遠足+川の東京学親睦会・3月26日(土)。
2016/07/03
東京新聞「大衆食堂ランチ」44回目、神田・岩本町スタンドそば。

|

2016/07/15

「いろいろのねじれ方」を味わう。

吉行淳之介に「酔いざめ日記」という短いエッセイがある。

そこで彼は、井伏鱒二が言った日本酒の味わいについて、人づてに聞いたことを、書いている。

吉行淳之介は、「八十歳を過ぎた筈の井伏鱒二氏は朝まで居酒屋で飲んでおられて、泰然自若たるものがある」というような話しを聞くのだが、「二十年ほど前、新宿の居酒屋で偶然に井伏さんにお会いした。そのとき、「このごろ酒を飲むと湿疹ができて困る」と言われたので、日本酒をウイスキーに替えるようにおすすめした。ウイスキーのほうが、人体細胞内の滞留時間がはるかに短いのである」

と、そのあとだ。

「人づてに聞くと、その後の井伏さんは、ウイスキーのことが多いそうだが、「日本酒がゆっくり時間をかけて体内を通り過ぎてゆくそのいろいろのねじれ方に趣きがある」という意味のことを言っておられたそうだ」と書く。

「日本酒がゆっくり時間をかけて体内を通り過ぎてゆくそのいろいろのねじれ方に趣きがある」って、なんだかよくわかるし、うまい言い方だなあと思った。それに、舌先ではなく、体を使って味わっている感じがいい。

同じ安酒でもねじれ方がちがうし、純米酒だっていろいろなねじれ方がある。

こういう「大人の飲み方」と比べたら、安酒をバカにしたり、反対に「純米山廃」だからよいだの好きだのという話は、とても幼稚で、酒を味わっているとはいえない。

「いろいろのねじれ方に趣き」を見つけて楽しむのは、人生観や世界観にも関わることだろう。

ま、とにかく、酒を飲むにも、物を食べるにも、全身を使うことだ。舌先だけ、口先だけでは、いけない。

奥が深いなあ。それにしても、井伏鱒二のような大人が、少なくなったなあ。おれもイチオウ大人なのだが。

|

「マージャー」飲み。

一昨日は、夕方から大宮いづみや本店で「マージャー」飲みだった。

先日亡くなったN氏が書き残した「マージャー」の原本を、まりりんに渡しておいたのだが、彼女がそれを返すというので、ついでに、それを読みたいとメールをくれた、元N氏の部下のK山くんも一緒に会うことにしたのだった。

K山くんと会うのは何年ぶりか思い出せなかったが、K山くんがいうには、45年ぶりだそうだ。45年前というと1971年だから、もう少し同じ会社にいたように思うが。ま、でも、1、2年の差か。

彼は、おれより3、4歳若いのだが、彼がおれの前に立っても、わからず、名前をいわれて気がつくアリサマだった。かつての苦み走った美青年(いまどきの「イケメン」)も、ただのジジイになっていた。多少「不良」の気配は残していたが。

まりりんは、「マージャー」の原本のほかに、両面コピーして表紙までつけて製本したものを2冊作ってくれた。その1冊をK山くんに渡した。

K山くんが来る前、まりりんといろいろ話した。円高でも減らない外国人観光客は、なぜなの。これまで日本より経済的に「下」と見られていた国々からの増加や、その動向。零細小規模経営に重くのしかかる消費税問題。地元の商店街や不動産の動向、などなど。まあ、日本はメンドウなことになっているわけで。だけど、あいかわらず昔のままの考えややりかたが大手をふっているわけで。そんなドロ舟と一緒に沈むのはイヤだね。

K山くんが加わってからは、話題の中心は三人の共通項であるN氏。

18時すぎ、三悟晶へ移動。しだいに酔いが高まり、ぐだぐだ。

当ブログ関連
2016/05/15
「マージャー」

|

2016/07/10

多重性、多様性、コンフリクト、なぜか汁かけめし。

チョイと考えていることがあって、メモのようなものだが。

毎号いただいている『TASCマンスリー』5月号は、「TASCサロン」に若林幹夫さん(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)が「多重性と多様性 人間という種の豊かさと強さ」を書いていて、おもしろい。

これはまるで汁かけめしとカレーライスのことのようでもある。それに人間という種が食べるものにも通じる話だ。

「1、重なりとしての社会と人間」で、「社会学者の見田宗介は、現代社会を積み重なった5つの層からなるモデルで説明している」と書き出し、その5つの層の話から入る。つまり「生命性の層」「人間性の層」「文明性の層」「近代性の層」「現代性の層」だ。

以前このブログにも書いたと思うが、モチをめぐる「三層仮説」というのが、かつてマーケティング屋のあいだで話題になったことがあった。それは大量に流通している機械でつくモチや、家庭のモチつき機が成り立っている社会や文化のモデルのことだった。

記憶で書くが、「アミニズムの影響の層」と「儒教の影響の層」と「近代化の影響の層」で成り立っているということだったと思う。

それをまねたわけじゃないが、おれは『汁かけめし快食學』で「三層のカレーライス」について、体験をもとに書いている。これはカレーライスが生まれる近代の「三層」のことだが、その前に汁かけめしの層がある。

ようするに、古い層は新しい層にとって変わられるのではなく、おれたちは「重層性を生きているのだ」。そして、「一つであり、かつ多様である」。というあたりを、若林さんは、もみほぐすように書いている。

多層性と多様性こそが社会と文化の豊かさと強さである。料理の技術や食べ物も、そのように存在するようだ。

ところが、「人間と社会の〈多様であること〉がこの世界から急速に失われていった。その過程はいまも進行中だ」と若林さんは述べる。

なるほどねえ。

多様であることは、「違い」があるということだ。その違いを認めあおうとしないで、自分に都合のよい好みの価値観に従わせようとする。

ちょっとの違いにカリカリイライラ、気にくわないことをいわれたらもちろん、ちょっとなにか疑問をはさまれたぐらいでたちまち「敵」認定、100%もたれあえる関係だけを大事にする、なんてことは、「つながり」になるはずのSNSでも、よく見かける。

そこに食べ物の好みのことまで絡んでしまって、食べ物や飲食は敵対関係を平和的に推移させるために大いに役立ってきたはずだが、ちかごろはどうも違う感じだ。

いったい、なぜこんなことになったのか。なぜ、そんなに価値観の狭いところへ収斂していくのか。アメリカのグローバリゼーションの影響によって、なにか狂ってしまったのか。

それはともかく、この『TASCマンスリー』5月号の「特別シリーズ」には、安川文朗さん(横浜市立大学国際総合科学部・大学院国際マネジメント研究科教授)が「世代間コンフリクト 将来世代との共生に向けて」を書いている。

「東日本大震災以後、わが国では「絆」「共に生きる」「共生社会」ということば広く人口に膾炙している」と書きだすのだが、一方では、「分断」がいわれている。「格差」「ギャップ」も、様々に大きくなっている。

この二つの文章を続けて読んで、昨今の食べ物や飲食をめぐる様々を考えているところなのだ。

ついでに、ちかごろよく目にする「コンフリクト」ってやつは、いつごろからクローズアップされるようになったか調べてみたら、どうやら1980年代後半、バブル全盛期のころらしい。ちかごろの「コンフリクト」は、「不景気」になってから、とくに東日本大震災以後という印象だったが、必ずしもそうではない。もとから存在していたことが、東日本大震災以後、鋭くなったというぐあいに見るべきのようだ。

|

2016/07/09

明日は参議院選挙。

このブログで選挙のことにふれるのは、めずらしいと思う。以前は、政治や政治的な話題にも、けっこうふれていたが、選挙そのものについては、あまりふれてない。

明日の参議院選挙の投票は、その結果によっては、これが現在の憲法下で最後の参議院選挙になる可能性へ道を開くことになるかもしれない。感慨深い、というか、なんというべきか。

衆議院においては、すでに改憲勢力が3分の2以上を占めて、「改憲」というより「反憲」的な政治が強まっている。

改憲勢力が3分の2以上を占めたのも驚きだったが、だからといって、「3分の2も」とられてしまった野党が、その後もあいかわらずだったのも驚きだ。

改憲問題については、だいぶ前に、このブログでも、何度かふれている。

2005/02/21「「大衆食堂の研究」とレトロブーム」では、「大胆な予測をすれば、現在進行中の「憲法改正」のメドが立つまで、現在のレトロブームは続くだろう。」なーんて書いている。

2006/01/07「「改める」のか「よく改める」のか」では、こんなぐあいだ。……

ま、ついでに、どうせ流れは決まっているのだけど、「憲法改正」モンダイについても同じことがいえる。おれは学校給食を改めるように、憲法も改めたほうがよいと思っている。でも、ちかごろの「憲法改正」の主張は、あまりにも稚拙で、とてもこの連中と「改正」を主張したいとは思わない。いまの憲法を徹底するほうが、まだマシだ。

国民投票法だっけ? あれは、このすぐの通常国会じゃなかったかな。そして、そのあと数年後には「憲法改正」、これは既定の路線だろう。

……もう「改憲」は「既定の路線」として、なかばアキラメ気味だ。なかばアキラメ気味だったのは、野党の取り組みもさることながら、「なんとなく護憲」の「中間層」の存在だ。この人たちの「内向き」の平和主義あるいは平和志向に、キケンなニオイを感じていた。そして、10年がすぎた。

前にも書いたが、おれが、とくに憲法の改正が必要だと思うのは、自衛隊をキチンと憲法に位置付ける必要があるだろうからだ。もう「軍事大国」になった日本の自衛隊を、「護憲」の名のもとに継子扱いにしておくのは、自衛隊が違憲か合憲かどうかではなく、大きな問題だろう。そのことは「イラク派兵」のときにも問題になったが、時の政府によって解釈が変わる状態は、のぞましくない。そこをどうするか、国民一人ひとりがシッカリ考えなくてはならない。だけど、考えないできたのではないか。

ほかにも、なんだか、「護憲」「平和主義」を名目に、考えることをサボっていることが多いと思う。そこを「改憲」というより「反憲」勢力に突かれる、押される。

ま、とにかく、明日になってしまった。明日ですべてが決まるわけではないが。

|

2016/07/03

東京新聞「大衆食堂ランチ」44回目、神田・岩本町スタンドそば。

Photo

更新をサボっているうちに、6月が終わり、つまり、今年の半分が終わり、7月になってしまった。

先月の17日は第3金曜日で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。すでに東京新聞Webサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016061702000193.html

今回は、思わず肩入れしてしまった感じがある。しかも割りと「俗説」に従って。

前から「東京の味」ってのが気になっていて、このブログでも書いているし、『dancyu』2014年11月号で「東京の味って、どんな味」を、何軒かの店を訪ねて書いている。

で、まあ、この岩本町スタンドそばで、ミニ天丼とたぬきそばのセットを食うと、これは、「純」かどうかはわからないが、関西風とは一線を画した東京の味だと思う。

だけど、その表現が難しい。ほんとうは、「下手味」という言葉を使いたかった。だけど、「下手味」の説明をぬきにこの言葉を使うと誤解されかねない。説明するには文字数が少なすぎる。

それでまあ月並みな俗説を使わせてもらった。

003002でも、俗説だから間違っているということではない。アタリマエすぎるかな、というていどのことだ。しかし、そのアタリマエも、たちまち「古い」と捨てられ、忘れられる。

岩本町スタンドそばの、そばと天丼のツユは濃厚だ。濃く塩辛い。しかも、ミニ天丼セットのそばがたぬきということだから、天かすのコクが出て、「下手味」ってのは、こういうものではないかと思った。

とはいえ、おれが「下手味」を正確に知っているかどうかは、疑わしい。イメージとしてのそれだろうと思う。

先年亡くなった勝見洋一さんが、『B級グルメの基礎知識』(文春文庫ビジュアル版、1989年)に「東京いい店安い店を探す基礎知識」というのを書いている。そこで「天麩羅の旨さは下手味にあり」といっている。

勝見さんは、赤羽から荒川を渡り埼玉県の川口で、「江戸の風土の味」である下手味を食べる。「それにしても、川口の味とは一体何なんだろうと考えた。もともと成金の存在しなかった職人町だ。職人の持つ、他の地域に追い抜かれることに動じない保守性が、昔のままのB級を煮詰まらせてしまったのか。それとももしかしたら」と考える。「味つけが塩っぱい辛いの濃さだけではなく、味わいの濃い味覚こそが東京の味なのだ」

そして、薩長と関西味に蹂躙された東京を、勝見さんは新橋生まれ育ちだからして、感傷的に思いながら「B級グルメとは旨味だけでは語れない東京の傷の味だ。旨くて安ければいいだけの、そんな単純な世界に東京人は生きていない。その意味でもB級グルメは世界中に東京しか存在しない」ともいう。

もうこういうことを書ける東京人はいないのではないか。忘れないようになぞっておこう。

俗説をなぞっておくことは、大事なことを忘れないためにも必要だ。

たとえば、同じ文春文庫ビジュアル版『スーパーガイド 東京B級グルメ』(1986年)では、「丼は東京によく似合う。/ドンブリメシは、乙にすましたものではなくて、威勢のよい“職人の町”だった江戸の気っ風を濃厚に受け継いだ、代表的な食べ物なのである。/天丼は、そのなかの代表選手だ」

“職人の町”は近代には“労働者の町”へ変わっても、その味覚は続いていたのだが、ちょうどこの文春文庫ビジュアル版のB級グルメガイドが出始めたころから、労働者の町の記憶は「消費者の町」に塗り替えられていった。

いまでは、この勝見さんのような感覚で、「東京の味」と「東京の町」をつなげて語る人は、B級グルメ界隈でも、ほとんど見かけない。産業と市場に生きる消費者の感覚が支配的になった。

「岩本町スタンドそば」は、その名前にも「神田」を感じるが、周囲はどんどんビル化するなかで、建物も味覚も、勝見さんが語った「東京」を感じさせてくれる。それで「下手味」という言葉が浮かんだのだった。

岩本町と隣の東神田は、それでも「神田」の雰囲気をよく残していた。ここの商店街では、年に二回だったと思うがバザールがある。界隈は、昔からの繊維や雑貨などの卸商の街で、たいがいビルの中におさまっているが、その日は、通りに出店する。いまおれが使っている「牛革ベルト」はこのバザールで500円ぐらいで買ったものだ。何度か行ったが、いつも大にぎわい。なんとなく、これが「神田」かな、という空気も感じる。とはいえ、最近は、テントの中の店員さんも外国人が増えた。外国人でも、労働者は労働者だ。

岩本町スタンドそばは、濃い味だが、しつこくはない。クセになる味で、ときどき思い出して、秋葉原あたりを通ることがあると降りて、チョイと歩いて寄ってしまう。これが食べたくなるうちは、おれは健康ということかもしれない。

前回は
2016/05/26
東京新聞「大衆食堂ランチ」43回目、北浦和 キムラヤ。

当ブログ関連
2016/06/04
労働者!

016001

|

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »