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2016/11/30

今年一番の面白さ、「途中でやめる」の山下陽光さんのトークと「新しい骨董」。

今日で11月は終わり。
終わる前に、これだけは書いておこう、去る11月20日(日)のことだ。ぐいぐいとエネルギーを注入された日だった。

朝9時半ごろ牧野さんから電話があった。九州にいるといった。その夜、九州で牧野さんとトークをしてきたという人と同じ飲み会の席にいた。まったく偶然、思いがけないこと。そういうことになったのは、「みちくさ市トーク=連続講座『作品と商品』のあいだ」に出席したからだ。

トークは13時半からだった。早目に家を出て、赤羽で腹ごしらえというか一杯ひっかけて、みちくさ市古本フリマをのぞく。近頃は、ここぐらいでしか顔を合わせない塩爺を見て、まだくたばっていないかと安堵もせず(考えたら、やつはおれより一回り以上若いのだった)、最近よく古本フリマに出店しているみどりさんに挨拶のちトークの会場、雑司が谷地域文化創造館へ。

連続講座8回目のゲストは、「途中でやめる」デザイナーの山下陽光さん。この「途中でやめる」ってのが、近著『理解フノー』にも書いたように家庭や職業ほか諸々なんでも途中で投げ出してきたおれとしては気になっていた。

トークの案内によれば、「途中でやめる」は服のリメイクブランドらしい。すでに有名で、おれが知らなかっただけだが。しかも、「「途中でやめる」の服はなぜハンドメイドでありながら低価格で提供しているのか。今この時代の仕事の在り方も含めお話していただきます」というのだ。

トークの始まる前、会場にいた男の人から挨拶された。見たことがあるようなその人は、北浦和の居酒屋ちどり(かつての「クークーバード」)で会っているという。そばにいたミヤモトくんが、その人と会場のあたりをぐるっと手で指してまわして、このあたりの人たちと浦和あたりでモニョモニョという。よくわからないけど、そういうことか。

トークは、まいどのように、中野達仁さんと武田俊さんの司会で始まった。

ついでに、初回からのゲストをメモしておこう。みちくさ市サイトからの引用だ。第1回:ゲストなし/第2回:澤部渡さん(スカート)/第3回:桑島十和子さん(美術監督「下妻物語」「告白」他)/第4回:森山裕之さん(元クイックジャパン編集長)/第5回:タブレット純さん(歌手・お笑い芸人)/第6回:高橋靖子さん(スタイリスト)/第7回:真利子哲也さん(映画監督)。おれは、4回の森山さんと7回の真利子さんのときに出席している。

山下さんの話は、服にたどり着くまで、渋谷パルコでブレイクしてから、現在のやり方や考えていることなどだったが、いやあ、面白かった。面白いだけじゃなく、いまおれがやりたいことに、ずいぶん示唆的な内容だった。

服にたどりつくまでというけど、中学生の頃から縫物をしていた。それも、2歳上の兄貴のパンクの影響を受けて、パンクの人たちが着るものに改造や装飾を加えるアレだ。そして、この「パンク」が、その感覚というか思想というか、パンクなそういうものが、彼の在り方ややり方やデザインなどに深く関わっているところを見ると、お兄さんの影響は大きかったようだ。

とにかく山下さんは東京へ出たくて、東京の服装学校に入学。だけど、オシャレが大嫌い。原宿のようなオシャレが大嫌い。3年間ぐらいグレーの上下で通したとか。ファンッションデザインでありながらオシャレを嫌う、これ、カウンターカルチャーとかパンクとかに通じる必然か。

でも彼はファッションデザイナー。とにかく作る。古着の使えないところをカットして縫い合わせて新しいデザインの服にしてしまう。あれ、ポルトガルだかスペインの刑務所で受刑者が始めたブランド、なんといったか思い出せない、あれみたいだ。しかし、高円寺の素人の乱の店で作って並べるが売れない。

その売れない服を買って着た客が渋谷のパルコへ行ってウロウロ、それがパルコのバイヤーの目に止まった。そこからブレイクが始まる。「売る場所が変わったら売れた」

ブランド名など必要ないと思っていた、いらないのに作るブランドだから「途中でやめる」にした。途中でやめるかも知れないのは、本当だ。つぎは、みやげやか。

この日、みちくさ市の本部のガレージでも、「途中でやめる」の服を売っていたから、トークへ行く前にチョイとのぞいて見た。欲しくなるデザインがあった、どうせ高くて手が出ないだろうと値札を見た。3800円!想像の半値以下。トークの会場へ急ぐ必要がなかったら、買ったに違いない。

売り方は、このように固定店舗を持たない、イベント出店とインターネットの直販。イベント出店は、この日は南浦和でもやっていたが、中心から外したところでやる。もう名前が知られているから、開店前から行列とか。なにしろ、どれもこの世に一つしかないデザインだ。ほとんど在庫が残らない、回転率がいい、これもコストを低く抑えられる要因のようだ。

自分が欲しいものを自分が買いたい値段で売る。この仕組み、これ重要。安いが、単なる安売りではない。つまり、買いたい値段におさまるように、よりよく作るのだ。もちろんデザインも含めて。低価格競争とは違う。

インターネットは「平等」の可能性をもたらした。必要な人に必要なものを必要な値段でつなげる仕組み。それを活用するかしないかの違い。

故郷の長崎に住んで長崎で作っている。仕入れは、長崎の大きな古着チェーン店で、さらに売れ残った山積みから買ったりする。人気のおかげで生産量が増えているから、全部を自分で作るわけにはいかない、近所の人たちにやってもらっている。そのままでは売れないものもできてくる、手直しする。

手仕事が利益を生む仕組みだから、量産化が難しい。その仕組みのことは、自分の在り方とやり方から考える。どうやら、その「在り方」が絡むところが、山下さんらしいところのようだ。それはデザインのことでもあるだろうけど。普通は、利益だけを考え「やり方」で勝負していく。

「途中でやめる」の価格と仕組みは、いまどきのファッション業界の「在り方」と「やり方」への挑戦あるいはカウンターでもあるだろう。

だけど、カウンターの「在り方」から「やり方」がうまくいくと、さらに成功者の「在り方」と「やり方」が見えてくる。さて、どうするか、成功者のほうへ傾くか。成功者のほうへ傾かずに、途中でやめるかも知れない。このこだわらない自然体がいい、仮に成功者へ傾いても、これまでと違う「新しい成功」の姿が期待できそうだと思った。

トークは15時過ぎに終わり、おれは打ち上げに参加の人たちと、会場の「ふくろ」へ行った。そこで、トークのときにも名前が出ていた「新しい骨董」の正体がわかったのだった。山下さんも、そのメンバーで、その活動の痕跡は浦和あたりにもあり、トークが始まる前におれが挨拶された男の人やミヤモトくんのモニョモニョも関係しているのだった。

このトークの前、北浦和の居酒屋ちどりへ行ったとき、便所に「URAWA BOTTLE KEEP MAP」ってのが貼ってあった。なんだかあやしげで、なんじゃコリャと思っていたら、この人たちの仕業とわかった。地図にある店に行けば、「新しい骨董」の名でボトルキープがしてあって誰でも飲める。飲みほしたら必ず続けてボトルを入れておく。という仕組みで、ある種のコンセプチュアルアートの活動でもあるのだ。ほかにも「裏輪呑み」なることも展開している。面白い。

この「新しい骨董」のメンバーの一人である影山裕樹さんが打ち上げの会場にいた。景山さんは、11月11日に福岡で、『ローカルメディアのつくりかた』(学芸出版社)刊行記念として、「『雲のうえ』『飛騨』……ローカルメディアの最前線」牧野伊三夫×影山裕樹×内沼晋太郎」ってのをやってきたあとだったこともあって、いろいろ親しく話をさせてもらった。

「ふくろ」のあとは、いつものように「サン浜名」へ移動、どんどん酔いがまわり泥酔帰宅。

「新しい骨董」は、すごく面白いことをやっている。「ゲストハウス」「旅人文化」などとも関係しそうだ。「旅人文化」は在り方であり、「ゲストハウス」はやり方の一つなのだから、ほかにもやり方があるはずだ。

おれとしては、このあいだから、「コモディティ」のことが気になっていて、これまで「コモディティ」というと、「量産廉価」という「やり方」の図式があった。低価格競争に陥りやすい。だけど、これからは、そうではないやり方も広がっていくだろうし、いかざるを得ないと思っていた。

やどやゲストハウスは「安宿」としてやってきて、これからもその路線だけど、一貫して低価格競争には加わっていない。この仕組みはインターネットのことも含め、「途中でやめる」の仕組みと重なる。

そういうこともあって、ヒントになることが多いトークだった。いろいろアイデアがわき、何かエネルギーが注入された感じだ。一昨日は中野へ行って、ゲストハウスのメンバーと飲んであれこれ話しあったのだった。

とにかく大事なのは、「在り方」と「やり方」だ。

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2016/11/19

状態と言葉。

少し前だが、ある人と「業態」と「名称」の話になった。

「大衆食堂」を定義するのは難しい。おれは定義をしないで、原型を「大衆食堂」という言葉が生まれた時代の大衆食堂において、その前と後の流れを見ることで、大衆食堂という業態を把握しようとしてきた。

何度か書いているように「食堂」という言葉は明治からであり、「大衆」という言葉は、大正期後半から昭和の初めにかけて生まれ流行した。これは割りとはっきりしている。

「食堂」も「大衆」も、もとは仏教業界の言葉だったが、そこでは、食堂は「じきどう」であり、大衆は「だいしゅ」と読んでいた。

食堂は、「じきどう」から「しょくどう」になっても根本は変わっていないといえるだろう。だけど、「大衆」は、「だいしゅ」と「たいしゅう」では、根本からちがう。

だからか、尾崎秀樹は、「大衆(たいしゅう)」は造語だといっている。その尾崎の書によると、白井喬二が「大衆(たいしゅう)」という言葉を使い始めたテナことを白井自身がいっているとのことだが、尾崎は白井のいうことをそのまま信用していない。だけど、白井が使い始めたといっている頃から「大衆」という言葉が広がり始めたと考えている。いま、その尾崎の書を貸してあるので、記憶になるが、それはたしか大正10年頃からだったと思う。

そして昭和の初めに「大衆」という言葉が流行語になる頃、その大衆が利用していたさまざまな業態の食堂や飲食店が、「進化」というのか「変態」というのか、状態を変えながら「大衆食堂」になっていった。

ま、そんな話をしながら、「市民酒場」の「市民」や、「国民と大衆」などについて、あれこれ突っ込んだ話をして面白かった。

「ファミリーレストラン」という言葉が一般化する前の「コーヒーショップ」やら、日本には江戸期からある「屋台そば」や「屋台すし」などに対する「ファストフードショップ」に該当する言葉がなく、後づけで「江戸のファストフード」と呼んだりするのは、なぜなのかなど、なかなか面白いことが含まれている。

業態というのは状態をさす。日本語は、状態にヨワイようだ。それは、日本人は状態に対して関心が低かったり興味が低いあらわれかもしれない。とかく私的体験が先走り、状態が欠落しやすい様々にもあらわれているようだ。

これ、『理解フノー』に書いた、金銭出納帳的思考と複式簿記的思考も関係しているように思う。

そのように、グワーっと妄想が拡散するのであった。

そして思いついてツイートしておいたことからメモ。

カオスやゴミを引き受けるところがあるから、こぎれいに気取っていられるところがあるのよ。
15:04 - 2016年11月8日

「差別」ってのは、何を貶めるかだけではなく、何を称賛するかによっても存在する。そのことに思いを馳せられるかどうか。
13:49 - 2016年11月11日

もともと日本は人格と職能がまぜこぜに語られることが多かったのだけど、近年は職能だけで人間を評価する傾向が強いように思う。職能が第一で、職能が優れていれば人間としても優れているかのような。そこには新自由主義の影響もあるような気がする。
1:01 - 2016年11月13日

みな状態と言葉が関係する。

話は変わるが11月の何日かに、アメリカ大統領の選挙があった。なんだか日本の国政選挙並の騒ぎだった。とくにトランプが当選したことで、さらに「トランプ・ショック」ともいえる現象が続いている。トランプの当選で「民主主義は終わった」なーんてことをいうひとも少なくなく、おれは次のようにツイートしておいた。

けっこう「トランプ・ショック」があるようなので驚いた。トランプぐらいで終わったりする民主主義なら終わってもよいんじゃない。とか、思った。
17:43 - 2016年11月10日

おれが驚いたのは、ニューヨークタイムズなどが、出口調査にもとづきクリントン圧勝かという感じの予測を出し、大外れだったことだ。「私」と「状態」の隔たりを認識し、状態を読むことについては比較的長けているし、調査分析法も進んでいるはずなのに、これは面白い現象だった。

もっとも、予測の大外れは、これまでも何度かあったようで、そのたびに調査分析法を修正してきているらしいから、さらに精密な技法を開発するのだろう。だけど、外れがなくなっていくのはツマラナイな。予測されざる埒外の人間どもの奮起が必要か。

『理解フノー』の歌、最初の出だしだけだったが、牧野さんから全部を完成させよといわれ、作った。それは先月末のことだけど。

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2016/11/07

「忸怩と矜持を同時に持つ」が炸裂、常磐線中心主義ナイト。

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去る11月2日の夜は、常磐線中心主義ナイトⅢだった。「消費者と生産者が繋がる。付加価値の高い持続可能な生産と消費。その答えは本当にブランド化しかないのか」

ひさしぶりに、厚みのある充実したトークをきいた。近頃は本や雑誌を読んでも、これほど濃い言葉にふれることはない。売れ筋の大勢は、ヒラメは腐ってもヒラメ、サンマにまでヒラメを探すような、矜持だけが誇りの価値観で、見た目は美しくても、うすっぺらな話ばかり。

008だけど、アメ横の「呑める魚屋 魚草」の大橋摩周さんが放った言葉はちがった。トークの後半で、「「安さ」を手放さずに、コモディティのままで、「誇り」を持つことはできるのか」について話し合っている時だった。

大橋さんは、「忸怩と矜持を同時に持つのが誇りってことなんですよ」と言ったのだ。会場の熱気が上昇したのがわかった。

その前に、大橋さんは、「「安さ」を手放さない」について、こう言っていた。「「安さ」は、誰も排除しないということなんです」。

この日は、前の告知でも書いたように、ブランド化とは真逆と言ってよい「コモディティ」の役割がトークのテーマだった。

トークの冒頭、司会の五十嵐泰正さんから、なぜ「コモディティ」になったかの話があった、そのことにおれの解釈を付け加えると、こういうことだ。

東京あるいは日本の「下半身」である常磐線から東京や日本を見る。これは、東京への電気や食料などの供給基地として「下半身」の役割を果たしてきた常磐線沿線が、東日本大地震とくに東電原発災害で受けた大きな被害から、どう立ち直るかということでもあった。

常磐線中心主義ナイトのこれまでは、「ブランド化」を中心に話し合われ、五十嵐さんは、ゲストに久松達央さんを迎え「ブランディングすることでの日本の食の未来を考えた」のだけど、常磐線沿線が果たしてきた役割は圧倒的に「コモディティ」であるという実態、このことを避けて通ることはできない。サンマをヒラメにするより、サンマはサンマとしての誇りを持つ。

だけど、コモディティの役割を果たしながら成り立っていくのは、かなりハードルが高いことだ。世間の注目が集まりやすいブランディングよりハードルが高い話だろう。

そのハードルの高さには、世間は大いにコモディティによって成り立っていながら、ともするとコモディティを蔑んだり見下したりする状況も関係する。これ、ヒラメとサンマの関係やサンマのなかにまでヒラメを見たがる関係だ。

007というわけで、常磐線上野のコモディティの顔であるアメ横の大橋さんが、自分が店をやるまでと自分の店とアメ横を紹介、常磐線の「コモディティ港町」小名浜からの小松理虔さんは、自分の小名浜での仕事と小名浜を紹介したのち(小名浜は漁業と工業の町)、前半は「「下半身」の「役割」と「魅力」をどう伝えたらいいのか」が中心的なテーマだった。

「どう伝える」かには、上っ面だけでない実態が、ちゃんと把握されているかだが、ゲストの2人は、いわば「なかの人」だから、ちょこっと取材したていどではわからない深い話しをしてくれた。そこに、すでに「忸怩」たる思いの現実があるわけだが。

なにより果たしている「役割」や「魅力」が埋没しやすいのがコモディティであり、世間はこれをサンマのように見ている。いや、サンマ好きもいますがね、たいがいは矜持だけが誇りのブランドや、嗜好品や嗜好品化を深めるケーキや軽食類などのチャライ上澄みの話に流れやすく、ますますコモディティの立つ瀬はなく、「忸怩」たる思いはつのらざるを得ない。

これ、最近は少し状況が変わっているけど、大衆食堂の料理人を料理人として評価してこなかったことにも共通する、日本の思想的精神的風土が関係すると思うが。

なかの人たちの話は、ここで一つ一つ紹介していたら小冊子ができそうなほどで、やってみたいなとは思っているが、じつに具体的で、そこには、たとえば小名浜のシステムと労働の質の高さや、CASのもたらしたイノベーションなどの話に、なぜ世間の蔑みを受けるのかという「事情」も含まれていた。

だからこそ、「忸怩と矜持を同時に持つ」がズシンときたし、いまの忸怩たること多い日本で矜持だけを誇る傾向のうすっぺらさが浮かびあがったのだった。

小松さんは、福島県喜多方の華酒造場の「星自慢 特別純米 無濾過生原酒」と、東電原発災害で浪江町は居住できなくなったため山形県長井市へ移り酒造りを続けている鈴木酒造店の「磐城壽 純米酒」を持参し、一杯500円で販売、おれは両方飲んだ。

001魚草の大橋さんは、写真左から大船渡のホヤ(CAS冷凍)、明石浦のサワラ、気仙沼のモウカの星(サメの心臓)を用意。もちろんうまい。

まとめメモ。

地に足がついた話ばかりで、面白かったし、充実していた。地震・津波で突然日常が奪われたことで、日常がどう成り立っていたかという事実と向かい合わなくてはならなかった被災者がいるのだけど、その事実がまだまだ共有されてない。放射能デマや、そのデマを叩くことばかりにぎやか。東電原発災害の実態と重さについての共有は、まだまだ足りない。日常は安定している保障されているという、根拠のない前提にのっかって、上澄みだけのうすっぺらな矜持が胸をはっているのだ。

「ブランド化」の対極にあるともいえる「コモディティ」は、大勢の生活を支えながら、なかなか評価が得られない、どころか、一部の「意識の高い人たち」からは見下されたりもする。コモディディを続けながら成り立っていくのは、なかなかハードルが高いことなのだ。「誇り」ひとつとっても。

「アメ横」ってなんだろう、と考え直してみるキッカケにもなった。「アメ横」はよく行くけど、もっとよく考えてみなくてはならない。手前ミソになるが、ようするに「気取るな!力強くめしを食え!」「ありふれたものをうまく」だな。

HANGUI Shin-ichiさんのツイート。「まさに普段気づくことのない「下半身」。ハードルが高いというのはもちろんだけれど、スーパーに並べたものは何でも売れた時代(とその続き)とは違うコモディティの役割はあるのではないかと考えます」

小松さんのツイートお言葉。「かまぼこメーカーでは「ブランド至上主義」だったわたしが、うみラボなどの活動を経て「コモディティの供給地」としての価値に改めて気付かされ、今年はコモディティの最たる「さんま」のプロジェクトに関わるという流れ。ちゃんと5年半の動きが繋がってるんだなあ」

一番前の席に陣取ったら、写真が撮りにくかった。

だけど、「地方創生」は、難しい。ハードルの高いコモディティを避けて、一見ハードルが高そうで何やら文化っぽい受けやすいほうへ流れるから、ますます難しくなっている。

よく「外」からの取材だけで書かれている、矜持だけの誇りには、たいがい隠されている「恥」の部分がある。だいたい「地方創生」なんて言っているうちは、他人事なのだ。上っ面を少しばかり掘り下げても上っ面のままで、それをナニゴトか真実にふれたように上手に化粧しながらを繰り返し、このままクラッシュへ向かうのか。

ゴミだ野暮だと侮られても、これじゃなきゃやれない、これだからできることがたくさんある、そこに忸怩と矜持を同時に持つ誇りが成り立つ場がある。これ、『理解フノー』に書いた、「ダンゴムシ論」だな。上澄みを浮遊するキレイゴトよりよほどマシ。

当ブログ関連
2016/10/27
11月2日の「常磐線中心主義ナイトIII」は面白い楽しみな顔合わせだ。

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2016/11/05

東京新聞「大衆食堂ランチ」48回目、成増・やまだや。

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東京新聞に毎月第三金曜日の連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」、先月は21日が掲載日だった。

今回は、成増のやまだやさん。すでに東京新聞のWEBサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016102102000207.html

017001ここは、余計な説明をするより、写真だけのほうが、そのよさが伝わるのではないだろうか。いつもは、これから初めて行くひとの楽しみを奪ってはいけないので、ここに店内の写真はなるべく載せないようにしているのだが。

おもしろいことに、成増の駅は台地の上にあって、北口に出ても南口に出ても、下り坂がある。やまだやは、南口を出て「スキップ村」商店街のアーチをくぐり、坂を下った先にある。

027やはり、古くて生き残っている食堂は、台地の上より坂下に多いという「法則」が成り立つか。

それから、前から気になっているのだが、店の前の自転車も、なにかを暗示しているように思う。

本文に書いたように、おれは「カツ煮」にヨワイ。これがあると、反射的に頼んでしまう。そういうことで、この連載では、亀有のときわ食堂から二回目の「カツ煮」の登場となった。

お店の方がおっしゃるには、この掲載のあとカツ煮の注文が増えたそうだ。これを見て行った方かどうかはわからないが、掲載のあとは、ここに登場のものを注文するひとが増える傾向はあるようだ。

おれは、べつにオススメの意味で選んでいるわけじゃないし、お店の方にオススメを聞いて注文しているわけでもない。もし、この連載を見て、オススメと思われるのは困るなあと思う。

いつだって、自分の食べたいものを注文すればよいのに。

入り口に「酒酔い及び泥酔者の入店をお断り致します」の貼り紙がある。だけど、酒のつまみがけっこう揃っているし、酒も大衆食堂にしては種類があって、飲みたくなる食堂なのだ。

見出しは、デスクの方がつけるのだが、今回はちょっとアレッな感じがした。

前回は
2016/09/26
東京新聞「大衆食堂ランチ」47回目、新宿・岐阜屋。

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017002

006

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2016/11/01

「食うこと」の上澄みだけを楽しんでたらダメ。

今日のこのタイトルは、いわき市小名浜在住のフリーランスのライター、小松理虔さんがツイッターで発したお言葉だ。小松さんは、ここで先日告知した明日の「常磐線中心主義ナイトIII」のゲストだ。

小松さんは、今日、このように3つ続けてツイートしている。

小松 理虔‏@riken_komatsu
https://twitter.com/riken_komatsu

12:07 - 2016年11月1日

さんまを捌いて小骨をよけて、きれいに洗って、そして漬けダレにつける。水産加工の工場行くとさ、独特の臭いあるし、作業もまあ生々しいわけだけど、それが命を頂くってことだよな。「食うこと」の上澄みだけを楽しんでたらダメだなと改めて思わされた。そして腹が減った。

12:09 - 2016年11月1日

以前、地元の文化保存に関わる方に話を伺った時、「伝統芸能が長く続くために大事なのは適度な『やらされ感』なんだ」とおっしゃっていた。「楽しい」だけじゃ続かないんだと、「やるもんなんだからしゃーねえべ」というのが大事なのだそうだ。さんまもかつおも同じだな。食わねばなんね。

12:12 - 2016年11月1日

この「食わねばなんね」こそ「コモディティの港町」の宿命なんだろうなあとまあ、そんな話を明日のトークイベントでは繰り広げます。「常磐線中心主義ナイト③」。明日夜7時から新宿のLive Wireです。ぜひお越し下さい。http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=108474068


おれは、これらをRTしたあと、このようにツイートした。

12:28 - 2016年11月1日

ありふれたもの、アキアキするほどありふれたもの、それを食わねばならないと、カタキうちのように食う、そこに食文化の継続の大事なことがかくされている。「いいもの」を選ぶことが生活であるような都会の「うまい話」など、ほんの上澄みのことなのだな。


「ありふれたものをおいしく」については、おれの著書でもたびたび述べてきた。「食わねばなんね」には、さまざまな事情がある。

その事情はともかく、ありふれたものをどううまく食べるかで、料理のバリエーションが開発され、食文化は豊かになってきた歴史がある。いま「郷土料理」などといわれる「生活料理」は、ほとんどそうしたものだ。

1970年頃までは、その「ありふれたもの」は、なまものや干物などが主だったが、冷凍食品やインスタント食品やレトルト食品などが加わり、ありふれたものの事情も台所の事情も大きく変わったことは、拙著『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた。

もう一つ、興味深いツイートがあった。

白央篤司‏さんは、「フードライター」の肩書で、『栄養と料理』で体験コラム「減塩日記」を連載している。なかなかおもしろい挑戦だ。最近、『にっぽんのおかず』(理論社)を刊行。『にっぽんのおにぎり』『にっぽんのおやつ』に続く第3弾完結編で、「日本人がどんなものを主菜・副菜としてきたか、今回も一県一食であらわしてみました。おかずから見えてくる地域性と基本的な調理法」ということで、気になる。

白央さんのツイートは、去る10月25日のことだ。

白央篤司‏@hakuo416
https://twitter.com/hakuo416

9:34 - 2016年10月25日

弁当を平日つくるようになって、自分のレパートリーなんてものはまったくもって少なく狭いものだったんだなと認識させられた。弁当に向く料理・向かない料理。その差と違い。ただ視点を変えると「向かない料理」で新しい弁当を構成できたり。弁当ページの良し悪しを考えられるようになったと思う。

9:41 - 2016年10月25日

「家事としての料理」ってまったく別物なんですね。自分のためや楽しみのために料理するぐらいで分かった気になってはいけないと心から思いました。反省。そして家庭料理の大変さが非従事者から理解されることの難しさも見えてきた。きっと料理人でも理解できてない人が多いと思う。


とくにこの後者については、かつて江原恵さんが何度も指摘したことで、「家事としての料理」は、江原恵流に言いかえれば「生活としての料理」になるだろう。このことについても、拙著『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた。

おれは、『理解フノー』でも「料理や食事は、外食でも趣味でもなく、家事として覚えた」「のちに江原恵の『庖丁文化論』と「生活(の中の)料理論」に大いに共感したのは、これらの家事手伝いの体験も関係している」と書いている。

小松さんと白央さんのツイートは、ベーシックというかスタンダードのことだと思うが、なにしろ大消費地の東京あたりでは、「どこそこのナニナニは…」といった外からなでまわしたぐらいの情報や知識を追い、それでよほどわかったつもりになって、じつは上澄みの上澄みばかりの消費にドップリつかっている。それは、消費文化であるけど、食文化とはいえないだろう、という感じにまでなっている。

「食うこと」の上澄みだけを楽しんでたらダメ、といわれても、耳をかさない都会人が多いにちがいないが、いい続けなくてはならないだろう。いい続けながら生きていく道があるはずだ。

ツイッターのおかげで、この小松さんや白央さんのように、食文化の体験と実感から生まれた言葉にふれられるのは、うれしい。

ついでだが、スタンダードを「劣った」とか等級やクラスが下とみる人たちがいるようだけど、それは優劣観にとらわれすぎだね。スタンダードとは「タイプ」のことだよ、スタンダード・タイプ、土台の話さ。このあたりがしっかりしてないと、上澄みで浮かれているだけになる。ま、それはそれで、都会的な華やかな生き方かもしれない。尊敬するに値しないと思うけど。

明日は、小松さんたちのトークを聞きに行こう。

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