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2016/11/01

「食うこと」の上澄みだけを楽しんでたらダメ。

今日のこのタイトルは、いわき市小名浜在住のフリーランスのライター、小松理虔さんがツイッターで発したお言葉だ。小松さんは、ここで先日告知した明日の「常磐線中心主義ナイトIII」のゲストだ。

小松さんは、今日、このように3つ続けてツイートしている。

小松 理虔‏@riken_komatsu
https://twitter.com/riken_komatsu

12:07 - 2016年11月1日

さんまを捌いて小骨をよけて、きれいに洗って、そして漬けダレにつける。水産加工の工場行くとさ、独特の臭いあるし、作業もまあ生々しいわけだけど、それが命を頂くってことだよな。「食うこと」の上澄みだけを楽しんでたらダメだなと改めて思わされた。そして腹が減った。

12:09 - 2016年11月1日

以前、地元の文化保存に関わる方に話を伺った時、「伝統芸能が長く続くために大事なのは適度な『やらされ感』なんだ」とおっしゃっていた。「楽しい」だけじゃ続かないんだと、「やるもんなんだからしゃーねえべ」というのが大事なのだそうだ。さんまもかつおも同じだな。食わねばなんね。

12:12 - 2016年11月1日

この「食わねばなんね」こそ「コモディティの港町」の宿命なんだろうなあとまあ、そんな話を明日のトークイベントでは繰り広げます。「常磐線中心主義ナイト③」。明日夜7時から新宿のLive Wireです。ぜひお越し下さい。http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=108474068


おれは、これらをRTしたあと、このようにツイートした。

12:28 - 2016年11月1日

ありふれたもの、アキアキするほどありふれたもの、それを食わねばならないと、カタキうちのように食う、そこに食文化の継続の大事なことがかくされている。「いいもの」を選ぶことが生活であるような都会の「うまい話」など、ほんの上澄みのことなのだな。


「ありふれたものをおいしく」については、おれの著書でもたびたび述べてきた。「食わねばなんね」には、さまざまな事情がある。

その事情はともかく、ありふれたものをどううまく食べるかで、料理のバリエーションが開発され、食文化は豊かになってきた歴史がある。いま「郷土料理」などといわれる「生活料理」は、ほとんどそうしたものだ。

1970年頃までは、その「ありふれたもの」は、なまものや干物などが主だったが、冷凍食品やインスタント食品やレトルト食品などが加わり、ありふれたものの事情も台所の事情も大きく変わったことは、拙著『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた。

もう一つ、興味深いツイートがあった。

白央篤司‏さんは、「フードライター」の肩書で、『栄養と料理』で体験コラム「減塩日記」を連載している。なかなかおもしろい挑戦だ。最近、『にっぽんのおかず』(理論社)を刊行。『にっぽんのおにぎり』『にっぽんのおやつ』に続く第3弾完結編で、「日本人がどんなものを主菜・副菜としてきたか、今回も一県一食であらわしてみました。おかずから見えてくる地域性と基本的な調理法」ということで、気になる。

白央さんのツイートは、去る10月25日のことだ。

白央篤司‏@hakuo416
https://twitter.com/hakuo416

9:34 - 2016年10月25日

弁当を平日つくるようになって、自分のレパートリーなんてものはまったくもって少なく狭いものだったんだなと認識させられた。弁当に向く料理・向かない料理。その差と違い。ただ視点を変えると「向かない料理」で新しい弁当を構成できたり。弁当ページの良し悪しを考えられるようになったと思う。

9:41 - 2016年10月25日

「家事としての料理」ってまったく別物なんですね。自分のためや楽しみのために料理するぐらいで分かった気になってはいけないと心から思いました。反省。そして家庭料理の大変さが非従事者から理解されることの難しさも見えてきた。きっと料理人でも理解できてない人が多いと思う。


とくにこの後者については、かつて江原恵さんが何度も指摘したことで、「家事としての料理」は、江原恵流に言いかえれば「生活としての料理」になるだろう。このことについても、拙著『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた。

おれは、『理解フノー』でも「料理や食事は、外食でも趣味でもなく、家事として覚えた」「のちに江原恵の『庖丁文化論』と「生活(の中の)料理論」に大いに共感したのは、これらの家事手伝いの体験も関係している」と書いている。

小松さんと白央さんのツイートは、ベーシックというかスタンダードのことだと思うが、なにしろ大消費地の東京あたりでは、「どこそこのナニナニは…」といった外からなでまわしたぐらいの情報や知識を追い、それでよほどわかったつもりになって、じつは上澄みの上澄みばかりの消費にドップリつかっている。それは、消費文化であるけど、食文化とはいえないだろう、という感じにまでなっている。

「食うこと」の上澄みだけを楽しんでたらダメ、といわれても、耳をかさない都会人が多いにちがいないが、いい続けなくてはならないだろう。いい続けながら生きていく道があるはずだ。

ツイッターのおかげで、この小松さんや白央さんのように、食文化の体験と実感から生まれた言葉にふれられるのは、うれしい。

ついでだが、スタンダードを「劣った」とか等級やクラスが下とみる人たちがいるようだけど、それは優劣観にとらわれすぎだね。スタンダードとは「タイプ」のことだよ、スタンダード・タイプ、土台の話さ。このあたりがしっかりしてないと、上澄みで浮かれているだけになる。ま、それはそれで、都会的な華やかな生き方かもしれない。尊敬するに値しないと思うけど。

明日は、小松さんたちのトークを聞きに行こう。

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