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2017/02/06

無かったことにする歴史。

「歴史修正主義」なんていう難しい言葉があって、デカイ話が多いのだけど、あったことを無かったことにしちゃう歴史は珍しくない。

先日の理解フノートークのときにも話題になったが、四月と十月文庫『理解フノー』の「ウマソ~」には、熊や猪のモツの生食の話が出てくる。

これはおれが実際に聞いた話を書いているし、そこには書いてないけど、どこで解体して食べるのかまで聞いていて、実際に行われていたことだ。

たまたまこれを読んだ知り合いのライターさんが、いまどきハヤリの「マタギ」だの「ジビエ」だのを取材する仕事で東北地方のまたぎに会ったとき、この話をしたところ、「モツなんか菌だらけで生食なんぞできない」というような返事がかえってきたそうだ。

この返事のニュアンスは、昔からそんな生食なんぞしたことはないということなのかどうかは、よくわからないのだが、なにしろ「ウマソ~」にも書いたように、いまでは生食はいけないことになっているのだし、なおかつ「マタギ」だの「ジビエ」のハヤリにのるには、法令にしたがって衛生的じゃないといけないから、生食の話ができるはずがない。

こういう風に、実際にはあったことが、諸般の事情によって、無かったことにされてしまうことはめずらしくない。

違うケースもあって、カレーライスが国民食としてもてはやされるようになると、そんなものはバカにしていたフランス料理のコックなどが、自分たちの努力で日本のカレーライスはここまでになったというようなことを言い、そういう「プロ」の発言ばかりで成り立つ歴史が書かれる。大衆の生活は見向きもされない。

まだついこのあいだのことのように思うが、豚レバの生食が禁止になったとき、このブログでも、なんどか書いている。

2015/05/30
豚レバ刺し問題。

2015/06/11
豚レバ刺し問題、もう一度。

2015/06/15
「モツ煮狂い」と「川の東京学」。

このときの「サイエンスライター」とかいう人物の発言を見ても、実態を調べて受け止めようという「科学的な態度」がなく、「いつから東京下町の伝統文化に? (^^; RT @kuri_kurita 「東京の下町」って、「豚生食」の「習慣性が高かった」んですか???」という、おちょくるようなツイートをツイッターでしている。

これは、いまどきの一つのジャーナルな態度ともいえると思うけど、いまどきのたいがいのジャーナルがそうであるように、人びとが生きてきた歴史に対して真摯な態度とはいえない。

自分にとって正しい都合のよい流れにのるだけで、だいたい大衆の生活や文化の把握も理解も欠いたところで、科学だのなんだのが扱われている。

チョイと取材したていどでは、どんなに丹念で丁寧な取材だとしても、長い付き合いをしなくては聞かせてもらえない見せてもらえないことも少なくない。しかし、そんなことをしていては、ライターやジャーナリストとしてはやっていけない感じになっている。

そして、そういう世間に流通するジャーナルによって、いとも簡単に、人びとの生活が成り立ってきた文化は、無かったことにされてしまう。

長い歴史から見たら、ついこのあいだまであったことが、ごく短いあいだに無かったことにされてゆく歴史を目の前にしている。そういうものになれてしまえば、30年や70年以上も前にあったはずのことが無かったことになるのは簡単なことだ。

無かったことにする歴史にすすんで手を貸している人たちも少なくない。「一汁三菜」の「和食」が、あいかわらず「食育」ってことで流布されている。これは『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた、「日本料理の二重構造」にかかわることだけど、その「和食」により、どれだけのことが無かった歴史にされてきたか。汁かけめしとカレーライスの歴史にしても、そうだ。

料理のことは百年単位ぐらいで見ないとわからないということは、たびたび書いてきた。生活とは、そういうものだ。

「ウマソ~」では、明治以後流布され、生活に影響を与えてきた「清潔思想」がもたらしたことについてふれている。さわりていどだが。

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2017/02/04

昨夜の「理解フノートーク」に参加の皆様ありがとうございました。

新宿で2時間2軒飲んで、会場の経堂のさばのゆに着いた。

20時5分ごろスタートした。おれはホッピー飲みながら。

聞き手の恩田えりさんとは3回目か4回目になる。1回目から使っている、えりさん手製の年表を舞台正面に掲げ、えりさんのいつもの上手なリードを頼りに、理解フノーの話をグダグダしました。

久しぶりにお会いする濃い方々もいて、とても楽しかった。

21時半ごろ終了、その場で打ち上げ懇親。のち会場変えての二次会にもほとんどの方が参加することになり、会場を探すのにさばのゆの須田さんに面倒をかけてしまったが、ま、みなさん飲むのが好きなのだろうけど、トークもそれなりに楽しんでもらえたからだろうと勝手に満足している。

終電で無事に泥酔帰宅。

トークは、四月と十月文庫『理解フノー』の内容にそって、飲む食うにエロや政治、時代も昭和20年代からバブルや直近まで、縦横無尽に駆け巡った。

参加者は20代から50代で、おれといちばん近い年齢でも20歳近く離れていた。昭和20年代30年代頃のことになると、本に書いた当時の人は誰でも知っているようなこと(たとえば「疫痢」)や、大事件(松川事件や朝鮮戦争と日本や共産党をめぐる情勢など)、今の人たちには説明をしないと通じないという、時間の経過と語り伝える難しさも実感した。

とにかく、ありがとうございました。

つぎは、今月18日(土)、北浦和の居酒屋ちどりで、北浦和「狸穴」の店主・ブラボー川上さんと「昭和の酒と居酒屋の変遷」というトークをします。タイトルはカタイけど、昭和育ちの街のおっさんの語りですね。

こちらでご案内。予約お願いします。
2017/01/16
「2月18日(土)、北浦和の居酒屋ちどりでトークをやります。」

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2017/02/03

街のおっさんの世界観。

世界観、大きくでた。でもこれは言葉の印象ほど、大きなことではない。生活観とセットともいえるだろう。

今夜は20時から経堂のさばのゆで、『理解フノー』の出版を記念して「理解フノートーク」がある。何度か一緒にトークをしたことがある、恩田えりさんが聞き手だ。彼女は、ただいまの「落語ブーム?」とやらで多忙のなか、なんとか日程を確保していただいた。

その四月と十月文庫の『理解フノー』だが、これは、これまでのおれの本とジャンルやテーマがちがう。そして読むひとによって、いろいろなことを言われるので、おもしろい。本の感想がおもしろいというより、そこにそのひとの世界観があらわれるのが、おもしろい。ひとによっては、『理解フノー』の「私小説風」のところに興味を持つような読み方をする。なるほどねえ。

おれは、本が自分の手元から離れたら、どんなことを言われても、気にならない。『大衆めし 激動の戦後史』など、アマゾンのレビューで、論拠もあげずののしるだけの、ずいぶんメチャクチャなことを書かれている。そこに、いままで見えなかった、考えや人物が見えて、ほお、こういう考えのこういう言い方をするひとがいるのかと、世界が広がる。この世には、さまざまな世界観を持った人たちがいるから、本はいろいろな読まれ方をする。本が出ることによって、テーブルの上に料理がのるまえとあとのように、世界がちがってくる。それが、おもしろい。

それもまた、自分の世界観によるものだ。そして世界観の糧になる。

とにかく、『理解フノー』は、これまでの本と、世界観レベルでは、おなじテーマだ。

その世界観は、本を読んでもらったほうがよい。もっとも、最近は何か世界観を求めて本を読むということは少なくなっているようだが。

昨日、ミーツ3月号が届いた。連載コラム「松本創のニュースななめ読みのススメ」は、まいど短い文章に濃い内容だが、今回は、やんわりグッと迫るものがあった。タイトルは「「その街のおっさん」になるということ。」

22年前の阪神・淡路大震災を体験した松原さんというひとがいる。東日本大震災支援のため、毎年フリーのロックフェスティバルで集めた募金を被災地に届けている。フェスは、130組以上が出演し、4万人以上を動員する。

だけど、「といって、彼の語り口に過剰な気負いもなければ、押しつけがましさもない。俺が俺がと前に出ることもない。こういう人こそ多くの人間を動かすのだなあと率直に心動かされた」

松原さんは、毎年自ら募金を東北の被災地へ届けてきたのだが、ステージ4の癌で体調悪く、今年は松本さんが同行することになった。

松本さんは、22年すぎた阪神・淡路大震災と6年すぎた東日本大震災をふりかえり、現状を考えて、こう書く。

「記憶は風化してゆくだろう。でも大事なものは残る。震災後の歳月を体に刻み、折があれば昔を語る「その街のおっさん」になろう。」「教訓は、「教訓」なんて言葉ではなく具体的に語られないと意味がない」

おれは、震災で家族や友人を失ったことはないが、先の大戦と大戦がもたらす人命人権軽視の混乱のなかで、何人かの身近な人たちを失った。その記憶は、しっかり体に刻みこまれていて、『理解フノー』の「七十二と七十」に書かれている。記憶は風化するが風化しない記憶もあるのだ。

そのように体に刻みこまれたことが練り合わされて育った世界観は、生活に根をはったものだと思う。

先日、ツイッターで、このようにつぶやいた。

「成瀬巳喜男監督の「めし」は昭和26年、原作は林芙美子の絶筆で完結していなかった、これと同時期の小津安二郎監督の「麦秋(ばくしゅう)」(昭和26年)「東京物語」(昭和28年)は、テーマも違うし比べるのは間違いかも知れないが、食と台所と女の家事の描き方はだいぶ違う印象がある。」
11:53 - 2017年1月31日
https://twitter.com/entetsu_yabo/status/826262133516095488

すると、大平一枝‏@kazueoodairaさんから、引用RTがあった。

成瀬巳喜男の「めし」は私も大好きな作品です。とくにあの小さくて慎ましい台所が。小津と違い、東京の路地裏の暮らしを描くのがうまいですね。こちらで平松洋子さんもお好きとおっしゃっていました。
http://www.asahi.com/and_w/life/SDI2015043034591.html?iref=andw_kijilist
2:32 - 2017年2月1日
https://twitter.com/kazueoodaira/status/826483350831460352

このリンク先は、大平一枝さんが「東京の台所」の連載をしている、朝日新聞デジタルで、「連載100回記念」として、平松洋子さんと大平一枝さんが対談している。ここにも世界観と生活観がある。やっぱり、時代が変わろうが、生活の基本は、ありふれたものを上手に、力強く、ってことなのだ。

おれはまた大平さんにこのように返信した。

ありがとうございます。この対談は知りませんでした。「めし」は、「暮らし」と「生きる」ということの象徴である台所をよくとらえていると思います。自分の記憶にある昭和20年代30年代の労働者の家庭の台所と違和感がありませんし。小津作品は「モダン」ですね。
11:21 - 2017年2月1日
https://twitter.com/entetsu_yabo/status/826616448390828032

するとまた大平さんからこのような返信があった。

こちらこそありがとうございます。レス遅くなりました。わたしもほんと、大好きで。そうなんです。小津はモダン。成瀬巳喜男は庶民派。泥臭い市井の暮らしが等身大で描かれているような気がします。
15:33 - 2017年2月2日
https://twitter.com/kazueoodaira/status/827042307010465792

台所をめぐる世界観と生活観の変遷が気になるのだった。

とにかく、おれは、多くの人間を動かしたいとは思わないが、過剰に気負うことなく、押しつけがましくならず、おれがおれがと前に出ることもせず、街のおっさんとして記憶を体に刻み、語るときがあったら語り、生きていくのだ。

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