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2017/04/13

「業務スーパー」と「ナチュラルハウス」。

「業務スーパー」という店名のスーパーがある。近頃あちこちで見かける。「業務スーパー」という店名だが、一般小売もしていて、ようするに「激安スーパー」といわれるディスカウントストアと大差ない。

このあいだ、いま発売中の『dancyu』の春巻の取材で、午前は東京はるまきのある新小岩、午後は青山蓬莱のある表参道だった。東京はるまきの近くには「業務スーパー」があったので初めてゆっくり店内を見た。そして午後の表参道には「ナチュラルハウス」があるので、時間もあったし、ついでにのぞいてみた。

両者は、いろいろな意味で対極にあるわけだけど、それを続けて見て、その中間にある、おれが日常利用する食品スーパーのことを考え、コンニチの日本の構造を、じつに生々しく感じたのだった。

とくに階層構造については、まったく、食べ物というのは、身も蓋もないほど生活や、いわゆる「格差」を生々しく語るし、そこに見られる価値観や金銭感覚などの違いは、もはや異人種・異文化といってよいほどだと思った。

だけどそれぞれの日常は、ほとんどその違いを感じないほど、交差しないですんでいる。「ナチュラルハウス」の隣に「業務スーパー」があるなんてことはなく、ある距離を持ってそれぞれ自分の経済や好みなどにあった生活をしている。全体的に階層化が深化している結果だろう。

おれは、ナチュラルハウスに並んでいる食品とは、ほとんど無関係の生活であるし、うちの近所には「業務スーパー」はないので、おれが勝手に「Cクラス」と呼ぶスーパーで買い物をすることが多い。

その「Cクラス」スーパーには、冷凍の格安の魚の切り身や干物などが、無包装のままバラで売られている冷凍ケースがふたつ並んでいる。これは、一目で業務用をそのまま陳列したとわかるのだが、実際に「業務スーパー」には同じようなものがあった。

つまり、おれがよく利用するスーパーは、一部で「業務スーパー」と似た品揃えをしているし、これがかなり利用されている。そして、このスーパーの肉売場には、しゃぶしゃぶ用の豚肉はあるが、牛肉はない。店も客も、じつにシビアな関係にあるのですね。

このスーパーはウチから5分ほどだが、逆方向に10分ほど歩いた駅近くの「Bクラス」のスーパーへ行けば、しゃぶしゃぶ用の牛肉がある。が、しかし、わが家の家計では、やはり牛は躊躇する。だからこの「Cクラス」が、わが家の家計の実態にあっているのだけど、業務用のような格安の冷凍食品は買ったことがない。それは、子供がいない2人だけの生活だからだともいえる。

これで、もし毎月買う本の代金のために、さらに1000円でも浮かせるとなったら、あるいは酒場で一回2000円払う飲み代を、月にもう一回増やすとなったら、事情は違ってくる。

そういう家計のレベルと、「ナチュラルハウス」や、そこにあるようなスペシャルな志向の食品が置いてあるスーパーを日常利用できる家計のレベルの隔たりは、ずいぶん大きくなった。

それは90年代以後とくに顕著になったといえるだろう。ようするに同じ1000円でも、家計に占める融通の幅が狭まっている大衆が増えているのだ。「Aを買う1000円を、よりよいBに使おう」と考えられる幅のある生活と、その幅がごくわずかしかない生活が存在する。

そして、人びとは、その幅の中で暮らすことになれる。その垣根をこえて理解しあうことは難しくなっている。「格差社会」についても、一時ほど騒がれなくなった。そんなことを考えたのだった。

それはそうと、「業務スーパー」には、刻んだタマネギの冷凍品など、まさに業務用しかありえないものや、どう使うのかわからない西欧産の冷凍食品などがたくさんあって、いまの「世界」を目の当たりにしているようで、面白かった。

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