« 「出版危機」とキッチン山田。 | トップページ | 生活はホビー? »

2017/06/16

労働者!!

Denwacyo_sanpei02001_2

「共謀罪」の成立で、「民主主義は終わった」とか「民主主義は死んだ」というような言葉が見受けられる。共謀罪に反対してきた人たちの中に、そういうことを言う人たちがいる。

前の「安保法制」のときも、そういう声があったが、おれはそういう言い方に、かなり違和感を持っている。

それだとあたかも日本に立派な民主主義があったかのようだからだ。おれは、戦後ずっと日本は遅々とした「民主化」の過程にあると思っていたし、日本は民主主義にほど遠い国だと思っていたし、いまでも民主化の過程にあると思っている。

1945年の映画「青い山脈」は、おれがガキの頃の田舎の片隅まで大人気で、おれの記憶によく残っている映画のひとつだ。あれは、「民主化」の闘いの映画だった。闘いの先頭に、原節子がいた。

その主題歌の二番目には、
「古い上衣よ さようなら
  さみしい夢よ さようなら」
という歌詞がある。

「古い上衣」は「上着」だと思っていた、いま「上衣」であると知ったが、とにかく「古い」とは根強く残っていた封建的な思想や文化とファッシズムのことだ。「さみしい夢」は、八紘一宇の夢であり、その国家の夢のために命を捧げて働き「立身出世」する夢だ。

古い上衣とさよならしただろうか、さみしい夢とさよならしただろか。

たしかに、憲法があり、奴隷的労働から解放されるはずの労働三法があった。1950年頃の新宿の大大衆食堂「三平」の広告に「民主化」という言葉があったほど、「民主化」は社会的現象だった。

それらは、「さよなら」のしるしかといえば、必ずしもそうではなかった。古い上衣を脱ぎ捨てるのは容易じゃない、さみしい夢を捨てるのも容易じゃない。日本人の生活と日常のすみずみまで根をおろしていた儒教思想を核とするさまざまが生きていた。いまでも盛んな「立身出世」主義を見ればわかるだろう。

おれが高校の1960年頃でも、良妻賢母のための「花」「お茶」「料理」の家庭科教育があり、女は25になって独身でいたら「オールドミス」と呼ばれた。戦争で父親を失った家庭の子供は、よほどの縁故がないと、「片親」ということで差別され「いい会社」への就職が困難だった。ま、あげればきりがない。

1960年代の中ごろ、おれは大阪で一年間すごしたわけだが、その頃の京都府知事は蜷川虎三で、古臭い京都府庁舎には「憲法を暮らしの中に生かそう」という大きな垂れ幕が下がっていた。こういうスローガンが新鮮なほど、憲法は、まだ飾りだったのだ。

おれは、日本の民主化も少しずつ進んでいるのかも知れないと思ったが、労働者の実態はひどいものだった。とくに、出稼ぎ労働者のおかれた状態は、ひどかった。その出稼ぎ労働者がいなくては東京の建設はままならなかったのだが。

「上下」「優劣」「先輩後輩」など、こういうことが、「人間関係」であり人格までも規制していた。民主主義や合理主義からはかけ離れた組織文化が普通だった。上の者、優秀なものは威張り、他を見下し暴力をふるう。なんてことは、まだあるな。だいたい、刑法や民法は戦前のままで、いまでもカンジンのところは戦前のままだ。

だいたい、「読売ガー」とか「朝日ガー」とかやっているが、戦前のまま一面政治部が威張って偉そうにしているような新聞は、みな同じ穴のむじなのであり、民主主義とは無縁の存在だ。

あげたらきりがない。選挙権なんか民主主義のほんの一部であり、自分たち自身が、古い上衣とさみしい夢にさよならしているかどうかなのだ。

さみしい夢は「ジャパンアズナンバーワン」で有頂天になった。続いて80年代、政府の内需拡大政策の結果の消費主義で消費を謳歌し、ようするに消費の自由が「自由」だと錯覚するようになった。金さえあれば、古い上衣を着たままで消費の自由なんか手に入るのだ。

その間に、中曽根首相の頃から、いわゆる「新自由主義」的な流れが強まった。「民活導入」や「規制緩和」。まず「労働者派遣法」から、定着も不完全だった労働三法の骨抜きが始まった。この流れは、いまさら指摘するまでもない。

古い上衣とさみしい夢は、新自由主義的な風潮をまとい、今風のクールな生き方のようになった。

「自分は労働者なのに経営者視点でものを言ったり、その目線に寄り添いたがる人が多い」し、自分が好きなことを好きなようにやれる「裁量」を得れば「自由」だと思う。

古い上衣をまとったままの「自由」は、主に「裁量権」に矮小化されている。小さくても自分が裁量できるカネや権力や権威を手に入れたら、それに応じた「自由」と「自己責任」が手にできる、という。

みみっちい話では「ノマド」だの「フレックス」だので裁量時間を持ったぐらいで「自由」な「エリート」になったつもりになる。チョイと小さな規模のビジネスを自分の裁量でやれることが「自由」だと思う。たいがい会社の位でいえば「主任」や「係長」クラスの裁量権を「自由」だと思っているのだ。

これは、セツないぐらいの「自由」の矮小化だ。金権主義者が、金さえあれば女でもなんでも「自由」になるよ、という貧しい思想と同じだ。

そのように「自由」が貶められ、盛んに「優れた経営者の視点」が持ち上げられ、それに至らない労働者は、普通に働いていても、まったくツマラナイ存在にされてしまう。

「普通であってはいけない」という思想は、日本のようにスタンダードが希薄な国では、果てしのない優劣競争地獄をもたらす。その結果、「社会」が壊れる。

いま、この「壊れる」過程あたりだろうか。

労働者は使い捨てがアタリマエになり、年々、労働者の立場は、政治的にも経済的にも、なにより文化的に、軽んじられてきた。そんなところに民主主義なんか存在しない。

じつは、6月4日にも、「労働者!」を書いている。ちょっと危機意識を持っているのだな。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2016/06/post-1c50.html

使い捨ての労働者になるのは能力のない人間である、自分の努力が足りないからだ、自分への投資が足りないからだ、テナ認識が共有されるようになり、組織の「会社員」はバカにされ、フリーターとかわらないようなフリーランサーや自営業までが、自分の好きなことをやって自分の能力で生きる自由で素晴らしい人生や文化の体現者としてチヤホヤされたり、ときには貶められたりするようになった。

と書いたりしている。

最近、労働者が主な客である大衆食堂や大衆酒場の主人から、「客数は減っていないし増えているぐらいだが、客単価が落ちている」という話を聞いた。繁盛しているように見えても、そういうことなのだ。

客単価が落ちている要因は、いくつかあってひとつに絞れないが、労働と労働者が置かれた状態は、かなり悪くなっているのは確かだ。

ということがあったので、勢いがついて長くなってしまった。

長いついでに、NPO法人POSSE代表の今野晴貴さんが、先日、このような連続ツイートをしていた。貧困と労働者の不安定な生活は、いろいろな商売に影響を及ぼし、社会の基盤がガタガタになっている。

「出版危機」をめぐっては、このことはあまり話題にならず、もっぱら本を買う余裕のあるエリート市場の奪い合いになるような話ばかりだし、SNS世間では、そういうマウンティングごっこも多く目にするが、どうなんだろう。業界的視点のことばかりで、社会的視野が欠落しているように見える。

‏今野晴貴 @konno_haruki 6月13日
https://twitter.com/konno_haruki/status/874600268976930816

明日もある地方の「子供貧困」を支援する団体にヒアリングに行く。「社会」の防衛こそが、もっとも大切だと思う。共謀罪も9条も、いうまでもなく重要な問題だが、日本社会が貧困によって取り壊されようとしているときに、そのような「政治問題」が主戦場になっていることに、どうしても危惧を感じる。

「貧困」の実情はおよそすさまじいものである。しかも、それが「貧困」という言葉のイメージとは裏腹に、私たちの「日常に」に侵食してきている。日本の産業経済すら、貧困に破壊されるだろう。私は、この社会をどうするのか、すなわち、「福祉」や「再分配」こそが政治の主要議題となるべきだと思う。

発展した民主政治において、政局や、法制度はきわめて重要である。だが、私は、もっと「社会」に関心を持ってほしい。たとえば、影響力のある学生団体には国会前だけでなく、貧困者や労働者の支援にも関心を持ってほしい。法・国会運動に対する「エリート主義」を感じる時が、ないとは言えない。


今野さんの危機感がヒシヒシ伝わってくる。

|

« 「出版危機」とキッチン山田。 | トップページ | 生活はホビー? »