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2017/06/11

出版の「公共性」。

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この前とその前のエントリーに書いた、『みんなの 神田 神保町 御茶ノ水』と『dancyu』7月号は、少し重なるスケジュールだったから、あらためて両者の違いからいろいろ考えることがあった。

考えている最中に、たまたま、4月頃いただいたままだった港の人のPR誌『港のひと』10号を読んで、かなり刺激になった。

港の人は、四月と十月文庫『理解フノー』の発行元であり、この号は、「創立20年記念特集 詩がはじまる」というものだ。A5サイズで、本文はわずか50頁ほどだが、すごく読みごたえがある内容だ。

チョイと考えの整理の意味で書いておこう。

『みんなの 神田 神保町 御茶ノ水』は、京阪神エルマガジン社が発行するミーツリージョナルの別冊ムックであり、「街」を基盤にしている。ミーツについては、本誌で何度か仕事をさせてもらった。

『dancyu』は、「食はエンターテイメント」を謳うが、「街」ではなく、飲食に関係する「業」を基盤にしている。関東で「街」を基盤にしている雑誌というと、有名なところでは『散歩の達人』になるか。

ダンチューは「食はエンターテイメント」を謳うが、情報の発信源は、ほとんど「業側」からのものだ。それを上手に加工して、「業」の市場に届ける。街のカルチャーより業のカルチャーだ。

この「街的」か「業的」かの違いは、かなり大きい。しかし、今回、『dancyu』7月号でのおれの文章は、かなり「街的」に書かせてもらったし、ほかにも「街的」なものがあった。そこで、ますます、「街的」と「業的」について、考えることになった。

とかく、ミーツでは街的視点や思考が働くが、ダンチューでは業的視点や思考になりやすい。それに、ただでさえ、生活は業的に営まれている面が強いのだ。だからこそダンチューのような雑誌が成り立つのだが。

自分は「街的人間か」「業的人間か」あるいは「街的ライターか」「業的ライターか」と、二者択一的な考えがわかりやすくハヤリだけど、どちらかではなく、その統合点を模索すべきだろう。これが一つ。

今回の『dancyu』7月号の、おれが書いた「歌に酔う」に小さなコラムがある。たぶんほとんど注目されないだろう。この文章で、おれは「サブカルチャー」と「インディーズ文化」を微妙に使いわけている。「インディーズ文化」は「インディーズ・カルチャー」としたかったのだが、文字数が食われるので「文化」にした。ま、どちらでもよい。

「サブカルチャー」は「サブカル」といわれるようになって、かつての持ち味は失われ、むしろインディーズ文化が、かつてのサブカルチャーを発展させながらつないでいる。と、「歌に酔う」の居酒屋ちどりで若い人たちと話していて感じた。

このブログでは、最近は、「ミニコミ」「リトルプレス」「ZINE」「一人出版」といった言葉は使わず、「インディーズ出版」と表現している。港の人についても「インディーズ系の出版社」と書いている。

この「サブカル」と「インディーズ文化」の可能性を考えると、先の統合点が見えてくるような感触を持っている。これが、もう一つ。

音楽や映像の分野に比べると、出版の分野では、「インディーズ」という言い方は、ほとんど聞くことがない。そのあたりに、なにやら、あやしげな出版業界のヒエラルキーに寄りかかった「差別意識」も見え隠れする。なぜ「リトル」「ミニ」なのか、これは「マス」や「ビッグ」を中心に見る考え方の裏返しのように思われる。

インディーズカルチャーは、そういうヒエラルキーからは自由だ。世間的成功は結果であり、憧れの雛段にのぼるようなことは、表現の動機でも目的でもない。

もう長いあいだ、「出版不況」がいわれ、本と紙とデジタルだのインターネットだのが絡む話が盛んに行われてきたが、カンジンな「自己批判」と「自己変革」のことは、なぜか避けられている。ま、せいぜい、流通が叩かれるていど。

ところが、出版不況がらみの話ではないが、ガツンと「逆ギレ」して、出版不況問題では語られてこなかったかことを指摘した方がいた。

最後の一つは、これだ。

『港のひと』に掲載の、郡淳一郎による「逆ギレの詩学」だ。

この文章は、おれのような詩心もなく(「大衆食堂の詩人」なんて言われるが)知識のない雑な人間には十分理解できないところがあるので、ここだけを取り出すのは著者に失礼かもしれないが、おれはこの一文に喝采を送ったのは事実なのだ。

「1 否定的精神」では、「出版は否定形の政治」という。
「2 出版の逆説」では、八木俊樹「出版 私の図式、又は若い編集者へ」からの引用がある。「出版は二重の断念の上に立った虚数の営為である。それ故、凡するエネルギー回路を想定する自由をもつ」 だが、と、郡は書くのだが、長くなるので省略。
「3 拘束して吊るし上げる」は、まだ消化できてない。
「4 振れと叫び」では、「詩が書物と雑誌から逃散し、マンガ、ロック、イラスト、デザインに亡命して久しい」「書くことはもはや、「素材の選択又は配列」すなわち編集の下位ジャンルであり、テクストは編集の素材以上の何物でもない」そして「読者の頽廃はもっと酷い」というのだが、省略。

とにかく、こうブチかますのだ。

「出版(「パブリケーション」のルビ)から失われた公共性(「パブリックネス」のルビ)がTwitterには生きている」

おお、出た「公共性」だ、と、おれは思ったね。

おれは『理解フノー』に、「成り行きで転がったついでに「フリーライター」という肩書を使い、出版業界なるものに付き合ってみてわかったことは、一見知的な、この業界は、これまで付き合ったなかでも、最も理解フノーな前近代的な体質の世界ということだった」と書いている。この前近代性こそ、「失われた公共性」と関係している。

出版のこれからが、よく話題になるけど、出版の公共性は、どう担保されているのか、どう担保されなければならないかなどは、話題にもならない。

おれが出版業界人と付き合い始めて20年ぐらいになるけど、まったく耳にしたことがない。

高学歴の人たちが多い出版界だが、公共性に対する認識は、前近代ではないかと思うことが何度かあった。だけど、中にドップリつかっている人たちには、それが当然なのだろう。公共性が不安定なところには、「私物化」がはびこる。それが空気のようになってしまう。

当然、権力や自由ということについても、認識がヨワい。

インディーズ文化と公共性、このあたりから、これからの出版を考えてみたい。

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