« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »

2017/07/30

東京新聞「大衆食堂ランチ」57回目、赤羽・暖母(ダンボ)。

Photo

この店には、おどろいた。

外観、店内とも、かつての「純喫茶」仕様なのだが、メニューの豊富さは洋食堂としても居酒屋としても十分であり、しかも安くてボリュームもある。もちろん、味も、安定のうまさ。

もともと居酒屋と食堂のあいだはアイマイだし、蕎麦屋が食堂兼居酒屋化した例はけっこうあるが、純喫茶がここまでハイブリット化している例は、あまりないと思う。

純喫茶を軸に考えれば、喫茶にスパゲティのミートソースとナポリタン、サンドウィッチあたりの軽食までは、わりと普通のメニューだろう。そこに、ごはんものとして、ピラフ(焼き飯)ぐらいなら加わりやすい。

さらにカレーライスとなると、業務用を利用するのでなければ、仕込みの段取りが必要になる。厨房の構造も関係する。

とかく「進化」というと「純化」ばかりが高く評価されやすいが、この店のように雑多化ハイブリット化での進化もあるのだな。

たくさんのメニューにハヤシライスを見つけ、懐かしさもあって、これにした。かつて大衆食堂では定番のメニューだったが、かなり姿を消している。ファミレスあたりには、最初からないだろう。

ハヤシライスはカレーライスと同じぐらい人気があったのに、廃れるのが早かった。それは家庭に普及しにくかったということがあるだろう。「ハヤシライスの素」を使っても、なかなかうまくできない、というか、「わが家の味」までにはいたらず、「食堂の味」にゆずらざるをえなかった。それは、基本となるディミグラスソースが、日本の料理文化では難しかったからではないかと推測する。

ハヤシライスこそは、「昭和の味」のままといえるかもしれない。昭和の大衆食堂で定番だった、カレーライスとラーメンとハヤシライスの、平成になってからの「運命」を考えると、なんだかおもしろい。

このハヤシライスを食べて、ここのカレーライス食べてみたくなった。どちらも、味噌汁付だ。

以前この店の前は2度ほど通ったことがあるが、そのとき、「喫茶店」という印象を持ち思い込んだままだった。赤羽駅から、「朝から飲める街」を通りぬけた先にあるため、めったに前を通ることもない。そのままになっていた。

赤羽に住んでいる野暮な人から、「ダンボ、どうかね」と言われなかったら、そのままだったかもしれない。

赤羽だからね、酒の値段もリーズナブルで、昼から飲んでいる人もいる。脇では、所帯じみたおばちゃんたちが、コーヒーを何度もおかわりしながらおしゃべりに夢中だ。

東京新聞には、7月21日に掲載になった。すでに東京新聞のサイトでもご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2017072102000196.html

店の外側は、いたるところメニューで一杯。

005001

001

シャンデリアもある店内は、かつての「純喫茶」仕様で、とても落ち着く。

008

012

|

2017/07/19

台湾、思い出すね。

014001

光瀬憲子さんの『台湾グルメ350品食べ歩き事典』をいただいた。双葉文庫で三冊目。

お店のガイドではなく、台湾の人気料理や、これはというものを、事典風にまとめてある。パラパラ見ているだけでたのしい。ちょっと自分で作って見たくなるものもある。

1980年代に台湾へ行ったのを思い出し、あのときこれがあればなあと思うのだった。

「咖喱飯(ガーリーファン)」はカレーライスのことで、「懐かしい昭和カレーの味は台湾にあり」の見出しで、こう書いてある。

「日本が台湾の食文化にもたらした影響は計り知れないが、なかでも根強く台湾人の支持を集めているのがカレーライス。日本には見られなくなった昔懐かしい、マイルドな味の黄色いカレーライスに出合える。」

こういう料理についての短い解説と、「基隆の廟口夜市にあるカレーライスや、台北萬華の三水街市場に近い「阿偉正宗咖喱飯」のカレーライスは昔ながらの味を維持している。一方、日本のCoCo壱番屋などに習い、トッピングが豊富な今どきのカレーライスも増えている」と、簡単な案内がある。

おれが台湾へ行ったころは、まだ日本の大衆食堂でも、かろうじて、黄色いカレーライスを出しているところがあった。

おれが台湾へ行ったのは、80年代に3回で、1回目と2回目は仕事。某商社に依頼されての調査だったから、現地法人の日本語ペラペラの方が案内してくれた。1回目は台北中心で、2回目は台北から高尾へ飛び、高雄と台南で仕事、のち台中へ出て、鉄道で台北にもどり。というぐあいだった。いつだったか、もう正確に思い出せない。

3回目は観光で、これはいつだったかよく覚えている。45歳の夏だから、1988年8月だ。台湾から帰って丁度ひと月後に、肝炎を発症し、台湾で食べたものが疑われた。このときは、ごく代表的な観光コースで、台北から花蓮(タロコ渓谷)、高雄、日月潭、台中とまわり台北。

とにかく激しく飲み食いした。が、記憶に残った食べ物がない。ま、どこへ行っても、ガツガツ食べ、ああうまいと思うのだが、名前までシッカリ覚えようという気がない。そのときうまければよい、という感じなのだ。魯肉飯(ルーローハン)だって、横浜の中華街で食べたとき、そういえばこれ台湾で食ったなと思いだした。

おれが行ったころの台湾は、けっこう困難な時代だった。1979年、アメリカは大陸の中国と国交を結び、台湾は「中国の一部である」ということになったからだ。台湾と大陸との緊張関係は高まり、花蓮の飛行場には偽装した格納庫が並び戦闘機がいつでも発進できる体制にあったし、主な駅の待合室には軍人が武装して目を光らせているコーナーがあった。

そういうところで経済がのびのび発展するのは難しく、街は活気があったが、生活はあまり余裕があるように見えなかった。日本企業と日本人は、何ランクも上という感じで、ま、夜のクラブやキャバレーなどへ行くとすぐわかるのだが、女性を何人もはべらせご主人様顔をしていた。まだ、台湾や韓国への「買春旅行」もあったと思う。

日本との関係をうまくやらなくては、という台湾の人たちの気持ちを、何度も味わった。

夜に連れて行かれたクラブやキャバレー以外は、大きな料理店には入ったことがなく、大衆食堂のようなところや屋台ばかりだったが、そのころは台湾にカレーライスがあるのも知らなかった。

とにかく麺類や魯肉飯のようなぶっかけめし、それにスープ類が多くて気になり、そのあたりばかり食べていた。そうそう、あと果物がうまく、これは気を付けたほうがよいと言われていたのだが、うまいから夜市などでもどんどん買って食べた。

夜市といえば、高雄の夜市で、通訳の湯(トウ)さんの知り合いの年配の方と一緒になり、そのころの台湾には日本占領下の教育を受けて日本語が話せる年配の人がまだけっこういたのだが、彼が少し酒が入ったとき日本の歌をうたってくれた。これが知らない歌だったけど、すごくよくて、手帳に歌詞を書いてきたのだが、手帳をなくしてしまった。

湯さんは、鄭成功のことを熱く語ってくれた。おれは鄭成功のことを知らなかった。つまり、台湾のことも台湾と日本のこともたいして知らなかったのだ。いまだって、たいして知らない。湯さん、どうしているかな。

台湾は九州ぐらいの大きさだが、多民族社会であり多文化社会だ。先住民、本省人、外省人、客家人、それぞれの食文化がある、それらが入り混じり、さらに日本、アメリカ、タイなど東南アジア諸国の文化が交差している。

この本に登場する一品一品にその歴史と文化があり、そこを光瀬さんは上手に短い文章にまとめる。読んでいるうちに多様で重層的な文化の構造が浮かんでくる。

そういえば、台北でタクシーに乗ったら、運転していたのはフィリピン人の出稼ぎで、英語でも中国語でもOKだった。日本では考えられないことだったが、いまでも日本はまんまだな。いいのかわるいのか知らないが、日本は多文化や多様性に揉まれてないのは確かだろう。「重国籍」で騒いでいる日本、大丈夫か。

この事典に、「棺材板(グァンツァイパン)」というのがある。「シチュー入りトースト」だそうだ。

「台湾名物、シチューの入ったトースト」

「「棺材」は棺を意味する言葉。いかにも縁起が悪そうだが、見た目が似ていることからこの名がついた。分厚い食パンを四角くくり抜いて、なかにクリームシチューを入れたもの。台南以外ではほとんどお目にかかれない料理。歴史は日本時代までさかのぼる。台南には「沙卡里巴(サカリバ/盛り場の意味)と呼ばれる夜市があった。今、この場所は唐樂市場という飲食店の集まる市場になっているが、ここに「赤崁」という店がある。1940年代に戦地から戻ったご主人が小吃の店を始め、米軍の到来とともに「何か洋風のものを」と考えたのがこのパン入りシチューだ。当初は鶏レバー炒めが入っていた」

と解説にあるのだが、この四角くくり抜いたパンは揚げてある。そこにシチューを入れ、揚げた平らのパンのふたをしてあるのだ。

これは台湾式洋風か。ロシアの壺料理みたいでもあるし、おもしろい。

さまざまな文化が混じり揉みあうところに新しいタフな文化が育つ。

|

2017/07/17

カレーとラーメン。

018001

雑誌『ポパイ』の最新号は「なんでこんなにカレーが好きなんだろう」というカレー特集だ。そこで「カレーニューウェ~ブ」をクローズアップしている。

「カレーがとにかく流行っている」とリード文にあるのだが、たしかに「ニューウェ~ブ」を感じる。表層的な一時の気まぐれなハヤリではない、大きな流れの動きを感じる。それがどういう変化なのか、すごく気になっている。

もとはといえば札幌のスープカレーが話題になったあたりから、少し気になっていた。それから『ミーツ・リージョナル』などに載る、いわゆる「スパイスカレー」や「宿借りカレー」が気になっていた。

『ぶっかけめしの悦楽』その後の動きとしても気になっていたのだが、この気になる動きは、さらにラーメンをめぐる「ニューウェ~ブ」らしき動きとからめてみると、さらに気になるのだ。

というわけで、あれこれ資料を探したり見なおしたり、「ニューウェ~ブ」な人たちに話を聞きに行ったりしている。

「ご当地ラーメン」へ広がりと多様化を見せたラーメン市場とラーメン文化は、近頃は「意識高い系」とやらの「純化」を見せている。具は盛らず、麺とスープのみで1000円とか1200円するラーメンだ。意識してのことだろう懐石料理みたいに器や様式などにも拘る。これは「垂直的」な「進化」といえるかもしれない。

一方、カレーのほうは、じつに多様化というか雑多化が激しい。「水平的」な「進化」といえそうだ。味覚の追求の仕方はもちろん、出店の方法も様々だし、家庭への広がりにいたっては「私流」が幅をきかせている。

その位相の共通性と特殊性を比べて見ると、すごくおもしろい。で、これをx軸とy軸に見たてると、そこに現代の様相が浮かび上がる。SNSなどのインターネットが極めて重要な位置を占めている。

ということに、目下、頭を奪われている。

速水健朗さんの『ラーメンと愛国』の試みを、より重層的に多様的に発展させられるのではないかと妄想している。

「美しい国」のカレーとラーメン。「日本が好きです」を強調する「美しい国」の人たちは、カレーやラーメンは食べないのだろうか。そんなことはないだろうな。では、カレーとラーメンを日本文化と考えるなら、日本はどういう国なのか、なかなかおもしろいことだ。

それにしても、『ポパイ』をひさしぶりに読んだが、相変わらずの「僕たち」は、消費世界を漂うにはお似合いの、いかにも根なし草のような文体だ。じつは、といっても、誰にも注目されてないのだが、『ぶっかけめしの悦楽』で「ボクタチ」と書いたのは、この「僕たち」をからかってのことなのだが、上質なパロディとはいえなかったな。

|

2017/07/10

「パンクマガジン『Jam』の神話」特集。

001

クソ暑い日が続いている。おれのようなジジイは、まっぴるま出かけるのもイノチガケだ。

一昨日、そのまっぴるま、打ち合わせがあった。ま、大宮まで来ていただいて、伯爵は混んでいたので、ファミレスの冷房で涼みながらだったが。話がおもしろく、気がつけば、4時間近く。

そして、なんと、ツイッターで知って、この本はゼッタイに買う!と決めていた本をいただいた。

「パンクマガジン『Jam』の神話」特集の『Spectater』の最新号なのだ。『Spectater』という雑誌の編集に赤田祐一さんが関わっているとは知らなかった。

赤田さんと次号の企画の相談だったので、赤塚不二夫特集の号と2冊いただいた。いただくまで、おれの頭のなかでは、『Spectater』と『Jam』特集と赤田さんはバラバラだったのだ。

うれし~、舞い上がった。

ハチャメチャな80年前後のカウンターカルチャーやサブカルチャーの熱気がビシバシ炸裂している。

がははは、「X-LAND」名誉市民には、植草甚一もいるぞ。「X」というのは、「秘密めいていかがわしいもの」という意味だぜ。松岡正剛さんなんか、「名誉市民」にはのっていないが、「名誉」以上の関係だったのだからな。『Jam』は、松岡さんの『遊』のパンク版といえるか?

でも、『Jam』は、いちおう、「自販機本」といわれるエロ雑誌。表紙はエロだ、グラビアにも少しエロがあるが、エロを期待して買って裏切られても、自販機じゃ返本できない。

1979年、おれが仕事する事務所に、これを持っているやつがいた。

当時の『本の雑誌』が、「こういうガトリング銃のようなエネルギー雑誌をみつけた時のコーフンはすごい」と紹介していたとは知らなかった。近頃の『本の雑誌』には、そういうエネルギーを見つけるエネルギーもないように見えるね。とは、よけいなことか。

赤田さんは、『Jam』を紹介するにあたり、こう書いているよ。

「私は、過剰な除菌やデオドラントの健康志向は、生きものとして、衰微のあらわれではないかと考えています。少々の毒、もしくは異物をも受け入れられることが、人間および社会の健康の証ではないかという立場に立つ人間です。社会の常識や良識は往々にして生きる力や自由を押さえつけようとし、独創的に生きようとする人たちをLINEから排除したり冷笑を浴びさせたりするような傾向がありますが、これに対抗するにはある程度の「毒」という思想が不可欠ではないでしょうか」

『Spectater』も熱い。

近年は洗練ばかりに閉塞し、気取った受け狙いばかりで、突き抜ける熱いパンクが足りないね。

もっとパンクに!

この特集で、パンクを補給しよう。

暑いのに熱くなってしまった。

おれの頭のなかは、赤田さんとの打ち合わせのことで一杯だ。赤田さん、よくおれのことを思い出してくださいました。この夏は、この企画でとばす。

002001

|

2017/07/08

トツゼンですが、「竹屋式貧乏経営学」を。

『大衆食堂の研究』から

●竹屋式貧乏経営学を考えてみた●
  何か書かないわけにはいかないから竹屋式貧乏経営学というのを考えてみた。経営の成功は貧富にあるのではなく継続である。「継続は力なり」という言葉があるが、「継続は生活なり」が竹屋式貧乏経営学の根本哲学のようだ。いつどこでそのように開き直れたのか。
  一、「高い」経営目標をもたない。
  二、どんな種類の投資もしない、手作りか、拾ったり貰ったりで問に合わせる。
  三、近代化は拒否しない、だけどそんなものにカネをつかわない。
  四、客には必要以上にうまいものをくわせない。これだけで十分のはずだという主張をくずさないようにメニューを維持する。
  五、客には愛想よくする、愛想はカネがかからない、自分だって気分いい、気分の悪いやつには愛想しなければいい、万事、愛想の加減が大事である。
  六、相手をよく観察する、観察にカネはかからない、くりかえしていると一瞬のうちに相手がわかるようになる。相手がわかれば、愛想の加減をまちがえないですむ。万事、観察が大事である。
  七、自分の好きなタイプには、できるだけカネをつかってもらうようにする。わかってないやつは二度とこさせないようにする。
  八、したがって自分が直接あいてをできる人数をこえる客を収容しない。つまり一〇人前後が限界である。
  九、頼りは夫婦だけである。
  貧乏だけを強調したが、貧乏はまっとうな庶民の暮らしである。暮らしというのを正しくやれば貧乏暮らしになっちまうのさ。いまの地球じゃあね。だからどこかでだれかが大もうけしようとすると、どこかに飢餓が生まれる。
  そして、竹屋食堂の存在は、町のサロンなのである。
  ジャン・ギャバン主演の『現金に手を出すな』では、それこそパリの場末の、名前は忘れたが「なんとかおばさんの食堂」というようなレストランがあって、街の連中がいつもたむろしている。ま、ああいう感じの場末の食堂なのだ。ジャン・ギャバンが、最後のアブナイ仕事のときには、おばさんにカネをわたし、もしものときの頼みをする。竹屋のおじさんも、もしものときには、アブナイお願いをきいてくれそうだ。
  おじさんもおばさんもとてもいいひとだ。むかしはただもんじゃなかったのでないかと思わせる、何かがチラチラするのだ。それを知性というのか凄味というのか知らんがね。ミンナで「高度成長期」を通過したあとの、貧乏の気品であると断じたい。どこか悟りのように超えちゃった感じがただよう……とか、竹屋について語るのはイヤだ。好きなオンナを見世物にしたくない気分。
  朝八時半から十二時間の営業。小さなガラスケースには、昔ながらの味とボリュームのおかずがいつでもあって、何時間いてもあきない。のんびりすごせる。

|

2017/07/06

「夢」のカンチガイ。

昨日のエントリーにある「夢」のこと。

1980年代から少しずつうるさくなり、バブル崩壊後は、ますますうるさくなった、「夢を持て」とか「夢を持とう」とかのたぐい。

そこで語られていることは、ほとんど「夢」とはいえないようなことが多い。

子供が将来「宇宙飛行士」になりたいとか「○○さんのようになりたい」とサッカー選手の名前をあげるようなもの、あるいは、近頃は、本を出した、雑誌や新聞やテレビに出て有名になった、ぐらいで「夢」がかなったなどという。

そういう、「努力をすれば夢は実現する」、といったたぐいの話には事欠かない。

だけど、それらは「事業」や「職業」の「目的」ていどのことがほとんどだ。

そういうものを「夢」とカンチガイしている。

世間がミミッチクなるのは、そのせいもあるだろう。

「夢」を語っているようだが、自分が求めている自分の「居場所」ぐらいのことが多い。

それは、ある種の事業であり、事業だからプランがしっかりしているかどうかなのだ。プランが雑だからうまくいかない、あるいは、しっかりしたプランを実行したから成功した、などの違いがでる。

それを「夢」がかなったとか、「夢」がやぶれたとかいったのでは、「夢」が可哀そうだ。

夢は、成功や、目的や、目標の、もっと先にあるものだろう。あるいは、仕事や事業に関係なく、人間として描く不確かな絵のようなもの。

現実を相手にプラン化して追求できるようなものは、「夢」というのはおかしいし、そういう「夢」はしっかりしたプランによって追求されるべき「事業」なのだ。

現実的なことに「夢」を持たせようとする流れが続き、「夢」についてカンチガイしやすい土壌があるが、そこにはある人たちのおかしな「下心」が見える。

|

2017/07/05

前略、ぬいぐるみの中身様。

002「前略、ぬいぐるみの中身様」とは、6月13日発行の入谷コピー文庫(通巻83号)に載っている、彼女の文のタイトルだ。

この号は、「ひとりぼっちのレクエイム 夜明け前」という、この文庫にしては、ややセンチメンタルな趣きのある特集。

ま、「レクエイム」となれば、センチメンタルに流れても、仕方のないことではある。

だけど、彼女の文は、センチメンタルとは、かなり趣きを異にしている。じつに、乾いた、ハードボイルドのようなタッチで、彫刻を刻むように、おかしな男を、描き上げる。

「レクエイム」としては珍しい文だが、文としてもレクエイムとしても、最高、すばらしい! と、おれは読み終ってためいきをついたね。

もしかすると、読み始めから終わるまで、ほんとうに息もつかずに読んでいたかもしれない。

イラストレーターの彼女は、ブログでもいつもうまい文を書いて、おれのような安直ライターを自虐の淵に追い込むのだが、今回は格別だ。

その亡くなった人は、おれも名刺交換をしたことがある人だった。彼の職場で開催する古本まつりの会場では、対談ライブをしたこともある。だけど、彼の顔は思いだせないし、亡くなったことも知らなかったし、彼がどんな人だったかも知らない。

30代半ばの彼の職場は福祉関係の施設だった。その空間を利用した古本まつりを企て、そこで彼女たちの古本市仲間と繋がりができたのが、彼と彼女が知りあうキッカケだった。

「本」の周辺には、夢を持ち、夢にいろいろな人たちを巻き込み、夢を広げる人たちがいる。

夢はよくても、人間はよいとはかぎらない。いや、たいがいどこかおかしなやつなのだ。

ある日、彼は彼女に、まつりの実行委員の名前をあげながら、愚痴を言う。

だが、彼女は、こう思う。

「何がしかの才能のある、人を惹きつける力のある人が持つやっかいさ。面白さの背中に面倒くささを背負う人たちの、背中だけ要りませんは通らないのだ。コップからあふれた愚痴を、ただ聞いて、ただ流していく。あの人は、そういう人だから。だから、面白いんだけどね」

古本まつりは、3、4回続いただけで「ぱちんと終わった」。彼は「夢に金を出してくれる企業が見つかった」と、独立し事業を始めたのだ。

新しい店は、ブックカフェと老人のデイケアを併せた夢の場所。彼は夢を語る。彼女も、彼の奥さんも、彼に引きぬかれた前の職場のスタッフも、古本屋店主なども、その夢に巻き込まれた。

それは、4か月後に、「あっさり終わった」。彼女は、彼の「言い訳を聞く」。「夢に関わった顔があっさり塗りつぶされていく」

「面倒くささを背負う他人の背中は見られても、自分の背中にへばりつくものは見られないのだ」「もう振り返るのもいやだった」

彼が肺がんで余命6ヶ月と知り、古本屋店主たちと会いに行き、一緒に酒場で飲む。

彼は「ぬいぐるみを脱ぐようなものだから死ぬのは怖くないと言う」

「奥さんは?まだ小さな3人の子どもは?保険金もおりるし、お金のことならしばらくは大丈夫だよ。そんなことばが聞きたいんじゃないんだと、言いたいことばが見つからないのが腹立たしく、口から出たのは同じことばの繰り返しだった。奥さんが可哀そうだ。奥さんが可哀そうだよ。これから奥さんは本当に大変だよ。しつこさに、ぬいぐるみの背中のチャックが少しだけ開いた。本当に大変なのは俺だよ」

いやはや、死を前にした人間を相手に、大変な会話だ。だけど、生きているからこその会話でもある。

彼女が見つけられなかった言いたいことばを、昨年末彼が亡くなったあとに、年下の友人が言う。「もっと執着して欲しかったですよね。ずっと見つけられなかったことばを、出来のいい友人はあっさり見つけてくる」

「潰した店、夢に巻き込んだ人たち、せめては自分が望んで作った家族に、もっと執着している姿を見たかったのだと、ことばにならなかった気持ち悪さがビールとともに腑に落ちていった」

彼は、4ヶ月しかもたなかった事業のあと、NPOを立ち上げ、古本屋と障害者の就労支援を組み合わせた店を開設していた。彼女は、彼から店名ロゴを頼まれたが、前のことがあったし、一度も会って打ち合わせすることなく、描いてメールで送っただけにしていた。

彼の死後、今年になって、彼女はそこを訪ねる。知っている人はなく、所長が相手をしてくれた。「ここはこれからも、ずっと続けていきますよ」

文の最後は、こう終わる。

「訪ねて数日後、亡くなってからはじめて店のツイッターがつぶやいた。近くの市役所での古本販売の告知だった。そのお店のロゴと文字、わたしが描いたんですよと、あの日、夢の続きを語る人たちにどうしても言えなかった」

おれは、彼女の文は苦労人の文だなと思う。

人と人の関係、人に対する「厳しさ」や「優しさ」などは、いろいろ言われるが、ことばほど単純にはいかない。

この号の巻頭には、早川義夫(歌手)のことばが載っている。

「追悼文や批評を読んで、あの人はああいう人なのかと真に受けてはいけない。たまたまその人の目から見た一面に過ぎないし、一方的なものでしかない。言葉は自分の心しか語れない」

この入谷コピー文庫は、コピーの手製で10数部しか人の手に渡らない。貧相な体裁だが、すごい文が載る。「レクエイム集」なるものが編まれたら、彼女のこの文は、欠かせないと思う。

あえて、著者名はここに書かず、「彼女」ということにしておく。

|

2017/07/03

『Meets Regional ミーツ・リージョナル』をふりかえる。

前のエントリーで「『dancyu』をふりかえる。」をやったら、これをやりたくなった。

またもや、「ふりかえる」ほど大げさなものではなく、仕事のリストだ。

1960年代中頃、大阪に一年間住んで仕事をしたが、それ以外は、遊びやあわただしい出張業務以外は、とくに関西方面とは縁がなかった。

京阪神エルマガジン社ともミーツとも、まったく縁がなかったのだが、編集の藤本和剛さんから突然メールをいただいて、初めて仕事をした。

それから、離れているわりには、別冊(いわゆるムック)も含め、何かと仕事をさせてもらった。

一昨年、「ザ大衆食」のサイトに、「京阪神エルマガジン社『Meets Regional ミーツ・リージョナル』の仕事、まとめ。」のページをつくったのだが、写真を載せ、途中で放置状態になっている。…クリック地獄

以下。クリック地獄は、当ブログ関連です。

初登場、2008年10月号「ザ・めし」特集。特集巻頭エッセイで「茶碗や丼の「街メシ」に、「俺メシ」を獲得する。」と題して書いた。…クリック地獄
訪問した食堂は、大阪市西区の[成金屋食堂]

2009年4月10日発行、ミーツ・リージョナル別冊東京版『東京ひとりめし』…「遠藤哲夫の[信濃路]偏愛話。」…クリック地獄

2009年7月1日発行、ミーツ・リージョナル別冊『酒場の本』…「エンテツのめし屋酒のススメ」。…クリック地獄
訪問した店は、大阪・千日前[お食事処しみず]、大阪・心斎橋筋[心斎橋 明治軒]、神戸・元町[金時食堂]、神戸・相生町[お食事処たからや]、京都・四条寺町[山の家]

2010年7月号「酒」特集…「特別企画<珠玉の酒エッセイ集>」に寄稿。タイトルは、「もっと飲ませろ!」…クリック地獄

2010年12月号「居酒屋」特集…「居酒屋に人が集まる本当の理由シリーズ」に寄稿。タイトルは「新説・居酒屋は“駄菓子屋”だった。」…クリック地獄

2011年3月号「天満」特集…「エンテツ・衣有子の天満のぞき」。…クリック地獄
本誌で「大阪のぞき」を連載(のち2010年4月に単行本になった)の木村さんと一緒に天満を飲み歩き、木村さんは「『わざわざ」の似合わない街に/わざわざ飲みに来た私」を、おれは「市場のなかの街、/街のなかの市場」を書いた。訪問した店は、[お好み焼 千草][肴や][まるしん]。

2011年9月29日発行、ミーツ・リージョナル別冊『関西ご当地めし!』…「私的、B級グルメ 普段のめし、ありふれたものを、おいしく。」を寄稿。…クリック地獄

2012年1月号「ザ・汁」特集…「エンテツの汁かけ論」を寄稿。…クリック地獄

2012年9月号「天王寺」特集…「エンテツの名酒場はしご道。」…クリック地獄
訪問した店は、[種よし][母や][お食事処 でごいち][肴家]。

2015年6月号「大正区」特集…「駅前めし酒場と、エンテツさん。」…クリック地獄
訪問した店は、[海鮮屋台 ゆうだん丸][畑分店][お食事処 三ちゃん][焼とり居酒屋 遊]。

2017年6月5日発行、ミーツ・リージョナル別冊東京版「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」で「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」を書いた。…クリック地獄
訪問した店は、神田神保町[ランチョン]、神田多町[栄屋ミルクホール]、外神田[かんだ食堂]

|

« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »