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2017/07/08

トツゼンですが、「竹屋式貧乏経営学」を。

『大衆食堂の研究』から

●竹屋式貧乏経営学を考えてみた●
  何か書かないわけにはいかないから竹屋式貧乏経営学というのを考えてみた。経営の成功は貧富にあるのではなく継続である。「継続は力なり」という言葉があるが、「継続は生活なり」が竹屋式貧乏経営学の根本哲学のようだ。いつどこでそのように開き直れたのか。
  一、「高い」経営目標をもたない。
  二、どんな種類の投資もしない、手作りか、拾ったり貰ったりで問に合わせる。
  三、近代化は拒否しない、だけどそんなものにカネをつかわない。
  四、客には必要以上にうまいものをくわせない。これだけで十分のはずだという主張をくずさないようにメニューを維持する。
  五、客には愛想よくする、愛想はカネがかからない、自分だって気分いい、気分の悪いやつには愛想しなければいい、万事、愛想の加減が大事である。
  六、相手をよく観察する、観察にカネはかからない、くりかえしていると一瞬のうちに相手がわかるようになる。相手がわかれば、愛想の加減をまちがえないですむ。万事、観察が大事である。
  七、自分の好きなタイプには、できるだけカネをつかってもらうようにする。わかってないやつは二度とこさせないようにする。
  八、したがって自分が直接あいてをできる人数をこえる客を収容しない。つまり一〇人前後が限界である。
  九、頼りは夫婦だけである。
  貧乏だけを強調したが、貧乏はまっとうな庶民の暮らしである。暮らしというのを正しくやれば貧乏暮らしになっちまうのさ。いまの地球じゃあね。だからどこかでだれかが大もうけしようとすると、どこかに飢餓が生まれる。
  そして、竹屋食堂の存在は、町のサロンなのである。
  ジャン・ギャバン主演の『現金に手を出すな』では、それこそパリの場末の、名前は忘れたが「なんとかおばさんの食堂」というようなレストランがあって、街の連中がいつもたむろしている。ま、ああいう感じの場末の食堂なのだ。ジャン・ギャバンが、最後のアブナイ仕事のときには、おばさんにカネをわたし、もしものときの頼みをする。竹屋のおじさんも、もしものときには、アブナイお願いをきいてくれそうだ。
  おじさんもおばさんもとてもいいひとだ。むかしはただもんじゃなかったのでないかと思わせる、何かがチラチラするのだ。それを知性というのか凄味というのか知らんがね。ミンナで「高度成長期」を通過したあとの、貧乏の気品であると断じたい。どこか悟りのように超えちゃった感じがただよう……とか、竹屋について語るのはイヤだ。好きなオンナを見世物にしたくない気分。
  朝八時半から十二時間の営業。小さなガラスケースには、昔ながらの味とボリュームのおかずがいつでもあって、何時間いてもあきない。のんびりすごせる。

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