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2017/08/29

「ホンとの出会い」

少し前のことだが、学校教育関係者の「機関誌」のようなものにエッセイを寄稿した。以前にも寄稿したことがあって、そのときは「食」がらみのテーマをいただいて書いた。

メールで依頼があって書いたのだが、担当の方とはお会いしたことはないし、とくに知り合いがいるわけでなし、学校教育の役所のようにカタクルシイ雑誌だから、おれのような下世話なものに書かせるなんて二度とないだろうとおもっていたのだが、また依頼があった。

今度は「ホンとの出会い」というテーマだ。前回のように、とくに学校や教育を意識する必要はない、ようするにカタクルシイ誌面のなかの息抜きのようなエッセイということなのだ。ただし、「ですます」で書かなくてはならない。

普通には目にすることがない雑誌なので、ここに全文転載しておく。「ですます」で書くと、なんだか小学生の作文みたいで、笑える。


 おかしな言い方かもしれませんが、私が「本を読む」という目的で本を読み始めたのは、新潟県の田舎町の中学1年のときでした。

 中学生になって、部活はしていなかったし、趣味らしい趣味はなく、毎日ヒマを持てあましていました。学校の帰り道に町の公民館があったのですが、小さな普通の民家のような木造二階建ての一階の通りに面したところはガラス窓で中が見えました。そこは「図書室」で本棚に本が並んでいました。通りがかりに見ているうちに、本棚の本が、なんだか「すごそう」に思えました。

 ある日、フラッと入って見ました。外から見えた本棚は、私の背丈以上あり、大きな厚い重そうな本がギッシリ並んでいました。そこで「すごい」と思ったのが始まりでした。
 
 こういう景色は初めてでした。町の本屋さんだって、こんなに大きな厚い本は並んでいません。たぶん小学校にも中学校にも図書室があったと思うけど覚えがありません。いま考えると、ほかにはたいして本がない貧弱な図書室だったから、この本棚に迫力をかんじたのかもしれません。

 そこは「全集」が並んだ棚で、いちばん上に全何巻かの『富士に立つ影』や『大菩薩峠』などがズラリ並び、それから、吉川英治全集があり、世界文学全集や日本文学全集がありました。

 少し興奮していたにちがいない私は、「よーし、これを全部読んでやる!」と決意しました。

 まず、『富士に立つ影』を取り出しました。重い、こんなに重い本は持ったことがない。借りる気になりました。まるで重いから読んでみようと思ったようですが、たしかにそうだったかもしれません。内容なんか気にしませんでした。

 読み始めたらおもしろい。『富士に立つ影』を読んで、次に隣の『大菩薩峠』に手を出しました。これが、みごとに挫折。最初はおもしろかったのですが、しだいに先を読もうという気がしなくなり、新たに借りる気もおきない。そこで世界文学全集を征服することにしました。

 この全集で『モンテクリスト伯』を読んだときは、高校生になっていたかもしれません。高校では山岳部の部活で忙しい毎日でしたが、本を読むのは習慣というか惰性になっていました。

 とにかく、この本で初めて、作者を選んで読むようになったといえます。それまでは、なんとなく棚に並んだ順番に読んでいたわけです。あるいは、読んだことのない作者のものから読むというかんじでした。

 『モンテクリスト伯』のあと、この作者が気になり『三銃士』を読みました。すると、全集にはなかった『二十年後』が読みたくなり、『二十年後』を読み終ると『鉄仮面』が読みたくなり、これらは文庫本を買って読みました。さらに後年この三部作が『ダルタニャン物語』としてまとまって出版されるとこれも読みました。アレクサンドル・デュマ・ペールのおかげで、大作の物語を読むおもしろさにハマったといってよいぐらいです。

 『大菩薩峠』は20代後半に再挑戦し読み切り、吉川英治全集もたくさん読んでいました。30代になっても、厚さで選ぶ、文庫本なら何冊かになるものを読む、「重厚長大主義」は相変わらずでした。厚さが基準なのでジャンルは問いません。マルクスの『資本論』にも挑んだことがあるのですが、3分の1ぐらいで挫折しました。『富豪と大富豪』(早川書房)が厚くて重いうえに、読みこなすのが難儀だったので記憶に残っています。

 「長い」から読む、「厚い」から読む。バカですね。とはいえ、大作・長編・全集を読んでいると関連する小説や歴史や風俗や思想など、その周辺も気になり、テキトウに読んでいました。

 物量作戦のような話しで、あまりスジの通った読書とはいえないでしょうが、老眼が進行し体力も低下したいまでは、若いうちにそういう読書をしておいてよかったと思っています。本を読むにも体力が必要ですし、大作・長編ならではの醍醐味を味わうとなるとなおさらですからね。

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2017/08/28

カレーライスと新自由主義・新保守主義。

二つ前のエントリー「ひさしぶりに「論考」の原稿を書いた。」に登場するラーメンとカレーとどんぶりを考えているうちに、「カレーライスと新自由主義・新保守主義」というのを思いついた。

ま、『ラーメンと愛国』というタイトルの同類みたいだが。

大衆的規模での食べ物の流行は、いろいろな環境変化が関係するが、政治環境も無縁ではない。食べ物の側から政治をみることは、生活の側から政治をみるのとおなじなのだな。

「グルメ」という言葉が一般化するのは1980年代前半からとみてよいだろう。80年代後半には「B級グルメ」も広がりはじめる。

前にも書いたように、80年頃で、それまで続いていた工業中心の産業構造は行き詰まる。そして、1982年に中曽根康弘内閣が誕生し、新自由主義と新保守主義という新たな流れが始まる。

「失われた20年」とかいう言葉が流通し、とかく「バブル崩壊」から日本の大きな変化が始まったかのような印象がマンエンしているが、80年頃を境にして産業的にも政治的にもかわった。と、みなくてはおかしい。「失われた20年」は、80年前後の産業構造の転換期に、中曽根内閣がヘタな手をうち、その後もなんら有効な手を打てず、新自由主義や新保守主義と手を切れなかった結果だろう。

中曽根内閣は、リクルート事件があったりして86年に退陣したが、新自由主義と新保守主義の政策は、その後、強弱がありながらも続き、2001年から2006年の小泉進一郎内閣、かわって登場の安倍晋三の第一次内閣は短命に終わったが2012年に第二次と、どんどん強化されてきた。

その思想的影響もすごいものになった。

この動きと、ラーメンとカレーとどんぶりの動向を重ねてみると、なかなかおもしろい。

ラーメンとどんぶりは、ワンボール料理でありカレーはワンプレート料理というちがいがあるが、ラーメンとカレーとどんぶりは、普通は、器一杯で一食分になるという料理の特徴がある。

おれは、機能論的に見て、カレーとどんぶりは同じ「汁かけめし」だという持論を述べ続けているわけだけど、ラーメンとカレーとどんぶりにかぎらず、料理は系譜論的に見るか機能論的にみるかで、だいぶ違ってくる。

ま、そういうことも関係する。

酒がよんでいるから、今日は、これぐらいにしておこう。

政治思想と味覚は関係ないと思っていると、アンガイ、そうではない一面もあるようだ。

味覚の選択は、政治思想のあらわれである。なーんてことは、ありうるのではないかな。

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2017/08/26

料理と「家庭」と「生活」と「教養」?

新聞の「家庭部」や「家庭欄」の「家庭」は、いつごろ「生活」にかわったんだろう。気がついたらかわっていた。学校教育の場でも、「家庭科」が「生活科」にかわった。

戦前は「家庭部」であり、その当時の記事からすると、家庭部の記者は「家庭」を「善導」する自覚を持っていたようだ。「家庭人」という言葉もあって、「よき家庭人のために」というのが新聞の立場であるようだった。

戦後も、ながいあいだ、そういう「家庭」が続いていた。

70年代の後半に、「生活者」という言葉が広く流通し始めた。「生活者」は「家庭人」に対する概念であったかどうかは、はっきりしない。これがもし、「家庭人」に対する概念だったら「生活人」のほうが妥当だろう。

前後の社会の文脈から解釈すれば、「生活者」は、新しい消費社会における消費者というかんじだった。

ほかに「女の自立」なんてのがいわれ、そのあたりとも「家庭」は折り合いが悪くなっていた。

簡単にいってしまうと、大正期の第一次世界大戦を前後して、日本の産業構造は農業から工業へと大きく転換し(つまり都市化もすすみ)、その後戦時体制で軍事中心の産業構造になったが破たん、戦後工業化が一気にすすみ、70年代後半、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がもてはやされたころには、日本の工業は行き詰っていた。

「家庭」の勃興と興隆は、この時期と重なる。

工業社会の行き詰まりを、日本は、ヤバイと「内需拡大」へ向かうクセを発揮して、内需を刺激して切り抜けてきた。そこにクローズアップされたのが「生活者」だった。

とにかく、そういう歴史があるからか、いまでも、料理をめぐっては、「家庭」と「生活」が混在している。それは、かなり比喩的だが、『家庭画報』や『ミセス』と『レタスクラブ』の違いと同一性みたいなものだ。

そして、じつは、このどちらでもない、もう一つの流れがある。

知的で教養的で文化の香りがする、うまい言葉がみつからないのだが、「家庭人」「生活人」ときたら、やっぱり「文化人」「教養人」あるいは「美学人」というダサイいいかたになってしまうが、料理をつくったり飲食を語ったりすることが教養や美学と結びついている人たちだ。

これらは情緒的に存在し、料理が科学的に存在するのをさまたげる働きをすることが少なくない。ま、いまだ合理的精神からはほど遠く、情緒的なほうが一般受けするのだな。

ってあたりを、いろいろこねくりまわしてみると、おもしろい。

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2017/08/25

ひさしぶりに「論考」の原稿を書いた。

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梅雨があけたとおもったら梅雨になり、このまま秋になるのかとおもっていたらやっぱり夏だったという夏ですな。

青い空、真っ赤な太陽、みたいな夏休みを楽しみにしていた人は、ガッカリしたことでしょうが、おれは8月に入ってから不良の天気がありがたかったです。

7月のはじめに難しいテーマの原稿依頼があり、しかも「論考」で8000字にまとめてほしいといわれた。

時間は十分だけど調べて考えるのに体力のいる仕事。しかも大正から昭和はじめの旧かなづかいの資料をたくさん読まなくてはならない。

シチメンドクセー、これひとつに没頭していたいとおもっているときに限って、ほかの仕事が重なってくる。まあ、だいたい、8月のお盆休み前というのは、いろいろ重なりやすいのだけど。

暑かったら集中力が持続できたかどうか。気温の低さに助けられ、8月一杯に仕上げればよい原稿を20日に仕上げて送ったとたん、夏の暑さになった。

ヤッホー夏だ!というほど気前のよい夏じゃないが、気分はよい。

写真は、今回のテーマに関係する資料の一つ。『週刊朝日』は2000年の冒頭、3回続けて「21世紀に残したいB級グルメ」という特集を組んだ。それぞれ、ラーメン編、カレー編、どんぶり編という構成で、30何人かの「うまいもの好きが選んだ」ってことで、とくにうまいもの好きでもないおれも3回ともからんでいる。

あれから17年の歳月がすぎ、どういうことになっているか。この17年の歳月はすごいものがある。とくに、ラーメンとカレーの世界は変貌が激しかった。これ、どういうことか。やっぱり、日本は、このままズルズルいっちゃうのだろうか。いきそうでもある。

どうしてこんなことになってしまったのだろうとおもわざるをえないことが多いのだけど、たかだか食べ物のこと、たかだかラーメンやカレーのことじゃないかとおもっているのかどうか、アンガイ平気で現在の傾向に飼い馴らされ馴染んでいる人が多い。

飲食の分野はタガがはずれたのだろうか、というより、日本のばあいタガがなかったのだから、どんどん加速する一方のわけだが。

こちらも、そういう環境で仕事をしている。気がつかないうちに流されやすい。「馴れ」のおそろしさだ。「論考」は、そういうことを気づかせてくれる。ある種の、自己の相対化、客観化であり、自己点検であり、脳ミソのオーバーホールである。スッキリした。

いまさらだけど、速水健朗さんの『ラーメンと愛国』は、内容100%ヨシとするわけじゃないが、いい仕事をしているな、と、あらためておもった。

はじめて、速水さんのように、主語を「筆者」で書いた。

当ブログ関連
2017/07/17
カレーとラーメン。

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2017/08/14

有効微生物群(EM)の初期の資料。

004古い袋をあけたら、こんなものが出てきた。近年なにかと世間を騒がせている「有効微生物群(EM)」の資料だ。

これはたしか、1989年か90年に、JAC(ジャパン アグリカルチャー コミュニィティ株式会社)を訪ねたときにもらったものだ。

その頃はバブルの最中で、おれはそのアブク銭を使って、新しいコセンプトの事業を立ち上げるプランニングに関わっていた。その事業の中核の一つが、農業生産法人の設立だった。

その準備のかたわら、九州の山地の農林業の地域の事務所で、地域の農家の方々と協力しあいながら産品の販売を手伝ったり、主に自然農法や無農薬・有機栽培の農業と流通の調査をしていた。

1980年代は、農業をめぐる大きな変化がいろいろあって、農家以外の農業参入への道がゆるくなったり、国の農業政策上は「枠外」にあった、いわゆる自然農法や有機農法などが農水省の政策に組み込まれる方向へ動いていた。

JAC(ジャック)は、そうした動きのなかで、主に「無添加健康食品」や有機農法などによる野菜や果物の流通を担い、発展していた。

自然農法や有機農法については、いろいろな流れや言い方があって、けっこうややこしいのだが、とりあえず自然農法や有機農法という言い方にしておくが、その分野でJACはけっこう知られている存在だった。

それで、訪ねて話を聞いたのだが、そのとき渡された資料のなかに、これがあった。

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一つは、1988年4月に、ジャックが編集し発行した、「有効微生物群(EM)参考資料」であり、ワープロ原稿をそのまま版下にしたらしい簡易印刷で本文20ページのものだ。

収録の項目は、「自然農法の沿革」「世界有機農業会議に参加して 比嘉照夫」「自然農法と有効微生物群(EM)活用について 比嘉照夫」「有効微生物群応用マニュアル (財)自然農法国際研究開発センター」「有効微生物群(EM)資材の説明」「当初の実施作業プロセス」となっている。

もう一つの「新世紀の農業 公開講座雑感」は、文庫よりひとまわり大きいサイズで本文12ページ。これは啓蒙パンフとでもいえるだろう、「琉球大学農学部教授 比嘉照夫」による、「新世紀の農業」と、琉球大学公開講座の雑感となっている。

1988年11月の発行で、発行は「宗教法人 世界救世教」だ。

あまりあてにならないウイキペディアには、「有用微生物群」の項に、「1986年頃、サン興産業が同社の農業用微生物資材である『サイオン』の効果確認・使用方法の確立を琉球大学の比嘉照夫に依頼。1994年、比嘉はEM(有用微生物群)なる概念を発表した」とあるが、1994年以前から、比嘉はこのように「有効微生物群(EM)」という表現を使って活動している。

とにかく、この資料は、EMのごく初期のものであり、近年「ニセ科学」と批判されるEMのような、神がかった話は一つもない。

比嘉も、「世界有機農業会議に参加して」では、「旧態依然としたおそまつでありました」「発表を聞いても昔の農業に戻れといっているような範囲のものが多く、農業生産よりも社会運動の一つとして位置づけておる例が多数発表されていました」と批判的な言い方もしている。

002が、しかし、そのころすでに比嘉は、世界救世教と関係を持っていた。「自然農法と有効微生物群(EM)活用について」の比嘉の肩書は、「財団法人 自然農法国際研究開発センター理事」「琉球大学農学部教授」「農学博士」となっている。

自然農法国際研究開発センターは、世界救世教の関連団体であり、世界救世教は開祖・岡田茂吉が提唱する「救世自然農法」を推進している。

救世自然農法は、世界救世教の宗教運動の一つとして位置づけられているといっても過言ではない。そのことについて比嘉は、どう考えているかわからないが、外から眺めていると、宗教運動としての「救世自然農法」に比嘉は「科学的根拠」を与えながら、その宗教にからめとられたと見えなくはない。

といったことをぼんやり考えた。

あのころ、おれの周辺の自然農法や有機農法の界隈でも、EMはほとんど知られていなかった。おれも耳にはしていたが、このような資料を手にしたのは初めてだった。

自然農法やEM、この界隈は複雑だ。これに「原発/反原発」がからんで、さらに複雑になっている。

それは「科学的」ということが、必ずしも明快ではないことも関係しているからだと思う。

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