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2017/09/29

計量スプーンや「数値」との付き合い方。

東電原発事故による放射能災害が問題になり、「科学的」ということが注目された。その「科学的」というのは、たいがいイコール「数値」として取り上げられ、それ以下だからアンシンとか、以上はイケナイとか、いや0.0001でも許されないとか、いろいろいわれた。

科学が数値に矮小化されるのもかわいそうだが、数値を絶対化する傾向も見られ、おれは、かつて台所に普及した料理のための計量スプーンや計量カップをめぐる是非論を思い出した。

たとえば、『栄養と料理』昭和52(1977)年1月号には、「計量カップ・スプーンで作る料理はおいしくないか?」というページがある。

計量カップ・スプーンというのは、料理の数値化のために考案され普及した。

ところが、こんなことになったのだ。

「「カップやスプーンを使って計量しながら作る料理なんて、どれもこれも同じ味にでき上がってしまっておいしくない。こんな料理の作り方をしていては、わが家の味が生まれるはずがない」という声を近ごろよく耳にします」

と、計量スプーン・カップの考案普及に努めた香川綾が創設した日本女子栄養大学(あるいはその出版部)が発行する雑誌『栄養と料理』が、「計量しながら作る料理の是非」を記事にしている。

料理に限らず、「数値」をめぐっては、いろいろあるのだが、抵抗感を持っている人たちが少なからずいる。それがまた、とかく、「理系」×「文系」という、ありそうだが架空の二項対立の話に回収されたりする。

いまでも、マーケティングを毛嫌いする人たちがいて(たいがいマーケティングを理解してないのだが)、「数値」や「数値化」を「文化」や「芸術」など「感性」や「個性」のたぐいと対立するものとして扱っている場面が最近でもあった。

先の「わが家の味が生まれるはずがない」というのは、そこに「わが家の味」大事の観念的な思想が見られるのだけど、それは、数値と個性を対立させる考え方の変形でもあるだろう。

このように、対立関係でないものを対立関係でとらえ、比較できないものや比較するのはまちがいのことを比較するのは、観念のイタズラで「科学的」とは無関係なことだが、けっこうはびこっている。しかも、それが「文学的」だの「芸術的」だのと評価されたりする。

いったいどうなっているのという感じなのだが、『栄養と料理』のこの記事には江原恵が登場して、適切な指摘をしている。

江原恵は、「スプーン料理の反対者に目されて」ここに登場している。かれは、「スプーン料理を軽視はしているが、反対者ではない」といって、計量以前のことを述べている。そのことにふれていると長くなるのではしょるが、数値については、こう言っている。

「数字は心覚えのためのメモであって、料理学の科学的な方法そのものではない」

パソコンでキーを打つと日本語の文章が表示されるのは、集積された数値(心覚えのためのメモ)を処理した結果だ。

ようするに、数値や数値化が問題なのではなく、それを扱う方法や思想、つまり数値との付き合い方が問題なのだ。その方法や思想が科学的かどうか。これは放射能をめぐる大きな問題としてもある。

だけど、とかく、わかりやすそうな二項対立関係での話がもてはやされ、「数値化」は悪者化悪魔化されて追い払われ、「個性」というアイマイな観念に美しいものとして軍配があがる。

不倫にはウルサイが、国の予算の執行状況にはアマイのは、そんなことも関係ありそうだ。

数値は数値であって、数値化は善か悪かで考える対象ではない。

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