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2017/09/28

グルメと政治。

今日は74歳の誕生日なのだが、今日召集の194臨時国会の冒頭で安倍首相が解散という手に打って出て、大騒ぎになっている。

大騒ぎは、事前に冒頭解散の情報が流れ出したころから始まって、もうややこしくて正確に書くことができないほど、スピーディーなゴタゴタが続いた。

ようするに、小池百合子都知事が都知事になるときの母体だった「都民ファースト」を全国組織の「希望の党」へ発展解消というのかな?ということで、その党首になり、そこへあれやこれやの自民党以外の弱体化した「党」といえないほどの連中が合流したと思ったら、昨日今日になって、先日前原誠を党首に選んだばかりの、イチオウ野党第一党の民進党の前原が「希望の党」への合流を決めた、というので、これが大騒ぎ。

大騒ぎなのだが、希望の党と民進党の合流は、「「非自民・非共産」の野党勢力を結集」をうたっていて、もう長年続いている離合集散劇で、目新しいことは一つもない。

ツイッターなどでは、小池を「極右」と認定し、安倍自民党=右翼とどちらを選ぶかの悪魔の選択になったかのような主張も見られるが、小池の基盤はそれほど安定しているものではない。もともと「非自民・非共産」という路線が、自民と共産という批判あるいは否定する対象があって成り立つ陣地であり、中身はカラ。

が、しかし、今回の希望の党は、これまでのそういう存在のなかでも、もっとも力を発揮しそうだ。それは小池百合子の「演劇力」に負うところが大きいのだが。

なので、ここは、希望の党と共産党の進出をうながし、希望の党に政権をとってもらうというのも、面白い。希望の党が政権をとっても、そのまま長続きするはずないからだ。また新たな迷走の段階に入るだろう。

しかし、そもそも現在の政治は金がかかるのであり、自民党スポンサーと希望の党スポンサーの関係は、どういう動きになるのか、と、政治ミーハー的には考えるのだが、どうも政治クラスタとか政治ミーハーはよろしくない。よろしくなくても、そこを考えると、希望の党が政権を奪取するほどの議席を獲得するとは思えない。とにかく、とりあえず、「劇場力」のある小池百合子が、当面の主役になりそうだ。

などと考えたとき、「小泉劇場」より、もっと昔の大正の初めごろに、「野次馬政治」なる「政治の演劇化」を指摘した人物を思い出した。

この人物は、1900年、大阪新報をふりだしに、大阪朝日新聞、上京して国民新聞、東京朝日新聞、毎夕新聞、都新聞など、当時の有力紙で記者をした松崎天民だ。

松崎天民といえば、グルメ史あるいは食通史あるいは食味評論史には欠かせない、『京阪食べある記』(昭和5=1930年、誠文堂)、『東京食べあるき』(昭和6=1931年、誠文堂)の著者でもある。

関東大震災復興をしめすかのような昭和初めの食べあるきブームをリードした一人といえるのだが、彼は新聞記者としても、なかなか活躍した人物なのだ。

この人物に興味を持って、いろいろ調べ、『京阪食べある記』『東京食べあるき』は全文コピーで持っているが、ほかにも、「大正世相私観」なるものがあって、面白いのでコピーして手元にある。これは『新日本』という雑誌の大正4(1915)年4月11日号に載ったものだ。

その中に「野次馬政治の傾向」という項がある。

このころはまだ普通選挙法(1925年)前で、高額納税の男子だけが選挙権を持っていた時代だが、民衆は黙っていなかった。

「政治上の問題を民衆の力に依って左右する様な傾向を生じたのは、確かに大正に入ってからの著しい現象である。その源は遠く非媾和の焼打事件に発足して居るにしても、煽動政治焼打政治、反対横行政治、野次馬政治は、今や軽視すべからざる勢で、国の隅々にまで行き渡って居る。政治と国民生活とが次第に接近して来たのは、喜ぶべき一現象であるにしても、政治が演劇化され、遊戯化され、興味化されて来たのは、これ決して喜ぶべき傾向ではあるまい」

非媾和の焼打事件というのは、明治末の日ロ講和に反対する日比谷焼打ち事件のことだろう。

「私は今の政治が、より以上に演劇化せんことを望み、より以上に興行物化せんことを望むものである。政治の演劇化は政治の堕落の様であるが、実は政治の内容を根本から改革する所以の道程にあって、同時に政治に対する国民の心眼を開拓し得るだけの効果がある。功名利達の政治に対して、馬鹿馬鹿しい感想を抱くようになる事が、差当つての急務である。この意味に於いて、野次馬政治の傾向は、いよいよ其の本音を吐くまでに、どん底へ進まなくてはいけない」

坂口安吾の「堕落論」のごとく、というと大げさかもしれないが、なかなか複雑な著述だ。で、彼は、こう書くのだ。

「国民の生活を基礎とした政党が出来て、国民の実生活に共鳴する政治が生れねば、政党政治の恩沢に浴することは出来ない。私は此の立場から、同志会の壊れん事を望み、政友会の破れん事を冀ひ、国民党の滅せん事を希ふものである。さうして野次馬政治の旧態から、新意ある生活政治を見るようにする事が、大正年代の大事業であって欲しい」

生活政治! なかなかよい言葉ではないか。

しかし、歴史は、かれが欲したようにはならなかった。どん底まで進んでしまった。

そして、劇場化する政治の昨今、ツイッターなどもあって、なかなかにぎやかであるけれど、そこに群がる政治クラスタや政治ミーハーたちは、生活より政局、消費税問題などより共謀罪や安保法制、そしてポピュリズムだのファシズムだの右翼だの左翼だの、リベラルがなんちゃらかんちゃら、という感じで「政治用語」ばかりを駆使した「政治意識の高い」話ばかりなのだ。これ、松崎天民が見た「政治の演劇化」と同じ。

またもや、どん底までいくしかないのか。

しかし、松崎天民という男、単なる食味評論家ではなく、いろいろ見識のある人だったようだ。飲み食いの話ばかりで政治の話ができない連中とはちがう。ま、当時の新聞記者であるから、ナニゴトも上から目線な感じはあるのだが。いまだって、新聞社の連中もちろん、新聞や雑誌に何か書いたぐらいで一般より「上」の人間になったつもりで、いい気になってものをいう連中もいるのだからね。

おれは、「生活政治」のため、こう思っている。

消費税率が8%になってからのことを考えると、どんなリクツをつけても10%なんてありうることでなく、5%にもどすか消費税ナシにして別の税制を導入する案を検討すべきだね。そういう論戦をしてほしい。だいたいさ、酒税だって実質増税して、飲兵衛を苦しめているというのに。

もっと生活用語で政治を語ろう。

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