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2017/10/17

ストーリー(物語)の消費。

いまのように情報がスピーディーに流れていく中では、そのスピードにのった言説や言葉が脚光をあびやすい。それらはたいがい、「鋭い」とか「エッジがきいた」と評価される傾向にある。スピードにのって鋭くエッジをきかせた言葉をはき、すぐ別の話題に移る。

野暮は、そういう食い散らかされた情報のあとをノンビリ眺めていく。そこに野暮の自尊心がある。

なんてことはどーでもよいのだが、一年半ほど前になるか、「ku:nel(クウネル)」のリニューアルのときは、ツイッターでも大騒ぎだった。

リニューアル後のアマゾンのレヴュー欄も、リニューアルされた「クウネル」に対し、なかなか鋭いエッジのきいた文化の香り高い批判というのか批評というのか、そういうものが目立った。

おれのような野暮にとっては、高尚すぎてついていけない話も多く、だいたい、あのあたりの人たちは、普通の労働者庶民とはちがうのだな、という感想がせいぜいだった。

とはいえ、旧クウネルは、労働者庶民の暮らしも視野に入っていたとおもう。しかし、これは野暮の感想にすぎないのだが、「クウネル」のリニューアルを嘆き悲しみ、リニューアル後を酷評した人たちは、労働者庶民の暮らしより、もっと「高度」な文化的なナニカを大切にしたかったのではないかとおもえた。ようするに、リニューアルも、それを嘆き悲しんで騒いだ人たちも、労働者庶民の暮らしなど関係ない、鋭いエッジのきいた見識と意識の持ち主だったのだ。野暮などが口をはさめる余地はなかった。

いまごろになって、この話を持ち出すのは、ずっと「ストーリー(物語)の消費」が気になっていたからだ。「クウネル」のリニューアル騒動のときには、このことについてふれている人は、あるいはいたかもしれないが、いたとしてもごく少数で、おれにはほとんどいなかったようにみえた。

「クウネル」は、表紙に「ストーリーのあるモノと暮らし」という惹句を掲げていた。

これはとても新鮮な印象だったけど、「ストーリーの消費」が、マーケティング業界あたりで話題になりはじめたのは、1990年ごろからだった。

モノの消費からストーリーの消費がいわれ、それが高度消費社会=成熟社会の姿であると、マーケティングリーダーたちが唱えはじめたのだ。

それはもっと生々しい言い方では、「アート」や「文化」もカネになる、という風でもあった。

当時の、セゾングループなどが、その先進だった。

博報堂トレンド研究会著の『コンセプトノート1991』(PHP、1991年)には、「アートの消費、ストーリーの消費」という項がある。

そこでは「「文化」が「モノ」に変換されている「アートの消費」と、「モノ」が「文化」に変換されている「ストーリーの消費」」についてまとめられている。

「一般の商品が「文化」の衣裳をまとって現れてきているのが、「ストーリー」の消費である」

「「文化」を取り込んだ、それなりのストーリーやシナリオを持ち、しかもそれをうまく演出している商品がヒットしている。人々は商品だけでなく、その文化ストーリーを消費し、共感しているのだ」

というわけで、当時より近年ますます、「いい話」「いい物語」を求めて、この手の「ストーリー」が本や雑誌などさまざまなメディアにハンランしている。

これらは、商業主義のマーケティングの結果であるのだが、アート的文化的に優れていると、なぜか商業主義ともマーケティングとも無縁の「作品」とみなされ「商品」とみなされない。商品として取り引きされているにもかかわらず。

なんだか認識の妙な歪みを感じるのだが、「クウネル」のリニューアル騒動のときには、その歪みが噴出したように見えた。

まったく関係ないことだが、ツイッターをチラッとのぞいたら、「男も女も「どんな仕事をしているか」でしか自尊心を持てない社会で子どもが減るのは当然ラジよね」というツイートがあった。なかなか鋭い。

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2017/10/16

牛肉の位(くらい)。

ヨーシ、今日はフンパツして牛肉のしゃぶしゃぶをやろうと思って、おれが毎日のように利用するスーパーへ行っても、しゃぶしゃぶ用の牛肉は売ってない。豚肉は、国産もアメリカ産もタップリある。

そのスーパーはうちから、駅へ行くのと逆方向にある。駅から歩くと20分近くかかるだろう。駅の近くには、二つのスーパーがあって、ここには、しゃぶしゃぶ用の牛肉もある。

スーパーは産業道路と生活道路が交差するあたりにあって、近くに中規模の団地が一つと小規模の団地が2、3あり、周囲は近年たくさんあった空き地がなくなるほど新しい住宅が建っている。新しい住宅は、30坪もあれば大きいほうで、たいがい子持ちの家庭だ。

関西はともかく、関東では牛肉の位が圧倒的に高い。関東というより東日本になるだろうか、よく調べたことがないので正確にはわからないが、とにかく牛肉が食べられたら「中ぐらいの生活」だ。という感覚や意識は、わりと広くあったのではないか。牛肉は中から上の生活の象徴でもあった。

もちろん、その牛肉は、牛丼の牛肉は含まれない。もっとも近頃は安かった牛すじが人気で高くなった。

そのスーパーには、いつもアメリカ産牛カルビが大量に陳列されている。これが牛肉のなかでも安い部類になるだろう。それより少し高めで、アメリカ産ステーキ牛があるが、薄切りより少し厚いていどで、しょうが焼き用豚肉と同じぐらいの厚さだ。

その上の牛肉はグンと高くなる。ほんのわずかしか置いてないが、買ったことがない。

これは、2017/10/11「分断と財政と信頼。「ギリギリ中間層」と善意。」に書いた、「自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい」と関係するのではないかと考えた。

おれは、なんとか、たまに、牛肉を食べることで、「自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい」のかもしれない。だいたい、おれにとっては豚肉の方がうまいのだから。

「中間層」なんて興味はないが、肉売場の牛肉と豚肉の格差は、目に入る。「ギリギリ中間層」意識は、アメリカ産牛肉のおかげで保たれているということになりそうだ。

たとえそうだとしても、お客はみな、真剣に、楽しそうに、買い物をしている。

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2017/10/15

情熱が足りない。のか。

世間が選挙で騒いでいるおかげでか、神戸製鋼の検査データ改ざん問題の泥沼状態は、あまり注目されていないようだが、とんでもない泥沼だ。

コレ、日本の大手メーカーがやっていることだなんて信じられないおもいで、すっかり忘れていた東芝粉飾問題を思い出した。

先日このブログで「ポスト・トゥルース」でふれた、「事実を軽視する社会」の実態なのだな。

東芝問題、今年の春でも、「社員19万人の巨大企業はなぜこんなことになったのか」と話題になっていたのに。もう忘れていた、こんどは、神戸製鋼だ。こういう大手名門が次々とやらかしていることが、改ざんなのだ。

最近は、経済指標になる政府データの一部にも改ざんの疑いがあると指摘するニュースもある。

「事実を軽視する社会」は、少しずつやってきて、少しずつになれていくうちに、少しずつが少しずつのさばり、大きく常軌を逸する。それでも、「事実を軽視する社会」では、そんなに大きく常軌を逸しているとはおもわれない、そしてさらに…ということでコンニチになっている。

思い出せば、原発がらみのデータ改ざんもあった。国会議員の政務調査費やら、そうそう、カラ領収書で帳簿をデッチあげたりもあった。

こういうことには「寛容」で、たいしたことではない、みんなやっている、ぐらいの気持もあったのではないか。

身の回りの小さなことから事実を軽視する。そのゆきついたところが、東芝問題、神戸製鋼問題、これは発覚露出したことだけにすぎないのだろうが。

ツイッターに、こんなツイートがあった。

「東芝、神戸製鋼とかいう企業がこれを実践した結果…」というコメントがついて、どこかの社内のポスターの写真が一枚。

できない病にかかってない?
「○○だからできないではなくて」

ヒト 人がいないからできない
モノ 設備や商品がないからできない
カネ 予算がないからできない
ジカン 時間がないからできない
        ↓
「どうすればできるのか?」知恵を出すのがあなたの仕事!

これを見て、バブル崩壊のころからの「ポジティブシンキング」の流行を思い出した。

批判や不平不満は、すべて「ネガティブ」との烙印を押され、事実関係の検討もせずに、「ポジティブにやろう」とワッショイワッショイ。そのうちに、「おかしい」と思ったことも口に出しにくくなる。つらくても泣き言もいえない。

そうそう、東芝や神戸製鋼だけではない、電通やNHKの社員の過労死問題、こういうことが、大きな会社でおきている。大きな会社だから話題になるが、それだって、忘れられるのを待つように、ムニャムニャに流される。

きのうパラパラ見ていた日本有数の企業が発行する冊子に、高名な作家が、こんなことを書いていた。「情熱をもって事に当たれば、人を動かし、現実を動かすことができる」「どのような状況でもこちらに情熱があることを示せば人を動かせる」

こういうことをふりまくメディアやモノカキが少なくない。まったくもって無責任だ。こういう言葉に苦しめられている人たちを想像する力もないのだろう。

「情熱」は、たとえば「根性」「勇気」「愛情」「誠意」など、いろいろ置き換え可能だし、変わりうる。このような語りの形式と言葉を用いるようになったら、「事実を軽視する社会」の体制の加担者といえる。一方に、こんな話をよろこぶ人たちも少なくない。そこに「いい仕事」が成り立つ面もあるようだ。

なんでも「自己責任」にされる社会は「事実を軽視する社会」であり、「精神」や「気持」や「姿勢」などで片づけようとする。そういうことになれてしまいたくないね。事実を大切にする社会へ、情熱を燃やそう。

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2017/10/14

必要とされてないこと、必要なこと。

きのうのブログを書いて、『CARVER'S DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選』にある「ささやかだけれど、役に立つこと」を読みかえした。

すると、必要とされてないことに、どんなに力をそそいでいるかを、考えることになった。その一方で、「ささやかだけれど、役に立つこと」が、捨てられたり忘れられたりしている。

飲食の関係では、とくに多いような気がする。

必要な食生活の知識や商品知識より、いいもの話やうまいもの話ばかりが話題になり、ところが、何か食品が原因のジケンがあると、右往左往大騒ぎする。

情報は多いが、情報を咀嚼する力がない。どこそこのナニナニがよい、となったら、それ一辺倒だ。その逆に、悪いとなったら、とことん忌避する。

そういう話しにふりまわされるのはもちろん、そういう話がベースになった日常というのは、「情報社会」だからといわれるのだけど、それはいかにも情報を発信して商売にしているメディア側などのご都合主義の言い分で、平常を欠いているのではないか。

だいたい、メディア側にしても、全体や将来を見渡して、いまこういうことが必要とされているという判断などは、ほとんどしてない。とにかく、まず、毎月あるいは毎日、何かを作って売らなくてはならないから出発している。そして、受けのよいテーマや内容や表現に飛びつく。売れると、それが必要とされていることになってしまう。

ま、おれもそういう尻馬に乗った仕事をしているな、と、ときどき感じることもある。

知らなくてもよい、いいもの話やうまいもの話がバブルのようにハンランしている状態は、好ましいものではないとおもう。

とくに日々の暮らしの「ささやかだけれど、役に立つこと」を、もっと大事にしたいね、とおもうのだった。

そういう意味では、スペクテイター40号「カレー・カルチャー」は、いい仕事をしている。いいもの話やうまいもの話ではない、それでいて、売れ行きの出だし好調のようだ。

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2017/10/13

ツナサンド。

うちにいて一人でツナサンドを作って食べることが、月に最低1,2度、多いと3度はある。

ツナ缶は、いつも3個パックの薄い缶のやつを買い置きしてある。食パンもたいがいある。

軽くあぶった食パンにツナをはさんで食べるだけだ。二枚の食パンに缶一個分を盛り分けて、二つに折って食べる。ツナ以外は、何もつけない足さない。

それだけのやつだ。

これをやるときは、必ず、村上春樹訳の『CARVER'S DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫)の、「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」を思いだしている。

先に「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」を思いだし、ツナサンドが食べたくなって作ることもある。

切り離せない関係なのだ。

かといって、そこに、ツナサンドのうまそうな場面があるわけではない。

朝、台所で両親が言い争う声がする。少年(僕)はベッドの中でその声を聞き、弟と喧嘩し、学校をズル休みすることにする。弟が学校へ行き、両親が仕事に出かけると、一人になる。見たいわけでもないテレビを見ながらマスターベーションをきめたのちテレビは消し、何度か読んでいる本の一章を読み、それから両親のベッドルームへ行って、コンドームがないかと丹念に探し、コンドームは見つからないがワセリンを見つけ何にどう使うのか想像してもわからず、などのあと、近くの川へ釣りに行くことにする。

そこで、「ツナのサンドイッチを二つ作り、三段重ねのピーナッツバター・クラッカーをいくつか作った」そして「家を出る前に僕はサンドイッチを一個を食べ、ミルクを飲んだ」

ツナサンドが出てくるのは、それだけだ。

うまそうな話なんかひとつもない。家庭も景色も、うまそうな雰囲気はひとつもない。

それなのに、このツナサンドを時々思いだす。

なぜなんだろうと考え、わからないのだが、そういうことがあるのは確かだから、食べ物のことを詳しく書いてなくても、その食べ物にひかれることがあるのではないかとおもう。そこが、気になるのだ。

前にもこのブログに、同じ本に収録されている「ささやかだけれど、役に立つこと」について書き、そこで、村上春樹さんの解説から引用している。

"カーヴァーの小説には何かを食べる情景がよく出てくる。『でぶ』もそう、『大聖堂』もそうだ。そこでは人々は決しておいしそうなもの、上等なものを食べているわけではないのだが、それでも読んでいると自分も同じものを食べてみたいなという気持ちになってくるから不思議だ。僕は想像するのだけれど、カーヴァー自身食べることが大好きだったのではないか? それもたぶん日々の普通の食事を、普通に食べることが大好きだったのだろう。彼の小説はそのようないくつかの「スモール、グッド・シングズ」に励まされて成立しているように、僕には見える。"

村上春樹さんも「不思議」なんだ。

ツナサンドと一緒にこのことを思いだし、こんなふうに書けるようになりたいものだ、と、ツナサンドをガブッとかじる。飲み物は、ミルクではなく、ビールか、何かで割った焼酎だ。

そのあとは忘れて、そうなる努力などはしない。そしてまた思いだす。ツナサンドを作って食べる。その繰り返しだが、このツナサンドがうまい。買ってきたツナサンドでは、こうはいかない。

当ブログ関連
2007/05/31
「ささやかだけれど、役に立つこと」

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飲食、合理とポスト・トゥルース。

飲食や料理あるいは食品の分野の話は、「ポスト・トゥルース」のはるか前から「客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する」傾向が強かった。

手づくりや手仕事、そこにこめられるという「こころ」や「愛情」や「誠実」などが味の決め手になるかのような話や、多いのは、食品のナントカが身体によい病気が治ったというたぐい。

これらは、日本独特の不合理主義や非合理主義が背景にあるとおもうけど、1980年代からの新自由主義と新保守主義は、それを助長させてきたようだ。

そのために、ますます現実が見えにくくなっている。一方、ツイッターを見ていると、ちかごろの若者は、けっこうよく見ているなとおもうことも少なくない。

たとえば、先日、このようなツイートがあった。

めがねねこP‏ @FakeFalcon

日本の美談はだいたいが「戦略レベルで致命的に失敗したので戦術レベルの話を美談に仕立てあげて面目を保つ」パターンよね(・ω・ )製造業の機器更新失敗による古き良き職人芸とか
12:32 - 2017年10月7日
https://twitter.com/FakeFalcon

「職人芸礼賛」「匠の技術礼賛」の美談は、工業社会が行き詰まった1980年前後以後の顕著な傾向だけど、飲食の分野でも、ずいぶんもてはやされ、にぎやかだ。

その間に政府や財界は「改革」だのなんだのいいながら、製造業の革新ひいては情報技術の育成も含めた産業の革新へ向けての取り組みは、じつにいい加減だった。

それが、ここでいう「戦略レベルの致命的」な失敗につながっているわけだけど、見るも無残な状況は、戦術レベルの美談に隠され「日本スゴイ」が続いている。

日本料理が海外で人気なんていう話も一役買って慶祝のいたりなのだけどね。日本製品ベタ負けのなかで、日本料理ぐらいしかクローズアップできるものがない状況は、けっこうヤバイ。

その料理のことで、最近またおもしろいツイートがあった。

坂下寛志‏ @Sakashita_h

「お店で買えば¥200のマドレーヌも、家で作れば¥50で作れてお得!」
ではなくて、
「材料も揃えて、時間もたっぷりかかって、時には失敗もして、掃除も大変なマドレーヌも、お店に行けば¥150多く支払うだけで買えて、時間も美味しさもお得!」
と、損得の概念を見直しませんか。
8:49 - 2017年10月12日
https://twitter.com/Sakashita_h/status/918262403401359360

これは合理的な考え方を促すものだろう。

このツイートにリツイートがついた。

羅刹SAD‏ @rasetusad

羅刹SADさんが坂下寛志をリツイートしました

単純に言うと原価50円だけど2個だけ食べたい場合準備調理片付け3時間で三時間の労働は800×3で2400円って考えると買ったほうが圧倒的に安い、200円のマドレーヌなら30個以上作らないと安くならない計算なわけ。
22:17 - 2017年10月12日
https://twitter.com/rasetusad/status/918465549096517634

こういう計算をすると、「なんでも金の世の中になって」と嘆く、わけしり顔のオトナたちの顔が浮かぶ。

だけど、合理の仕組みを見ている若い人たちもいる。

ショコラ@08/12東サ51b‏ @chocolat_shop

一個あたり200円で買えるマドレーヌを一個あたり50円の原材料費で作るために数千円分の材料と器具を揃え未熟な技術で数時間かけなければいけないと考えると職能分離というのは偉大である
14:08 - 2017年10月12日
https://twitter.com/chocolat_shop/status/918342521264136192

このツイートにぶらさがって、こういうやりとりのツイートもあった。

軍曹‏ @HARTMAN
返信先: @chocolat_shopさん

自分で牛丼作った時牛丼屋の偉大さが身に染みました……あのコストであの味すごい
14:10 - 2017年10月12日
https://twitter.com/chocolat_shop/status/918342521264136192

ショコラ@08/12東サ51b‏ @chocolat_shop
返信先: @HARTMANさん

趣味とかこだわりで作るには自分で作るにもいいんだけどねえ。ちなみに牛丼や煮物、煮魚は作る量が多くなればなるほど具材から出る出汁が多くなって全体的な味が均質化されるから結果として美味しいのよ
14:13 - 2017年10月12日
https://twitter.com/chocolat_shop/status/918343737243156480

ここにあげたツイートのアカウントの主は、若い人ばかりだ。アイコンは、どれもアニメキャラ。

こういう合理的な考えが普通になるまで、あとどれぐらいかかるのだろう。

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2017/10/12

ポスト・トゥルース。

「ポスト・トゥルース」という言葉を近頃よく目にする。

WEB版知恵蔵では、「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。直訳すると「脱・真実」。英国・オックスフォード英語辞典が「2016 Word Of The Year(2016年を象徴する言葉)」として選んでいる」と解説している。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9-1748296

いま真っ盛りの第48回衆院選でも、ポスト・トゥルースがはびこっている状況が俯瞰できる。

事実を積み上げることを軽視する社会は、1980年代から、その色合いを強くしてきたが、近頃は、「ポスト・トゥルース」というより「アンチ・トゥルース」という感じのほうが強い。事実を積み上げているだけで、「偏り」と見なされる事態もあるうえ、政治家はウソをつくものだとしても党首たるものがスグばれるウソを堂々と口にしデータの捏造すらする。

なにより、メディアまわりで食っている知識人たちやゲンロン人とかジャーナリストとかの言動を見ていると、もはやイタマシイ限りだ。

いつごろからか、とくに大阪の橋下維新が登場したころからだろうか、それに原発事故がらみのあれこれ、勘定と感情が入り混じった迷いが多くなりやすい情勢が続いていたが、小池希望ができ民進が合流する流れから民進が分解し立憲民主党なるものが生まれたりで、迷う人には迷いの要素が増えるばかりだ。

この先の改憲の国民投票の可能性を考えれば、迷える人たちの迷いは、まだまだ続く。

メディア業界に根っこはあっても、そこで生きていくしかない、社会に根っこをもたないインテリな人たちは、ほんとイタマシイとしかいいようのない様子を、ツイッターあたりにも晒している。

こんなときこそ、事実を積み重ねることに立ちかえるべきなのだろうが、長年どっぷりメディア業界人になってしまっていると、それもできにくいのだろう。チヤホヤされているうちに、すっかり選民気取りの方々もいる。選民気取りが、事実を疎んじる。

ツイッターなんてものが、それに拍車をかける。そんなにセカセカ言わずもがなのことを言う必要はないのに、ジッとしていられないのだろう。

感情のおもむくままに「RT」や「いいね」などをしているだけで、いつのまにかハマっている人たちが見える。この人がねえ、と、イタマシイ。

知識はたっぷり持っていても、勘定的にも感情的に迷いの多い情勢をうまく切り抜ける方法を知っているわけではない。むしろ、本人としては、勘定的にも感情的にもうまくやっているつもりなのが、ポスト・トゥルースに結びつく。

「嫌い」「憎い」「反発」「反感」、そういう感情が、ますます人の内と外を支配する。

「メディアリテラシー」なんていう、方法も不確かな、できもしない言葉を覚えるより、「嫌い」「憎い」「反発」などの自分の感情をなんとかすることではないかな。もちろん「好き」や「可愛い」や「甘え」も含めて。

あと、「一周遅れ」と揶揄されてもいい、自分のペースを崩さないことかな。いまみたいな情勢下では、先進の選民に混じろうとするより、一周遅れ二周遅れで選民たちが急いで捨てていくゴミの山から貴重なことを拾ったほうがよいのかもしれない。パソコンの廃品回収業者のように。

はい、おれはゴミ拾いの仕事をしています。

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2017/10/11

分断と財政と信頼。「ギリギリ中間層」と善意。

たばこ総合研究センター(TASC)発行の「TASC MONTHLY」は、毎号タイムリーな寄稿が載っていておもしろいのだが、最新10月号は、とくに刺激的だった。

というのも、メインの二つのうち、TASCサロンが井出英策「寛容な社会の条件とは?」で、特別寄稿が速水健朗「オーガニックフードは政治選択なのか、または嗜好品なのか」であり、どちらも、いまどきの「分断」と深く関係しているからだ。

なにしろ、きのう公示された第48回衆院選をめぐって、対立と分断の露呈が激しい。

井出英策さんは慶応大学経済学部教授だ。学者さんらしく、分断の状況について根拠をあげ検討を加え、とかくゴチャゴチャになりやすい経済と政治を区別しながら明らかにする。最後は、「社会的対立の根っこにある既得権をなくすという提案」として「既得権のない財政をつくる」を述べている。

これは、おれのような財政に疎いものにとっては、目からウロコだった。

井出さんの話は「小田原ジャンパー問題」から始まる。小田原市の職員が「保護なめんな」「不正受給は人間のクズ」と英語で書かれたジャンパーを着て、生活保護者宅を10年にわたって訪問し続けていたということで問題になった事件のことだ。

井出さんは小田原市に住んでいたことから、この問題を検討する会議の座長を引き受け、その調査結果に衝撃を受けた。つまり、市職員の行動を批判するものは55%にすぎず、支持する声が45%に達していたからだ。

そこを探ると、「「既得権のない弱者」の「既得権を持つ弱者」への妬みと憎悪」が浮かびあがる。

さらに、その背景を探ると、興味深い事実が見えてきた。「平成28年の『国民生活に関する世論調査(内閣府)』に「自分の生活水準(上・中・下)」を尋ねたものがある」「自分が「下」に属すると回答した人の割合はわずか4.8%であり、92.1%が「中」と回答している」

「平成27年の『国民生活基礎調査(厚生労働省)』によると日本の相対的貧困率は15.6%である。あるいは世帯収入が300万円以下の人たちは全体の3割に達しており、400万円以下であれば5割に達している。それにもかかわらず自分が低所得層だと感じる人たちはわずか4.8%しかいない」

「この差は何を意味しているのか。それは低所得層なみの生活水準に置かれていながら、自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい人びとが大勢いるということだ」

ってことで、「このような人たちの心理に光をあてるとある可能性に気づかされる」「要するに、強者が弱者を叩くというのではなく、生活苦に耐えている人たち、あえていえば弱者がさらに弱いものたちを嫉妬し、怒りをぶつけるという状況が生まれているのである。小田原ジャンパー問題をつうじて、私はこの悲しい現実を学ぶこととなった」

強者が弱者を叩いたり、弱者と弱者の対立を煽ることもしていると思うが。それはともかく。

「他者への寛容さをなくしつつある社会。これは憶測ではない。統計的にも裏づけることができる」と「引き裂かれた社会」について、とにかく、井出さんは一つ一つ事実を積み上げる。データを駆使し緻密だ。

たどりついたのは「税の難しい社会の根底には低信頼社会という問題がある。人間を信頼できない社会は、当然のことながら、社会的弱者のことも信頼しないだろう」

「「袋だたきと犯人探しの政治」は、社会的信頼度を低下させるような手法が政治的支持と結びつく、いわば社会の分断を加速させる「不幸な婚姻」にほかならなかった」

「袋だたきと犯人探しの政治」というのは、いろいろな解釈が成り立ちそうだから、慎重に考えたい。。

ついでだが、おれは、放射能汚染をめぐる食品などの風評被害の問題も、放射線の数値に対する無理解もあるだろうが、より「低信頼社会」の問題だと思っている。

資本主義と市場経済の広がりによって、「「生活の場」と「生産の場」が分離し」「共同行為の領域が小さくなった社会は、病気やけがをすれば、生活の危機が即座にやってくる不安定な社会でもある。だからこそ人間は、「生活の場」と「生産の場」をこえた新しい場、人間の生活を「保障する場」をつくりだした。それが「財政」だ」

というぐあいに「財政」が出てきて、おどろいて目が醒めた。いつのまにか、そういうふうに「財政」を考えなくなっている自分に気がついた。

財政といえば、今日の毎日新聞のWEBサイト「記者の目」にも、ヘンな記事があった。消費税の「選挙争点化、もうやめよう」というのだ。

「増税はできれば避けたい選択だ。国民に負担を求める前に税金の無駄遣いをやめ、歳出を徹底的に見直す必要がある。しかし社会保障制度を維持するには、一定の負担が避けられないのも確かだ。国と地方の借金は国内総生産(GDP)の2倍近くに達し、先進国で最悪だ。増税凍結、使途変更のどちらの主張も借金を減らすことにはつながらず、将来不安は消えない」
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171011/ddm/005/070/008000c

これが、新聞社の「中立的」「客観的」ということなのかも知れないが、言葉をろうしているだけで、何も語っていない。こういうゲンロンが多いね。こういう記事などで、いつのまにか財政に対する見方が歪むということもあるだろう。

もっと税制と受益サービスの関係を議論すべきではないのか。税は消費税だけではない。

井出さんは、「既得権のない財政をつくる」を提案している。それは信頼しあえる社会のためだ。

「私たちは弱者救済を正義として語りがちだ。だが、人間は正義のために助け合うのではない。そうではなく、生存や生活の共通のニーズをみたすために人間は助け合ってきた。だからこそ、社会の共同行為である財政を基点として、痛みと喜びを分かち合い、「頼り合える社会」を作りあげ、「私たち」を再生することが不可欠なのだ。残された時間はけっして多くない」

最後の「残された時間はけっして多くない」が気になるところだが、いまの分断状況はけっこう危険なところまできているということだろう。

「正義」や「正しさ」をうさんくさく感じ、普通の生存や生活それに労働を大事に考えているおれとしては、ここのところは激しく同意。

その頼り合える財政について引用していると長くなるので、図説を載せておこう。これは「同率課税、同額分配」とでもいうのだろうか?考えてみたこともなかった。

速水健朗「オーガニックフードは政治選択なのか、または嗜好品なのか」は、とくに東日本大震災以後の「分断」を、これまでの著作『フード左翼とフード右翼』『ラーメンと愛国』をもとにまとめ直し、ますます生活スタイルや嗜好の分断から政治思想の違いが顕在化していくだろうと述べている。

このことについては、またあらためて。

近頃の飲食や食べ物などをテーマにした著作には、こういう顕在化を感じている。それぞれの著者は「正しい」ことを書いているつもりなのだろうが、そうであればますますコワイことだ。

それは今日に始まったことではないのだが。混ざり合うことのない分断が深まっている感じだ。単なる趣味や好みの違いだと思っていることが、じつは、政治思想的であることが少なくない。

そういう意味では、こんにちの分断は、井出さんの「財政案」だけでは、いけないのだろう。「私たち」の再生、「信頼社会」のためには、多角的な検討と関心と取り組みが必要なのだ。ま、もっと猥雑に、大衆食堂的に、ってことになるか。

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2017/10/09

スペクテイター40号「カレー・カルチャー」。

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最近発売の『スペクテイターspectator』40号「カレー・カルチャー」(発行=エディトリアル・デパートメント、発売=幻冬社)は、充実した内容で、息をつめて読んだのちためいきが出るほどよかった。

飲食や食べ物をテーマにした雑誌や本がハンランするなかで、ひさしぶりに、いい本と出合った気分だ。

おれも「カレーショップは現代の大衆食堂である」という一文を寄稿しているわけだけど、そのことを抜きに、絶賛したい。だけど、全体の構成のなかで、おれの文章もじつにおさまりがよい働きをしている。

やはり編集力というものが、ちがうのだ。

おれのテーマを担当した編集者は、赤田祐一さんだ。以前、赤田さんが編集長の「dankaiパンチ」に何度か寄稿したことがあるが、直接赤田さんと仕事をやるのは初めてだった。

なにしろ有名な編集者だから、どんな方かと興味津々だったが、確かに、最初の打ち合わせのときから、これまで会ったことのある編集者とちがった。

という話はともかく、おれがこの本を「いい本」というワケは、俯瞰的視野と多角的視点で構成され、「私語り」の語りの形式や言葉でなく、つまり編集者や著者の嗜好や価値観や世界観ではなく、いま「カレー・カルチャー」はこんなアンバイなんだよと対象に肉薄していることだ。しかも、表現が、漫画も盛りこみ、多様。

まさにスペクテイターの見方。スペクテイターならではの、これこそサブカルチャー、というオリジナリティがある。

そうなのだ、ちかごろの飲食や食べ物をテーマにした本や雑誌がツマラナイのは、編集や著者のオリジナリティがなく(オリジナリティは編集手法と表現手法ぐらい)、いつも既視感が漂っていて、ああまたね、だからなのだ。お互いに「ああまたね」のアンシン感で成り立っている。おれが書いたものも、そんな風に読まれているのだろうなあとおもうと、あまり気持のよいものではない。

この本は、食べ物と人、食べ物と人と人の関わりを掘り下げていて、カレー好きでなくても、現代と現代の生き方を知るおもしろさがある。とくに、「分断」がいわれる社会で、それを深めたり固定化するのではなく(たいがいの飲食や食べ物の本は、たこつぼの視野とたこつぼの視点で、こちらに巻き込まれている)、多文化が混ざりあいおもしろいことを生み出していく力を感じる(カレーがまさにそう)。

閉塞から抜け出し、解放的で可能性豊かな人生を考えるのによい。なんだか、カレーは食べたくなるし、カレーを作りたくなるし、カレーを食べたときのように得体のしれないエナジーが身体の芯からわいてくるのだ。

もくじを見よう。

なぜカレーについてこれほど熱くなるのか? ←コラム
カレーの歴史をたどる ←年表
インド&カレーのAtoZ

大阪スパイスカレー誕生秘話 南インド料理こそ「真」のインド料理? ←文・森好宏(宮城県仙台「あちゃーる」店主)漫画:UJT

カレーの国のエクソダス ←取材・撮影・文:三田正明

   タバ・クニタチ(東京都国立市)
   店主・須田竜
   食堂のおっちゃんになりたいんです

   虎子食堂・カレー屋まーくん(東京都渋谷)
   店主・まーくん
   混ぜるな危険!
   当店のカレーはまぜないでください

   妄想カレー ネグラ(東京都杉並区)
   店主・大澤思郎&近藤麻衣子
   カレーは作るのが楽しい人が
   作ればいいと思うんで

潜入「カレー事情聴取」 ←漫画:清本一毅
漂流社、カレー屋はじめました ←漫画:川崎昌平

個性派カレー店主たちは、どんなことを考えているのか? ←取材・撮影・文:編集部(赤田)

   beet eat(東京都世田谷区)
   店主・竹林久仁子
   「ジビエカレーを提案するということ」

   JAY(山形市)
   店主・由利三
   「私はインド料理に生かされているだけ」

   愛のカレー研究所(秋田市)
   店主・村上祐子
   「結局カレーは人に喜んでもらうための手段の一つに過ぎないんです」

博士のカレー ←漫画:関根美有

デリー発、イミズスタン行き 富山カレートリップ ←取材・文:ワダヨシ+和田侑子

カレーショップは現代の大衆食堂である ←文:遠藤哲夫

レトルトカレーは何を食べたらいいか? ←語り手:カレーの島田 聞き手:パリッコ 構成:編集部

いじょう。

赤田さんからの最初の依頼は「カレーショップは現代の大衆食堂である」ではなく、「カレーショップは現代の大衆食堂か?」で、「か?」がついていた。そのまま原稿を書いて送り、見出しはこのようになった。

「論考」にしてくれといわれ、このテーマで論考とは、ずいぶんややこしい難しい注文だなあとおもった。

だけど、このライターにこういう企画やテーマをぶつけてみたら、どんなことを書いてくれるのだろうか、とか、なにか出てくるんではないかという、スリリングな期待での原稿依頼というのは、ほとんどないなかで、これはなかなかおもしろい編集者だし、おもしろい仕事だとおもった。

たいがい、食べ物や店や人や場所などの素材があって、書いている。しかも、このライターならアンシンという、無難でラクな選択ばかりが多いなかだ。取材や書く緊張はあっても、素材あってのことだねで、最初から頼りになる素材が選ばれている。

そういうことにならされた脳ミソは、しばらく悩んだ。しかも、論考で、エッセイに逃げることができない。とはいえ、最後はエッセイ風で締めたのだけどね。

とにかく、テーマがテーマだから、料理論や味覚論から離れ、ぶっかけめし論をやりたくなるのもガマンし、さまざまな資料を用いて、大衆と大衆食といわれるカレーの成立期を食堂史のなかに位置づけることをした。

8000字の原稿。

赤田さんと何度かメールのやりとりがあって、その内容も濃く、ひさしぶりに充実した仕事だった。

しかし、考えてみると、中堅クラスから上の出版社では、こういう仕事はできないし、だいいち赤田さんのような編集者がいる場所もないのだからねえ。

この本、1000円は安い。気取らない着飾らない表現で、ぐいぐい対象に迫る、その力強さとカレーカルチャーの真実にふれてほしい。

登場する方が、求道家のような方から、音楽論のようなカレーと人生、あるいは「食堂のおっちゃんになりたいんです」の須田竜さんなど、みなさんスリリングなカレー人生で、人間宇宙はおもしろいなあ、もっと自由に解放的やろうという気になるのだった。

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2017/10/04

東京新聞「大衆食堂ランチ」59回目、横浜・埼玉屋食堂(カレーライス)。

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毎月第三金曜日連載、東京新聞の『エンテツさんの大衆食堂ランチ』の先月分は9月15日の掲載だった。すでに東京新聞のWebサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2017091502000161.html

本文は、この連載のなかでも最も食べ物から離れた内容といえるかも知れない。あるいは、大衆食堂というものを、単純明快に示しているともいえる。

編集さんがつけたタイトルは『安い・うまい・早い』で、やはり、このコラムの性格からすると食べ物でなくてはならないし、それが当然だろう。たいがいの読者は、食堂の紹介というと、食べ物はどうか、という関心の持ち方をする。

それはまあ、食べ物がマズければどうしようもないだろうが、長年土地に根をはった食堂がまずかろうはずはない。ということが一般論としていえる。

そこをさらに「うまさ」の細かな違いなどをチェックするということが、ないわけではないが、それが店の特徴になるとはかぎらない。また、細かくチェックしながら食べ歩き較べる対象にするのは、大衆食堂に対して筋違いという感じもある。

とにかく、店の持つ「物語性」が大きな特徴になることがある、今回はそこを、いままでになくクローズアップした。

店の場所が、三大寄せ場の一つといわれる寿町の近くであること、そういう立地ならではだろう、店内には日本全国ブロックごとの地図が貼ってあり、『久しぶりに故郷に帰ってみたくなりましたか?故郷に印をつけてみよう~』と、フェルトペンがさがっていることなど。大衆食堂のひとつの原風景を見るおもいがした。

本文に書いたように、おれはその写真を撮ってきたので、新聞には載せられなかったが、ここに載せておこう。

それから、横浜にありながら店名に「埼玉」がついている。これは出身地を店名にする、大衆食堂の一つの傾向だったといえるが、店内の地図と合わせて、「地縁」と「ふるさと感」な店だともいえる。そういう意味では、大衆食堂は「保守」なのだ。

そして、お店の方は、あかるくほがらかで、遠く故郷を離れて暮らしている人たちに「ふるさと」のプラスイメージを感じさせてくれるに違いないとおもわれた。

「埼玉屋」や「埼玉家」がつく店は、けっこうある。たいがい飲食関係だ。ション横、東十条、浅草橋の酒場がすぐ思いうかぶ。

山谷には埼玉屋という食堂があった。山谷の埼玉屋は木賃宿の埼玉屋の一角で営業していたのだが、このあたりで最も高いクラスの食堂だった。たしか2000円ぐらいの定食があった。1990年頃だけど。

山谷のドヤ暮らしの職人は、職種によって日当がだいぶ違った。それぞれの収入に応じて食べるものが違うという社会は、山谷にもあてはまるのだ。山谷で2000円の定食が最高クラスだとしたら、いろは商店街の店でトレーに盛っためしに魚の煮たのか焼いたのを一切れのっけてもらった食事で200円から300円だった。

山谷は、すっかり様変わりして、埼玉屋は立派なビルのビジネスホテルになり、いろは商店街にあふれていた職人はわずかになった。

ところで、埼玉屋食堂でカレーライスを頼んだのは、たまたまカレーライスがらみの論考原稿を仕上げたばかりだったからだ。「スパイスカレー」がリードするカレーライスがブームで、この流れはなかなか興味深いのだが、『近頃はカレーがブームだが、話題になるのは1000円以上するスパイシーなカレーばかり』であるからして、昔から大衆食堂の定番だったカレーライスを忘れるんじゃねえよ、カレーライスは大衆食堂から広がったといえるぐらいなんだよ、というココロなのだ。

じつは、埼玉屋食堂は、メニューが豊富で、どれも安くてうまい。いろいろ食べて飲んで、勘定のとき告げられた金額が、想定外に安くて聞き直したほどだった。

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2017/10/03

『画家のノート 四月と十月』37号と「理解フノー」。

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美術同人誌『四月と十月』37号(2017年10月号)が届いた。おれの連載「理解フノー」は、19回目で、お題は「バブルの頃② 見栄」だ。

「バブルの頃」は、前回の「錯覚」に続いて2回目、次回「崩壊」まで3回連続の予定で書いている。

「今回はバブルの頃の上っ面を、流行現象を中心にふりかえってみたい」として、手元にある3冊の本を取り上げた。

「いずれも当時よく売れた本だ。『見栄講座 ミーハーのための戦略と展開』は、小学館から一九八三年十一月発行、ホイチョイプロダクション作品で馬場康男=作・松田充信=絵。『金魂巻(きんこんかん)』は、主婦の友社から一九八四年七月の発行。渡辺和博とタラコプロダクションの作品で、「現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造」というものだ。この本から「まる金」「まるビ」という言い方がはやった。もう一冊は、バブルの最中に「オヤジギャル」などの流行語を生んだ中尊寺ゆつこによるコミック『お嬢だん』で、双葉社から一九八九年七月の発行。『お嬢だん』以外は、「バブル景気」以前の発行だが、まるでバブル期の流行現象を見とおしていたかのような内容だ」

引用が長くなって、あまり解説風のものが書けなかったが、じつは、読めば、1980年前後から、日本人の間とくに「中」から上のクラス(あるいは「上昇志向」のクラス)に広く共有されていった、「語りの形式」と「言葉」が見えてくるのだ。

バブルの頃は、調子にのると人(日本人}はこうなる、という事例集のようなものだったが、そこにある語りの形式と言葉は、バブル前からあったのであり、バブル崩壊後も続いている。

そして、「失われた20年」なんてことがいわれているが、いつだって、いい調子の有頂天の人たちはいる。「みんな一緒によくなったり悪くなったりしようね」という構造は70年代で終わっているわけで、そこには、80年代から共通する語りと言葉が見られる。

おれが、その「語りの形式と言葉」に興味が湧いたのは、ツイッターやフェイスブックのおかげだった。ツイッターとフェイスブックでは、そのあらわれかたが異なるが、語りの形式と言葉が「共有」される構造は同じようだ。と気がついた。もちろん、そういうことに気づくヒントをあたえてくれた人がいる。

ってことで、タイトルは「見栄」にしたが、日本人の「見栄」にはいろいろなことが含まれている。本文の引用にも「ハク」という言葉が出てくる。ハクをつけるの「ハク」だ。見栄やハクの背後には、自己愛とはちがう「自分愛」がある。

3人寄れば、誰がイチバン偉いかを気にする。調子にのればのるほど、それが気になる。こういう傾向は、けっこうマンエンしている。そして、いらざる「質」の「向上」にこだわり、クリエイティブな仕事が上げ底のように持ち上げられ、ルーティンの仕事や労働者は見下され、石を投げれば大学院卒にあたるといわれるほど高学歴化した。

「見栄」は、80年代以後の「高度」消費社会をつくり上げてきたエネルギーなのだ。

それはそうと、今号の表紙は、作村裕介さん。画家であり左官である彼が描いた鏝絵、ではなく、仕事で履き潰した靴下の、力強い絵だ。

作村さんは、「表紙の作品について」に、こう書いている。

鏝で描こうと「いざ鏝を握り壁に向き合っても何も出てこない。僕は左官の技巧的なものよりも、肉体労働に魅了されているんだ」「身体が擦り切れる様な肉体労働が「生きてる」感じがする」

かっこいい。こういう語りと言葉が載る『四月と十月』も、かっこいい。

新連載が、一気に4つ。佐々木秀夫さんの「美術と復興」、佐野由佳さんの「建築家」、ハルカナカムラさんの「お風呂」、加賀谷真二さんの「野球」。

同人のみなさんの「アトリエから」はもちろん、ますます充実で、読みごたえがある。

四月と十月の詳細はこちら。
http://4-10.sub.jp/

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