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2017/10/20

そんな生活がしたいだけです。

「スペクテイター」40号「カレー・カルチャー」特集に、おれ、じゃない、ボクが寄稿した「カレーショップは現代の大衆食堂である」を読んだ国際詐欺師のけんじが、フェイスブックに感想を投稿していた。

けんじは、フェイスブックをブログがわりに使って、毎日のようにゲロ文を吐いている。多いときは、日に二回も吐く。ほんとうは禁煙日記のために始めたのだが、たばこのことは思い出したように書くだけだ。

けんじは詐欺師だけあって、昔からなかなか機知に富んだ文を書く。つまり、虚実のあいだを巧みにあやつる。

おれ、じゃない、ボクにとって都合のよいところだけ、引用しよう。これは、公開になっている文の、ごく一部だ。

「遠藤哲夫先生の論文は、まあ長い長い、とにかくクドイ長い。何ががいいたいんだ、このクソ爺と思ったが、最後まで一気に読んで、最後の一文にたどり着いたところで、ドカンときました。先生の策略の穴に落ちてしまいました」

「最後の一文は、いやあ名文句です。前触れもなく来る。飾ることなく、さりげなくズシンとくる。一度読んで、ビクんときたら、多分一生忘れないでしょう。鈍感な君らにはわかるまいが」

この最後の一文とは、こういうものだ。

「じつは、カレーショップもそうだが、若い新しいスタイルの小規模の食堂経営はあちこちに生まれている。小規模ならではの可能性があるし、街角の飲食生業店はまちの活力であるが、なにより、簡便で安くてうまいものがある日常は、つくる人も食べる人も含め大衆の生きる希望をささえる文化であるのだ。」

これで、「カレーショップは現代の大衆食堂である」の最後を〆ている。

けんじは、「貧困に喘ぐ国、諍いの絶えない国は、庶民は命懸けで食べている。危険と背中合わせに、生きるために食べるしかない。必死に食べる」とも書いている。

つい最近も、そのあたりへ行って来たばかりのようだが、これは、かれが詐欺を働きに外国へ行って、実際に現場で見ていることなのだ。だから、かなり鈍感なかれも、最後の一文に「ビクん」ときたわけだ。

かれは、こうもおもう。

「我々大衆は、作る人も食べる人も明日を信じて安くて美味いものを喰う。生きる希望があるから、まだ先の人生があるから喰う。幸せが向こうにあると思うから喰う。こうやって大衆の文化が作られていくのだ」

「幸せな大衆文化を淘汰させないため、明日の希望がある限り、その魂の火を燃やし続けるには大衆が作る大衆食を大衆が食べるのだ」

「安くて美味い物がそこにある日常が、大衆の希望を支える文化なのだ」

これは大衆食の普通でありアタリマエだと思うが、スペシャルばかり追いかけてきた日本では、普通やアタリマエがなかなか適正に評価されない。まいどボクが強調するスタンダードの大切さのことだが。

「いいもの」「うまいもの」話にかこまれてすごしているうちに、よその国の貧困と比べなければ、このようなアタリマエの大切がわからなくなっている状況もあるようだ。

いまの日本は、この普通やアタリマエが難しくなっている。これは経済や貧困のこともあるが、上を向いてスペシャルばかり追いかける文化の問題でもあるだろう。ひとと同じではいけない、普通ではいけない、普通の暮らしがしたかったらスペシャルな能力を持つスペシャルな人間になれ、野暮はダメ洗練せよ、そんな抑圧が強すぎる。

先日、ツイッターに、こんな投稿があった。

みなみ 海‏ @cocoro_zasi

私達は、壮大な贅沢を望んでいる訳ではない。住む所があって、ご飯が食べれて、それを作る心身の余裕も持てて、疲れたら休みが保障されていて、気兼ねなく病院に行けて、季節の服を選んで、友人とも時々は遊んで、家族があってもなくても、笑って、映画観て泣いて…ただそんな生活がしたいだけです。

0:02 - 2017年10月15日
https://twitter.com/cocoro_zasi/status/919216865020329984

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