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2017/12/21

ライター稼業にとって「丁寧」な仕事とは。

今年は、エッセイではなく「論考」でと頼まれた原稿が二つあって、一つはスペクテイター40号『カレー・カルチャー』に寄稿の「カレーショップは現代の大衆食堂である」で、 もう一つは、今月26日発行予定の、『ユリイカ』2018年1月臨時増刊号「総特集=遠藤賢司」に寄稿の「遠藤賢司と大衆めし 「カレーライス」から」というものだ。

どちらも少しエッセイに逃げているところがあるが、「論考」は「堅めのエッセイ」でも許容範囲のようで、そのへんに甘えた。

やってみて気がついたが、歴史認識や社会認識というのは、たえず学び返していないと、いつのまにか正確さを欠いて、「大河ドラマ」ていどの認識になっているということだ。誰でも世間の風潮に流されやすい環境にある。

今回は、どちらも第一次世界大戦前後からの日本の歴史と社会が関係したので、調べ直しながら、そのあたりを痛感した。

『ユリイカ』の原稿は、本当は、国会図書館まで行って調べたら、さらに興味深いところがわかるはずのことがあったが、時間もなく、もっと日ごろから歴史と社会については積み重ねておくべきだなと、反省もあった。

世間では「丁寧」な仕事が尊ばれている。では、ライター稼業にとって「丁寧」な仕事とは、どういうことか。

人様の丁寧な仕事を取材して書いていれば、自分も丁寧な仕事をしていると錯覚しがちだが、ライターとしての丁寧な仕事とは何かと問われたら、できるだけ正確な歴史認識と社会認識を持ち続け、そこに一つ一つのことを位置づけていく作業だろう。これは「書く」作業以前のことだ。そこに自ずと批評も芽生えていく。その作業を、毎回、毎回、繰り返すしかない。

そうしないと、しだいに自分を合理化することが中心になり、認識がズレていく。おれよりはるかに知識もあり、世間的評価も高い人たちが、目と耳を疑うような独善的なことを述べるようになるのは、そんな事情があるようだ。

また、たとえば、五十嵐泰正さんが池波正太郎の作品を取り上げながら、「池波正太郎の「下町」」や「グローバル化の中の「下町」」を書いているが、書かれた小説やエッセイは小説やエッセイとして評価されるだけではなく、いろいろに評価されることになる。

近ごろは、「作品」でなくても一つの「言葉」が、状況や立場や角度によって、いろいろな意味を持ち、そのことから誤解や誤った共感が、たちまち広がる。

そんななかで、ライターとしては、どんな「丁寧」な仕事をすべきかということも課題になっているわけだ。

といったことを、あらためて感じた。

とにかく、というわけで、第一次世界大戦前後からの日本の歴史と社会について、あれこれ調べてオベンキョウをした。ゲップがでるほどだが、これは続くのだ。

「第一次世界大戦前後からの日本の歴史と社会」というが、日本だけのことではすまない。けっきょく、カレーライス一つとっても、世界と日本なのだ。

来年は、ちょうど第一次世界大戦の終結から100年で、日本で「モダン」や「モダニズム」といわれるのは、この大正期から勃興した。

「大衆」の誕生も、この時代が背景になっている。また、いわゆる「郷土料理」をこえる「和洋中」の料理の概念と、茶道や懐石を中心とする「和」思想が権威として再生され力をつけていく。このあたりは、昨今のグローバル化とローカルの関係にも似ている。

日本が「ポストモダン」をうまくやれないで、混迷が続いているのは、日本が戦勝国側に位置した第一次世界大戦にまでさかのぼって検討しなくてはならない問題があるのかもしれない。

そのあたりは、そのうち専門家がやってくれるだろうけど、一介のフリーライターとしては、扱う一つ一つを、なるべく正確に歴史と社会に位置づけられるよう、こつこつ事実を積み上げるしかない。


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