« 『ユリイカ』1月臨時増刊号、遠藤賢司と大衆めし――「カレーライス」から | トップページ | 「四月と十月文庫をおおいに語る」トーク、盛況御礼。 »

2018/01/07

第一次世界大戦と「懐石とナショナリズム」や「黄色い本」。

「懐石とナショナリズム」は、近ごろ「相撲とナショナリズム」という言葉を見かけるので、それにあやかってみた。いやあ、2020年東京オリンピックに向かってますますイケイケの「おもてなし」の言動を眺めていると、「懐石とナショナリズム」もなかなかのものだ。

「黄色い本」は、最近読んだ、高野文子の『黄色い本』(講談社)のなかの「黄色い本」のことだ。

どちらも、第一次世界大戦とその後の世界と日本が関係する。ということに、いまハマっていて、あれこれ読んだり見たりしている。

2018年というと、ツイッターでも「マルクス生誕200年、明治維新150年、米騒動100年」などが喧伝されているが、「第一次世界大戦終結から100年」は見かけない。

そのへんからして、近代日本を考えるうえでの大きな欠落があるように感じていて、それはもちろん食文化や大衆食にも関係することだ。

だいたい、大衆食堂や大衆食の成り立ちは、第一次世界大戦と大いに関係があるにも関わらず、おれは自分の著書では、そのことにふれてない。第一次世界大戦は、まったく視野に入っていなかったといってよいほどだったのだなあ。

当ブログ、2017/12/21「ライター稼業にとって「丁寧」な仕事とは。」でも、書いている。

第一次世界大戦のことで思い出したのは、レマルクの『西部戦線異状なし』であり、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』だった。

『西部戦線異状なし』は高校生のとき読み、『チボー家の人々』は高校卒業したばかりのころ読んだ。ずいぶん昔のことだ。

高野文子の「黄色い本」には、「ジャック・チボーという名の友人」という副題がついている。

あまりあてにならないウィキペディアには、「「黄色い本」(1999年)は、青年誌『月刊アフタヌーン』に掲載された72頁の読み切り作品である。雪国を舞台に、作者と同世代の少女が学校に通いながら5巻本の『チボー家の人々』をゆっくりと読み進めていく様を描いたもので、執筆開始から完成まで3年の月日が費やされている」とある。

おれが『チボー家の人々』を知ったのは、『西部戦線異状なし』を読んだころだった。

おれには母の姉の娘である6歳上の従姉がいて、彼女は父親とは生き別れ母親とは死に別れで、戸籍上は母の母の娘(つまりおれの母の妹)となり、実際はおれの家で一緒に姉弟のように育ったのだが、彼女の恋人のち結婚相手が、この本を持っていた。これを、おれは大学合格祝いにせしめ、その春に読んだのだった。

全5冊、黄色い表紙にパラフィン紙のカバーがされ、灰色の薄いボール紙の箱に入っていた。

このあいだ第一次世界大戦を調べていたら、クレマンソーやポアンカレが出てきて、おおこの名前は聞いたことがあるぞ、『チボー家の人々』によく登場していたなと、この本を思い出したのだった。

しかし、もう一度読みかえす気はしない。なにしろ、全5冊のうえ、2段組みだった。

読みかえす気はしないが、ほとんど忘れている内容を少しは思い出したいと調べていると、「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」にゆきあたったのだ。

ジャックのことは、もちろん覚えている。そうそう、かれは「インターナショナリスト」になったのだった。

「インターナショナリスト」と「ナショナリスト」の観念が育ったのは、第一次世界大戦が契機だった。第一次世界大戦の西部戦線で戦った国々と、その戦場から遠く離れていて、しかも後進国の出自を抱えながら戦勝国になった日本では、「インターナショナリズム」と「ナショナリズム」の育ち方は、かなりちがっているようだ。

そこに、前にも少し書いたが、懐石(と茶道)が関係する。このへんは、いまのところあるていど根拠のある「仮説」ていどで、「懐石とナショナリズム」ということでは、大衆的レベルで大活躍し多筆だった辻嘉一の本を読みあさっているところ。

「食育」やユネスコ無形文化遺産の「和食」でうるさくいわれた「一汁三菜」だが、近ごろは「一汁一菜」ということを言い出す料理の先生もいて、「一汁一菜でいいんだよ」という話だけならよいのに、しかし、どちらも「日本料理の頂点、懐石料理の原点」を持ちだし、その背後には「日本の精神」やら「日本の美」やらが、あやしくたちこめている。

「一汁一菜」を持ちだした料理の先生は、先代から「家庭料理」を謳っていたのであり、いまさら懐石の概念ではないだろうと思うのだが、やはり、懐石を錦の御旗にしないとダメな事情でもあるのか。

「一汁三菜」に対し「一汁一菜」の構図を、うがった下衆な見方でたのしんでながむれば、そこには昔から繰り返されている日本料理の頂点をめざす派閥争いや、関西料理の京都対大阪の遺恨?あるいは、ホレ服部さんの跡ねらいか、と、いろいろおもしろや。

2020年東京オリンピックめざして、育ちの悪かったナショナリズムとインターナショナリズムが、いろいろな分野でしのぎを削り、まだまだこうるさいことになりそうだ。改憲論議もあるしなあ。

ま、時流に流されず、じっくり、第一次世界大戦のころから掘りかえしていこう。

話がそれたのかそれてないのかわからなくなったから、このへんでオシマイ。

|

« 『ユリイカ』1月臨時増刊号、遠藤賢司と大衆めし――「カレーライス」から | トップページ | 「四月と十月文庫をおおいに語る」トーク、盛況御礼。 »