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2018/02/20

「作品」という「症例」。

「作品」のことを「症例」といったのは、たしかナンシー関だったと思う。

あるいは「作品」を「症例」として見ることについてだったかも知れないが。

とくにエッセイや批評のたぐいは、症例として見た方が、はるかに理解がすすむような気がする。

小説もそうだな。

論文や論評や論考のたぐいは、もう症例そのものだ。

「作品」だとエラそうにしている「作品」などは、「症例」そのものだ。

人間のなすこと、すべて「症例」として見た方がわかりやすい。

もちろん、このブログに書いていることは、すべて「症例」だ。

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2018/02/18

「右と左」。

昨日「いまの日本じゃ「おれはおれでちゃんとやってきた」ぐらいじゃ、評価されないのさ」と書いたが、正確にいえば、「おれはおれでちゃんとやってきた」を評価する力があまり育っていないというのが、より現実に近いと思う。

全体的包括的視野と分析力に関わることだろうが、根底には消費主義に侵された消費文化の存在があり、権勢力のある消費主義的な言説に左右されやすい状態が続いていることが関係している、と、おれは「分析的」に考えている。

消費主義は、より高い意識の「正」の方を向いているだけで、「正」と表裏の関係にある「負」は、見ようとしない、視野に入れないか、否定や排除だ。

東電原発事故に端を発した「放射能と食」をめぐる動きや発言を眺めていて、ますますそういう考えを強くしている。

いま「放射能と食」をめぐる問題を考えるとき、1980年代からの消費主義の浸透がどういうものだったかは、一つの視点として必要だと思う。

自殺者まで出した「鳥インフル騒動」はなんだったのか、それから「BSE騒動」など、そこにある流れが「放射能問題」にもつながっている。と見るのは、食文化の視点からは、必要なことだろう。

それから、飲食をめぐる、消費文化の視点、生産文化(流通も含め)の視点、生活文化の視点を考えると、なんにつけ、消費文化の視点と生産文化の視点に傾斜しすぎているように思う。

ということではなかった、今日のタイトルは。

「右と左」というのは、四月と十月文庫『理解フノー』のなかにもあるタイトルだが、「放射能と食」をめぐっても、「右と左」というぐあいにわけて見る傾向が強い。それを「切り口」に全体像を探ろうということならまだしも、「放射能」や「食」を政治的なレイヤーで見て、そこで激突している。

ややこしいことに、そこに「右でも左でもない」という、もう一つの「正しい極論」が存在する。「右でも左でもない」ということで、自分は客観的で正しいとする。

しかし、現代において、「右と左」に分別して見ることに、どれほどの意味があるだろう。

もともと、「右翼」とか「左翼」とか「中道」とかは観念的な分類にすぎない。

そもそも、「右」を理解しているのか、「左」を理解しているのか。「中立」や「客観」ってなんだ。

だいたい、「放射能と食」は、政治的なレイヤーだけの問題じゃないだろう。

これだけ飲食の話があふれているのに。

今日のかんじんなことは、これだ。

五十嵐泰正さんの新刊が、中公新書から発売になる。『原発事故と「食」 市場・コミュニケーション・差別』。

去年、いつだったかな、お会いしたときに、いろいろ話を聞いて、おもしろそう~と思っていた。

中公新書の案内によれば。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/02/102474.html

農水産物の一大供給地であった福島は、3・11以後、現在にいたるまで、「デマ」や風評が飛び交い、苦しい状況に追い込まれている。一方で、原発事故と震災の忘却は着実に進行している。本書は、流通や市場の課題、消費者とのコミュニケーション、差別の問題などから、「食」について多面的に論じる。「食」を通して、あの事故がもたらした分断を乗り越えられるのか――。これからの社会を考える試み。

ということだ。

2月22日発売。

大いに期待。


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2018/02/17

おれはおれでちゃんとやってきた。

「おれはおれでちゃんとやってきた。仕事のことだがな」
酒場のあるじがいうのだ。
「ここにはここの商売のやり方があるのさ。東京の一等地で成功しているからといって、ここでうまくやれるとはかぎらないぜ。商売ってのは、そういうもんだろ」

彼は、ある雑誌の記事が気にくわない。
「ここらあたりじゃ、仕入れられるものも限られる。赤字になるほど金を出せば別だが、それは商売とはいわないだろ。商売度外視で、いいものだけ仕入れるなんてありえないよ。そうだろ。商売度外視でいいものを仕入れるのが職人魂だなんて、どこの世界のことだい。その職人魂より、うちは悪い商売をしているというのかい」

「だいたいさ、どこどこのだれそれさんが作った材料を使っていれば、うまくて良心的で真面目な店だってことは、普通に流通しているものを使っている店の立場は、どうなるの。ダメな店か。そういうことだろ」

いや、そういうことじゃないと思うが、そういう風潮もあるな、いまの日本じゃ「おれはおれでちゃんとやってきた」ぐらいじゃ、評価されないのさ。おれはそう思いながら、黙って聞いていた。

自分の書いているものは、どうだろうか、と考えた。

ときどき、同じような場面にぶつかる。

「うちには、何もないよ」

半世紀も飲食店を続けてきた彼がそう思うようになったのは、なぜか考える。

メディアとそれに関わる者の責任が少なからずあるだろう。

おれはおれでちゃんとやってきたささやかな人生を「何もないよ」にしてしまう驕りがないとはいえない。

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2018/02/14

オムライスの考え方と作り方と食べ方。

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上。ガスコンロは二つ使う。800円。

下。ガスコンロは一つだけ。650円。

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2018/02/13

「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」

このタイトルは、ネットの記事で、近年まれに見る面白さだった。
https://www.lifehacker.jp/2018/02/cheaper-coffee-will-make-you-happier.html?utm_source=twitter&utm_medium=feed&utm_campaign=99f5cd80711c862299cd5280e55ff06d

原文はLifehacker USに載った、Nick Douglasという人の文章だ。

こういう話が、日本でも広く行われるようになると、飲食をめぐる言説は、もっと自由で可能性があって面白いものになると思う。

ここでわりととカンジンなことは、「コーヒーの場合、お金持ちでなくても最高級品を1度や2度楽しむぐらいのゆとりは誰にでもあります。なので上質なものの良さを知り、それを毎日求めてしまうようになりがちです」という指摘があることだろう。

この言説を体験的に十分納得するには、「上質なものの良さ」も楽しんでみたほうがよい、と、Nick Douglas氏は主張しているわけじゃないが、そこは考慮に入れておく必要があると思う。

「ダウングレードしたからといって、生活がみじめになるわけではありません。むしろその逆です。気にかけるものが少なくなるほど、本当に気にかけているものにお金を使う余裕が増えるのです。すべてにおいて趣味が良い人なんていませんし、そんな生活を目指すべきでもありません。かなりのお金持ちでもない限り、ひたすら支払いに追われる毎日を送ることになるからです。そんな人生は悲惨ですよね。」

ま、ひたすら支払いに追われる毎日になるまで凝るのは大変なことだと思うが、そこまでいかなくても、金や時間や関心や注意などが、そういうことにふりまわされる人生あるいは飲食は幸せなことだろうかと考えてみる必要はあるだろう。

これを読んで思い出したのだが。

味覚も含め、感覚に鋭敏であることや繊細であることが、とかく持ち上げられ、「鈍感」や「鈍い」ことは蔑まされる。

だけど、すべてにおいて鋭敏で、すべてにおいて鈍感なということは、ありえない。

だいたい、自分は繊細で趣味がよいと思っているらしい人が、自分と同じと認められない人を「鈍い」だの「鈍感」だのと見下す場面がツイッターなどでもよくあるけど、それって、鈍感じゃないのと思う。

あることには繊細で、あることには鈍感、というのが普通で、それは性格もあるだろうし、好みや関心や思想の持ち方なども関係する。個性であって、上下優劣善悪など関係ないのだ。

グレードだの趣味のよしあしは、酒などの嗜好品でも話題になりやすいが、そういうことで自己の優越感を得たり承認要求を満たしたいという傾向も見られるし、それを煽る傾向もある。

この部分は、なかなか痛烈だ。

「何かをダウングレードすることで、現在文化的にデフォルトになっている「アップグレード・モデル」への抵抗力が鍛えられ、意志の力が養われるのです。」

あと、アメリカと日本では、「ランク」「ランキング」の概念というか利用の仕方が違うということも読み取れる。

要は自分の哲学を持つということだろう。

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2018/02/12

虚しい「話題づくり」。

「ま、政府が旗を振るほうへついていればまちがいないし、それに、一見すると、「ものづくり日本」は正しそうだ、ということで、空虚な「ものづくり日本」伝説は続いている。もうだいぶメッキがはがれ批判も増えているが。」と書いたのは、2018/01/28「貧せざれば鈍す。」でだ。

そしたら、最近またメッキがはがれるようなことがあった。

「下町ボブスレー」の件だ。

ジャマイカ「不採用」 下町ボブスレー関係者に落胆広がる
2/6(火) 22:39配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180206-00010001-tokyomxv-soci
最終更新:2/6(火) 22:39
TOKYO MX

では、このように報じている。……………

 2011年に東京・大田区などの町工場が中心となって、世界に誇る技術を使い、国産のそりを造ろうと「下町ボブスレー」のプロジェクトが始まりました。

 そして2016年1月、ジャマイカ代表がテスト走行の末に「下町ボブスレー」の採用を決定し、オリンピックで使用するための契約を交わしました。

 ジャマイカ代表のジャズミン選手は2017年4月の会見で「下町ボブスレーを造っている大田区と日本の皆さんの協力で、五輪に向かって勝ち抜くだけでなく、新しい歴史をつくっていけることに興奮している」と語っていました。

 しかしジャマイカ代表は、平昌オリンピック開幕直前になって「ラトビア製のそりの方が良いタイムが出る」として「下町ボブスレー」を使わないと連絡してきたのです。

……………

TOKYO MXの報道はジャマイカに非があるようなニュアンスが見られるが、ようするに、契約のことがあったとしても、最終的に性能が問題でラトビア製が採用されたらしい。

このプロジェクトでは、なにかとお騒がせな安倍首相も一役かっていたことから、ツイッターでは、いろいろに取り沙汰されて、問題の核心がどのあたりにあるのか、わかりにくい。

とにかく、NHKが2014年に「下町ボブスレー」のテレビドラマまで作って放映するなど、「話題づくり」が先行していただけに、この結末はセツナイ。

「ものづくり」は、ものをつくる方法や技術がものをいうのであり、「話題づくり」が盛り上がれば成功するというものではないことぐらい、誰でも知っているはずだ。だけど、ただ話題になりさえすればよい、という人たちがいるのも確かだ。

日本の製造業が問題を抱えていて、それを何とかしなくてはならないのだが、1999年の「ものづくり基盤技術振興基本法」以来、「ものづくり」が盛んにいわれるようになってからとくに、「日本人気質作興運動」のようなことに傾斜しているように見える。

「ものづくり」は「大和言葉」であるとか、「日本人気質」たとえば「日本人の特徴として、もうひとつ重要なことがひとつ。日本人は、美意識が高いということが上げられます。自分が作り上げるものがひとつの部品であっても、美しく作り上げればそこには満足感と充足感を覚える人種でもあるのです。部品とは限りませんが、ものづくりにもっとも必要なのは、多くの日本人がもともと持っている美意識のような気がします」というような主張も見られるが、「日本独自」の「職人気質」なるものが盛んに称賛されている。それが、日本人ほど器用で繊細な民族はいないといった話しにまでなっている。

そういう「話題」だけが、先行しているように見える。食育基本法制定後もそうだったが、政府がそういう法律を制定すると予算がつく。それにのっかる「話題づくり」の人びとがうごめく。「ものづくり」もそういう感じで、「ものづくり日本」を錦の御旗のようにふりまわし、自己宣伝に励むような人たちが跋扈しているわけだ。ま、これは「定番」の現象といえるけど。

しかし、「基盤技術振興」は、そういうことなのだろうか。

技術や方法は、つねに具体的な課題を抱えていて、具体的に解決されなければならない。それが、「日本人気質」「職人気質」のことに還元されてしまい、日本人の優秀さみたいな話しになる。あとは「がんばろう」だ。浮ついた「話題づくり」ばかりが多い。

もちろん「ものづくり日本大賞」みたいなもので、現場で努力されている方を応援する必要はあるだろうけど、「基盤技術」の課題と「伝統」だの「日本人気質」だのとは分けて考えなくてはならないと思う。

「話題づくり」にのっかり、予算を取りやすい話しや予算の動くところへ動く「論者」「識者」たちの話などは、用心して扱わなくてはならないと思う。とかく「日本人がもともと持っている美意識」の話などは、いい気分になりやすいものだ。

おれの周囲にも、「ものづくり」に熱心な技術者や、その製品を応援して、日本の産業基盤をなんとかしなくてはならないと働いている人もいるけど、現場の抱えている問題と「美意識」などの「話題づくり」とのギャップは激しい。

2018/02/02「方法よりツキ。」は、そのあたりのことが気になって書いた。

「下町ボブスレー」の実態は詳しく知らないが、現場と「話題づくり」のギャップが気になるところだ。

「地域創生」でも、同じようなことがある。

「話題づくり」の人たちと彼らがふりまくキレイゴトの話しばかりが注目され、その人たちは、こんなイベントをやった、こんなシンポジウムをやった、それがメディアでこんなふうに話題になったとよろこんでいるのであるが、当核事業は「激励」や「称賛」をいただいているだけで、現場の負担は解決しないということはめずらしくない。こうなるとあとはツキしかない。

時間と金はそういうところに使うのではなく、地味に現場を支えている人たちの課題の解決のために使うべきだと思うが、それがなかなかできないのはなぜなんだろう。

終わってみれば、「話題づくり」の人たちが得しているだけで、そして「話題づくり」の人たちは、注目されているネタのほうへ流れていく。

もういいかげん、そういうことはやめにできないか。「話題づくり」の人たちには用心しよう。

それはそうと、昨今のグローバルな技術の課題は、「職人気質」で対処するようなレベルではないと思う。そのあたりのギャップも激しい。トラクターを使った農業経営と盆栽づくりのちがいとギャップ以上のものがある。それを同じ感覚で語っているのだ。

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2018/02/10

ビジネス・ランチ。

最近、めずらしく、「ビジネス・ランチ」のお誘いを受けた。平たくいえば、昼めしを食べながら、オシゴトの話をしたいということだ。

昼食を食べながら仕事の報告や連絡や相談つまりホウレンソウや打ち合わせや交渉をやることは昔からあったと思う。「昼食接待」は夜の接待より金がかからなくてよいという考え方もあった。

それらを日本で「ビジネス・ランチ」とよぶようになったのは、いつのことだろう。

おれの経験では、70年代後半からで、80年代から盛んにこの言葉が使われるようになり、80年代後半のバブル景気の頃は、ボクはクールでデキル男だからね、という感じで「ビジネス・ランチ」が流行った。(もちろん、そういう女もいた)

とにかく、自由化と共に70年頃から欧米流のさまざまなビジネス・スタイルや方法が日本に流れ込み、日本も積極的に真似をするようになった、その一つではないかと思う。

ボブ・グリーンの『アメリカン・ビート2』(井上一馬・訳、河出書房新社)に、「ビジネス・ランチ」というコラムがある。この本の初版は1986年だが、アメリカの出版社のクレジットは1983年だ。

「トップ・クラスのビジネスの世界、あるいは大人の付き合いの世界で私が成功を収めることは絶対にないだろう」

なぜなら、「私にできないのは、ビジネス・ランチである」と、ボブ・グリーンは書いている。

「いまや「昼食をいっしょにしよう」という台詞は、アメリカのホワイト・カラーの日常生活における合言葉になっている」

だけどボブ・グリーンは「お昼でもいっしょに食べながらその件について話しませんか」と誘われると、なんだかんだ理由をつけて逃げるのだ。

1983年より前に、アメリカではそんなことになっていて、日本にも伝染したということが十分考えられる。

おれも1980年頃、アメリカのビジネスマンと二回ほど「ビジネス・ランチ」を食べたことがある。数人で一つのテーブルを囲んで、打ち合わせをやりながら食べた。そのときは、あちらはこちらへ出張してきていたので時間がないこともあった。

とにかく、相手が誰だろうと、ビジネス・ランチというやつは、「ランチ」つまり「食事」が犠牲になる。食った気がしない。最初から仕事だと思ってやるしかない。

「そういう日は、まる一日がだいなしになる」

ビジネス・ランチは、やらぬが吉だ。いいビジネス・チャンスを逃すかもしれないが。

だけど、おれも昔はビジネス・ランチを誘ったことがあるような気がする。接待をよろこんで受ける人がいるように、ビジネス・ランチをよろこんで受ける人もいた。

もちろん、誘われたこともけっこうあった。たいがい、ホテルや有名なレストランや料亭だった。

あらかじめ約束していたビジネス・ランチとはちがうが、チョイと情報がほしかったり相談ごとがあって、わざとアポなしに昼過ぎに立ち寄ると、昼めしがまだだからと連れて行かれることがあった。そういうときは、話しをはぐらかされてしまうことが多い。こちらもその手を使ったから、よくわかる。食事をしながらでは、突っ込んだ話がしにくい。アメリカのビジネスマンのばあいは、そういう「遠慮」はなかった感じだが。

ビジネス・ランチとは逆になるか。70年代の前半、よく雀荘でマージャンをやりながら昼めしを食べた。

一階が大衆食堂で2階が雀荘。経営者は同じ。昼は一階の食堂が混雑するので二階の雀荘の台に白いビニールをかけてテーブルに使って客をさばく。そこで、白いビニールをのけて、マージャンをやりながら食べた。「食事」が犠牲になる。

「寝食を忘れて」という言葉があるが、あの頃は、そんな感じでマージャンをしていた。酒を飲んで「寝食を忘れる」ことも多かったが。

「寝食を忘れて」好きな仕事に打ち込むことが美徳とされる向きもあるから、ビジネス・ランチも、そういうことならいいのだろうか。

でも、そっちはよくても、こっちまで巻き込むなということもある。

夜の飲食も同じで、何人かで楽しく酒を飲んでいると、いつでも仕事の態勢の人が、突然ノートを取り出して、こっちの言ったことをメモすることがある。そうまでしないと成功しないのかもしれないが、切ないことだ、やられたほうは白ける。

飲食をネタにしたライター稼業も、仕事と飲食のケジメがつきにくい。ライターになる前のプランナー稼業のときも、そうだった。どこで飲んだり食べたりしても、自分が担当する商品開発や店舗開発の目で見てしまったりする。しかも自分の飲食を犠牲にしていることに気がつかない。

そういうケジメのないことをしていて飲食について語るのはオカシイ感じもするのだが、世間では、それを「専門家」とみなして、あがめる。

ただ、飲食をめぐる「消費文化」と「生産(産業)文化」と「生活文化」のちがいは、見えやすい。

ここまで書いて思い出した。

バブル景気の頃は、「ランチ・ミーティング」なんてのも流行った。それから「朝食ミーティング」「ブレックファースト・ミーティング」なんてのもあった。名前からしてあけすけで、「ビジネス・ランチ」よりオソロシイ。しかも、これらは、かっこいいことに思われていた。

あの頃から飲食について何か迷走が始まり、その迷走が全面的になっているのかもしれない。

いいものいいことを持ち上げたり、めずらしいものを語る飲食の話は多いが、日常の平凡な食事はいろいろ難しい問題を抱えている。

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2018/02/05

「素敵なおっさん」は「野暮」な生き方のことなのだ。

パソコンのドキュメントファイルを整理していたら、4年ほど前に書いたテキストが見つかった。これは、長いこと1人で出版を続けてきた方の雑誌に寄稿したものだ。その方が高齢になり最後の雑誌を作るというので書いた。「素的なおっさん」というのは彼のことだが、その文章を適当にまとめ直し、タイトルはそのままに、彼以外にも通じるようにして、ここに掲載することにした。

その雑誌は、これから出るかどうかわからないが、出たら出たときに、出なかったらそれがはっきりしたときに、彼と出版のことについてはここに書きたいと思う。

近年は、よほどネタがないのか、出版社が身内ネタのような本屋や出版をテーマにし、「一人出版社」やZINEとやらを持ち上げ、オシャレなリトルプレスが話題になっている。そこでは、彼の存在など見向きもされないが、彼はそんなものが話題になる前から、働きながら資金を稼いで出版を続けてきた。その熱意、執念? エネルギー、すごいものがある。

彼の出版物は、時代や世間におもねたりしない、彼の生き方なのだ。

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 素敵なおっさんというのは、大衆食堂や大衆酒場のような男であり、横丁のような男だと思う。
 つまり、とても野暮な存在なんですよ。
 おれは近年、「野暮連」を掲げ、コツコツと野暮の増殖を画策してきた。ツイッターのアカウントは「entetsu_yabo」だ。
 野暮というと「粋」と対比されがちだし、「粋=オシャレ」「野暮=ヤボ」というのはヘンだと思うが、そのへんのことは話がややこしくなるから、やめておこう。

 そうそう、ついでだけど、近年何度か関西で仕事をさせてもらって気がついたのだが、関西の「粋」と東京の「粋」は、違いがあるようだ。一言でいえば、東京の「粋」は生活臭さを排除した非日常だけど、関西の場合は必ずしもそうではない。ま、この件を掘り下げていると長くなるから、やはり、やめておこう。

 野暮は、こんにちでは、あまりスマートではないがゆえに「負」の評価をされる傾向の、「雑」で「軽率」で「心意気」のある生き方、というのが、おれの考えだ。
 雑は、ときどき「鈍感」でもある。軽率や心意気は、ときどき「無鉄砲」でもある。そういうのが入り混じる野暮というのは、猥雑このうえない。大衆食堂や大衆酒場、横丁などでは、お馴染の景色だ。

 「オシャレな再開発」は、そんな野暮をトコトン排除してきた。町やひとから、雑で軽率で心意気あふれる関係や生き方を奪ってきた。結果、一見すると、都会は猥雑さの行き場を失っているようだ。
 猥雑さこそ都会の特徴であり、そのエネルギーの源だと思うのだが、年々、アートに文化的に澄ましこんでいる。
 
 スーパーマーケットの売場やスタバのような店やモールのように、いろいろな角度から計算された空間は、イベントとやらも駆使し、町やひとを「心地よく」型にはめこむ。不寛容そのもので、ちょっとの野暮も許容されない。
 それが「心地よい」空間ってことになる近頃のオシャレは、よほど「型」に飼いならされているのだろうか。オシャレに護岸工事が整った川を、水がよどむことなく流れ下るように人びとは過ごす。隅田川や淀川のように、さらさら音をたてることもなく、不気味な大量なカタマリとなって流れてゆく。それが、心地よいらしいのだ。

 義務化された笑顔の労働、小利口そうな気のきいたオシャベリやファッション、「繊細」と称する神経質な空間が広がっている。はみ出しものは、ただちに叩かれる。
 オシャレ化する通りからはベンチが無くなっている。あっても、寝転がることができない「不寛容ベンチ」のつくりだ。酔っ払って終電を逃しても、駅のベンチで寝ることもできなくなった。都会のあちこちでは、子育てや赤子を連れた女性に対する不寛容も広がっているようだ。
 そういう不寛容に一役買っている、近頃のアートや文化というのが、情けない。

 なんとまあ繊細で神経質で美しく、オシャレなことよ。泣き喚く子供などは殺されそうだ。汚れたものは人目のつかないところに圧殺される。駅近くの、ひと一人がやっと寝られるぐらいな空間も、なにやら造形されたアートで文化的なものがしつらえられ、ホームレスは排除される。

 オシャレなブックデザインなどは、労働者の汗まみれの指がふれることはないだろうし、おれのような薄汚れた野暮な人間が、手を触れるのも拒否しているかのような印象すらある。
 じつに、高尚で高踏的で排除的なオシャレなのですなあ。それがまあ、空間の付加価値とやらを生んでいる、ということらしいのだが。アートや文化は、そんなものになったのか。

 少々キタナイぐらい、いいじゃないか、少々マズイぐらい、いいじゃないか、少々バカクサイことしても、いいじゃないか、と声をあげにくい。こういう空気感、これはもう、「心地よいファシズム」というものだろう。

 いや、それは、おれの野暮な見方かも知れないが、そこに機能している細部まで計算されつくしたかのようなデザインや詩文には、都会的な精神や感性の貧しさを感じる。ブラック企業が従業員を煽る、ロマンあふれる「ポエム」みたいなものですよ。鈍感なはずの野暮は、そういうことには、アンガイ、敏感なのだ。

 しかし、ひとは水の流れのようなわけには、いかない。
 ファシズムのようなオシャレがはびこり、「おっさん」であるがゆえに野暮と見られていたおっさんは、うなだれることはない。オ帽子にステッキついて散歩する「オシャレなおじさん」になる必要もない。「ちょいワルおやじ」なんて、けっきょく消費されて終わりだ。
 熱く野暮を貫くことで、素敵なおっさんになるのだ。

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2018/02/04

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」63回目、東十条・みのや。

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毎月第三金曜日に東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」、1月19日の掲載は東十条の「みのや」だった。

すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018011902000172.html

みのやは「とんかつ」が看板の店で、ほかのフライ類やハムエッグ定食もあるが、一番人気は600円のロースとんかつ定食だろう。

本文にも書いたが、1962年に上京してしばらくは、とんかつは高いのでめったに食べられなかった。大衆食堂にもあったが、あのころはメニューの安い方しか見なかったのであり、そこにとんかつを見ることはなかった。

記憶では、まだ東京オリンピック前だったと思う、代々木にカウンターだけの比較的大きなとんかつ屋があって、楕円のステンレスの皿に型抜きのめしと千切りキャベツととんかつがのった「かつライス」が安い方だった。とんかつを食べたいときは途中下車をして食べたが、ふだん食べる定食の1.5倍はしたと思う。

とんかつが日常の普通の食事になっていくのは1960年代の後半からだったような気がする。飼料の開発が進み新しい養豚の方法が普及するのはそのころだから、生産の革新がもたらした結果だろう。

とにかく、とんかつはうまく、よく身体がそれを欲した。

目黒のとんきのとんかつを食べたときにはおどろいた。あんなに身の厚いとんかつは始めてだったからだ。それに歯ごたえがあまりなく、さくさくふわふわ食べられる。とんかつと別物という感じだった。

このみのやのロースとんかつは厚くなく、かといって紙のように薄くもなく、歯ごたえがある、おれが最もよく食べてきたとんかつだ。とんきまでわざわざ行く気はしないが、みのやへはときどき行きたくなる。

ここでとんかつを食べながら、代々木にあったとんかつ屋のカウンターの活気とあのころを思い出すのも「味覚」のうちだ。

とんかつといえば、なぜか、小津安二郎の『秋刀魚の味』の1シーンも思い出す。とんかつ屋の二階の座敷で佐田啓二が妹の恋人だったかな?と、とんかつを食べながらビールを飲むシーンだ。あれだけはよく覚えているのは、とんかつとビールが、うまそうなだけではなく、田舎者には手が届かない都会のハイカラな生活に見えたからかもしれない。

そういう高級でハイカラだったとんかつが日常のものになったからといって、とくに感慨はないが、とにかく、安いとんかつはうれしい。

比較するのはおかしいが、うなぎの蒲焼などは食べたくなることはないし、実際にもう10年ぐらいは食べてないけど、とんかつだけは日常からなくなって欲しくない。アメリカ産の豚でもけっこう。

それにしても、みのやの定食はめしも多いが、ついてくる豚汁が、どんぶりに盛られていて、これでめしを食える量だ。これに漬物がついた昔の豚汁定食の価値がある。その豚汁は、注文ごとに大鍋から人数分ずつ小鍋にわけ、刻んだキャベツやネギをたっぷり入れて煮る。

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2018/02/03

いまドライバーは、環七朝食風景を見ながら考えた。

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夜も眠らない環状七号線が高円寺の東側を走っている。見ておきたいことがあって、朝の8時過ぎにそこへ行った。

車の流れは列車のように連なって動いているが、片方の歩道側の一車線に大型ダンプがずらり並んで停車していた。そのあたりは道幅が広くなっているのだ。

立ち食いそばやが一軒あって、客足が絶えない。

その風景を見に来たわけではないが、時間があったので、そばで眺めていた。

昨年あたりから「ドライバー不足」がニュースになるようになった。もっと前からドライバー不足がいわれていたのだけど、例によって解決する方法はとられず、運送会社やドライバーの「がんばり精神」つまりは過重労働に頼ってきたから、いよいよ深刻な事態になった。

といっても、一般的には、まだあまり深刻に受け止められていないようだが。

ドライバーが不足しているから求人が行われ、統計的には求人が増える。それが景気がよいという判断の指数に使われたりもしている。

ドライバー不足の根は深い。

その労働を長年支えてきた労働人口の多い年齢層が高齢化し引退が続いている。これはまあ、ドライバー業界に限ったことではない。

それから、改善されずにきた低賃金と長時間労働が続いた結果でもあるけど、これも他業種に共通してある。

労働力不足を外国人労働者とAIの導入で対策する動きもあるが、ドライバー不足は、それが難しい。

もっと根っこには、「優劣観」がある。仕事や労働に対する優劣観だ。外国人労働者となると、人種差別に近い人種に対する優劣観がある。

バブルのとき、「3K」なる言葉がはやり肉体労働系は嫌われ蔑視も助長され、対して、情報やメディア周辺のクリエイティブな仕事がもてはやされた。

「車夫馬丁」という差別用語があるが、肉体的な仕事は劣った賎民、知的な仕事は優れた貴族という優劣観は、大昔から根強い。

このあいだ、ホリエモンが「『「なんで保育士の給料は低いと思う?」低賃金で負の循環』(朝日新聞デジタル)という記事に対して、「誰でも出来る仕事だからです」とコメントしたことが話題になった。

「「そんなに言うなら一か月保育士をやってみて」「国家資格が必要だから誰にでも出来るわけじゃない」といった批判が殺到」したとのこと。

これについて、ホリエモンはあとで「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事」が真意だとテイネイな説明をしている。

どちらも仕事(労働)について、何か考え方がズレているように思う。

どんな仕事でも、その仕事が存在するのは必要とされているからだという考えが欠けている。もっといえば、社会全体が動いていくために必要とされている機能があって、その機能を受け持つ人がいて全体がまわる。

ホリエモンの考えは、いわゆる「新自由主義」で、社会のことも「市場原理」まかせなのであって、「保育」をどう社会の機能として位置づけるかのことではない。その意味では、「そんなに言うなら一か月保育士をやってみて」「国家資格が必要だから誰にでも出来るわけじゃない」といった意見も、イマイチだ。

おれは以前(1970年代)に90人規模の認可保育園を立ち上げて理事もやったりしたが、当時から保育についての議論は不十分なままだ。少子化の対策に腰が入らないことも、それと関係あると思う。

それはともかく、「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事」だけど、やるひとがいるのだから給料は上がらなくてもそれでいいのだ、という考えは、わりと普通になっている感じがある。

新自由主義の浸透で、社会的な全体的な機能のことなどは視野の外になってしまったようだ。

それにつれて、視野の外になってしまった労働がある。

さらに、消費主義は、その傾向に拍車をかける。消費というのは「正」を求める。「正」だけを選ぼうとする。「負」は回避や非難か否定の対象にすぎず、誰かに押しつける。「正」も「負」も引き受ける文化は育たない。

そこに優劣観も絡んで、この保育士とドライバーの問題は、共通する点があるようだ。

バブルのときもそうだったが、今回のバブルでも、「地方創生」がいわれ、その目玉に「文化事業」がすわっている。なんと、文科省は「稼ぐ文化元年」とかで予算もたくさんつけるそうだ。

あのバブルのときの、文化や芸術の貴族たちの大騒ぎを思い出す。

労働者の労働と生活は視野の外におかれ、国や自治体がふりまく予算にたかって、美しく楽しい文化的で知的なキレイゴトに花が咲く。

労働者は朝から立ち食いそばを食って「がんばる精神」でやるしかないのか。貴族たちに、「もっと頭を使え」「もっといい仕事をしろ」「高い志を持て」そうすれば生き残れる、なんて言われながら。

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2018/02/02

方法よりツキ。

きのうも高円寺で、今回の仕事の最後の取材。ロケハンから本番まで、なかなか面白かった。

おれと同年輩の人たちから30前後の人たちまで。ちょうど昭和30年代の経済成長期から今日までをふりかえる感じだった。

仕事のついでにひさしぶりの人にも会い、いろいろ話した。やどやでは外国人とも話したしね。

やはり街で人と話しながら考えることは大事だ。ある意味、本を読むより、いろいろなことを知るし、気づく。体験は厚い本一冊より価値がありますよといった大学教員の話を思い出した。

何年ぶりかのカワちゃんとは、山の話から趣味を仕事にすることについてのことになった。彼女の登山趣味は、近ごろ仕事になってきたからだ。

おれはなるべく趣味を仕事にしないようにしてきたし、仕事を趣味的にやる趣味はないが、趣味が仕事になると別のことが趣味になっていくこともあるようだ。それから仕事になった趣味を別の角度からみたり、仕事を別の角度からみるようにもなるらしい。

これからの日本はどうなるだろうという話題もあった。

いまさら、どうもならんだろう、日本はツキまかせ神だのみだよ。

戦後、ドッジ・ラインを突きつけられ、こりゃどん底かと思ったら、朝鮮戦争勃発で特需と内需拡大で切り抜けられた。そして戦後のベビーブームの子供たちが、安い労働力市場と内需の拡大を支え高度経済成長。ジャパンアズナンバーワンなんていわれおだてられその気になって、終身雇用と年功序列に家族主義の日本的経営を誇示している最中に、レーガノミックスとプラザ合意でアッというまに日本的経営は破たん、でも内需拡大があるさのお得意の手。

方法論よりツキで今日まできた。それが体質のようになっている。

内需拡大で目は内に向いたままで、内弁慶がはびこる。

いや、外へ向かって動いている人たちもいるが、なにしろ内需拡大国内消費重視の風潮が長く続くなか、とくにメディア周辺では内弁慶ばかりがはびこる。人のヨワイところやヨワイ人を見つけては、「高い精神」を掲げて、辛口をいうが、方法論はゼロだ。

ま、だいたい「辛口」つまり「歯に衣をきせぬ」もの言いなんてのは、方法が未熟の結果なのだ。方法論があれば、それをちゃんと普通に言えばいいだけなのだから。上手な指導者はそうするように。

とにかく、えらそうなことを言いあいながら、ツキを待つ。全国レベルから地方レベル個人レベルまで。

それがいつまで通用するのだろう。

世界の大勢は、もちろん、ツキより方法だ。グローバルな方法と、ローカルなツキの日本。方法には責任がつきまとう。ツキまかせは責任逃れができる。

そういう話しをあれこれ。

とにかく、「高い精神性」を称揚し方法論のない話は無視するだけでも、かなりのメディアリテラシーになる。という、一つの方法の話になった。

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