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2018/03/11

3月11日だから、五十嵐泰正著『原発事故と「食」』(中公新書)を読んで考えた。

「大上段に振りかぶった脱原発論でも複雑な科学論議でもなく、安易に「福島の声」を代弁するのでもなく、まずは生活者・消費者として、2011年3月から自分が何かに悩み、憤り、悲しい思いをしてきたのかを振り返ってみること。そのときどきに下した一つひとつの小さな決断が、どういう意味を持っていたのか、あらためて考えてみること。/原子力発電を、肯定するのであれ否定するのであれ、いまこの社会に必要なのは、一人ひとりのこうした省察と、日常的な場でそれを話しあってみることだと、私は強く感じる。結果として出てくる答えは、読者の数だけさまざまであろうが、この本で提示したデータや論点が、その思考の一助となることを願っている」

著者の五十嵐さんは、本書の最後の終章「そして、原発事故の経験をどう捉えなおすか」を、こう締めて終わっている。ちなみに、終章の前は第4章「最後に残る課題」だ。

今日は、2011年3月11日から7年目だ。あれからを振り返るには最適の日だ。だからまあ、まだもっとよく読んでから書くべきかなと思いながら、とりあえず、これだけは今日中に書いておこうか、ということなのだ。

東電原発事故後の食をめぐる混乱は、いまも続いていて、その全貌はつかみにくい。本書の著者は社会学者であり、その混乱をもろに被った千葉県柏市の住民だ。

柏市は都市近郊農業が盛んなところだが、突如「ホットスポットの町」になり、「買い控え」被害にさらされた。生産者と消費者のあいだには不安や不信が広がり、分断が深刻化しつつあったなかで、その克服のために「「安全・安心の柏産柏消」円卓会議」が生まれ成果をあげた。その活動は『みんなで決めた「安心」のかたち』(亜紀書房)にまとまっているが、著者は同じ五十嵐さんで、その活動のリーダーとして活躍した。

その「当事者」としての経験が、本書を書く動機にあると読めるし、またその経験があってこその本書だとも読める。序章「分断された言説空間」は、「ホットスポットとなった柏での経験」から始まる。

その経験のポイントは二つある。

一つは、原発事故以後の問題群を【科学的なリスク判断】【原発事故の責任追及】【一次産業を含めた復興】【エネルギー政策】の4つに分け、それぞれを「切り離し」議論し対策する考えだ。これらは相互に絡みあっているのだが、あえてわける。そして、「「風評」の払拭という【一次産業を含めた復興】についての議論に集中しよう」ということなのだ。

二つめは、マーケティング的アプローチだ。つまり実際に日々、生産したり売ったり買ったりの関係のなかでの解決を図ることだ。売り上げの回復こそが「復興」なのだ。市場の事情と動きは、ものによって異なる、一様ではない。そこを把握し個別に対策し成果をあげるためにもマーケティング的アプローチは有効だ。

国会にならえば、国政レベルのことは何でも討議できる予算委員会ではなく、個別の委員会の一つ、というのが本書の役割だろう。もつれた糸をもつれたまま議論していても、議論で食べている人はいいかもしれないが、実際に日々ものを作ったり売ったり買ったりで成り立っている生活は、不安が増すばかりで見通しが立たない。

とはいえ、柏と福島では、かなり状況がちがう。著者は、そのちがいと類似性を詳細に検討し、ときには個別の食品について対策の提案もする。著者は、柏の経験を生かして福島で復興の活動をしているグループのアドバイザーもしているから、どの話も具体的だ。そのデータは多岐にわたり豊富で、データの整理は学者らしく、さまざまな方法論やモデルを活用している。それだけでも、さまざまな問題解決に有用な知見がたくさんある。

福島県の具体例は、「地域創生」というテーマから見ても、なかなか興味深い。考えてみれば、「復興」は「創生」でもあるのだ。地方の産業は大きな課題を抱えているが、その問題が福島では先鋭的にあらわれている、と見れば、本書の「切り離し」とマーケティング的アプローチは、書かれている以上に多くの教訓やヒントに満ちている。

本文210ページのうち126ページまで、序章「分断された言説空間」、第1章「市場で何が起こっていたのか」、第2章「風化というもう一つの難題」は、マーケティング的アプローチの具体的な話が大部分を占める。

第3章「社会的分断とリスクコミュニケーション」から、様子がちがってくる。つまり「マーケティング的解決から取り残されるもの」に踏みこむのだ。これは「市場」というより「人間」レベル、「社会」と「個人」そして「個人」と「個人」の関係になるだろう。

「リスクコミュニケーション」という言葉は、一般的にはなじみのない言葉だが、よく読むと、ようするにリスクをめぐっても、人としての普通のコミュニーケションを大切にすればよい、ということのようだ。著者は、リスクコミュニケーションの重要性を提唱してきた社会心理学者・木下冨雄のリスコミに関する定義を引用しながら、「ポイントは、「共考」して、「問題解決に導く」という点だ」と指摘する。

共に考える。この姿勢は、コミュニケーションのイロハのイだろう。だけど、それが簡単でない。他者を自分の知見や価値観などに従わせるのがコミュニケーションだという勘違いはざらにある。ちょっと疑問や批判を出しただけで「敵」にされる「友/敵」関係が、けっこうはびこっている。

おれの考えになるが、こういう抑圧的なコミュニケーションは、「食」をめぐっては、とくに頑強な積み重ねがあり、まっとうなコミュニケーションが難しい土壌があるところへ、放射線リスクの問題だった。

「共考」によって信頼関係を築く。それが混乱と分断を固定化させないためにも、混乱と分断をのりこえるためにも必要だ。著者は、チェルノブイリ事故の深刻な影響を受けたノルウェーまで取材し、説得力のある事例を展開する。説得力はあるが、日本のコミュニケーションの実体は、そこからあまりにもかけ離れていることも、実感する。

「どのような意見であっても間違いと決めつけない」「最後まで、きちんと話を聞く」ということが、日本ではどんなに難しいか。「異なる他者への寛容性」など、とっても難しい、絶望的に難しい。だいたい、合理的でない選択についても、ちゃんと耳を傾けなくてはならないのだ。だけど、そこをこえなくてはならないのだなあ。未来のためには。

というわけで、福島については、「いたずらに福島に関わることのハードルを上げるのではなく、さまざまな立場や考えかたの人に広く開かれた復興の道を歩んでほしい」と、著者はいう。

だけどね、ハードルを上げてエラそうにしている人たちが、「食」の分野では少ないのだなあ。それこそマーケティングやブランディングも関わって、ハードルを高くするほどよろしいかのような、そして、そこにハードルをこえられるものとこえられないものの分断も、そろそろ固定化しつつあるようにも見える。

なにはともあれ、日ごろ自ら関わっているコミュニケーションも含めて、2011年3月11日を境に経験した、迷いや屈託や傲慢や無関心や興奮やというレベルから、自分のあれこれを捉えなおすことなのだ。そうして、自ら一つひとつを確認しながら積み重ねるしかない。本書は、その手助けになる。

第4章「最後に残る課題」、終章「そして、原発事故後の経験をどう捉えなおすか」では、著者の「真情」らしいことが控えめだがあらわれる。その「真情」は、著者が柏で当事者としての味わった苦悩や切なさだったのだろうと想像がつく。それは、放射能リスクをめぐって「分断」を真のあたりにした、一人の真摯な社会学者の身が裂かれるような思いだったのではないか、と。

その分断が、福島をめぐって、もっと大規模かつ深刻に表出した。だから、著者はじっとしていられなかったのだろう。

本書は、これほどしちめんどくせえことはない混乱している分野で、議論の場を買って出たようなものだ。よほどのことだ。だけど、無視する人はいるだろう。疑問や批判は、いろいろ出るだろう。

おれの一つの懸念は、本書は「右」でも「左」でもない「中立」の書として読まれる可能性があるし、すでにそういう向きの感想もある。だけど、「右」でも「左」でもない、ではなく、「右」も「左」も包括しうる姿勢であるところに、本書の意義があるのではないかと思う。

差別は排除するが、それ以外は、不合理があっても排除はしない。耳を傾ける。

「食」についていえば、それぞれの選択を無条件に尊重する。「無条件」という言葉を著者は使っていないが。

寛容の試練は、著者だけではなく、共に負うものなのだ。難儀だけどね。

そう何度もあってはならない経験を無駄にしないためにも。いまを生きる一人の人間として、そう思うわけだ。

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