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2018/03/16

共生。われわれはみな〈社会的〉に食べている。

思いつくままに、前のエントリー五十嵐泰正著『原発事故と「食」』(中公新書)がらみのことなんだが。

五十嵐さんとおれは、2013年2月3日 に、『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』刊行記念イベントとして、「どうすれば『みんなで決める』ことができるのか?」「『いいモノ』食ってりゃ幸せか? 我々はみな<社会的>に食べている」という公開の対談をしている。

その内容は、こちら『SYNODOS-シノドス-』に掲載になっていて、ごらんいただける。
https://synodos.jp/society/3222

「社会的に食べている」は、なかなか実感としてわきにくいだろうと思う。想像がわきにくいというか。それは「当事者」と「部外者」の感覚のちがいにもなりやすく、それが分断の根になったりする。

「分断」というのも、なかなかわかりにくい。本書=『原発事故と「食」』は、「分断された言説空間」とか「社会的分断」という表現を用いている。

世間には、さまざまな「対立」や「ギャップ」や「差異」や「因縁」や「偏見」や「優劣観」や、とにかく「分断」の根になりかねないことがたくさんある。

五十嵐さんは社会学者だが、おれは一介のフリーライターで、なんについても素人だから、そのあたりをごく気楽に考えると、「分断」なんか気にせずに、本書にもあるが、とにかく何事につけても「共考」「共生」でいきましょうよ、という姿勢が日ごろから大事なんじゃないかと思っている。

今日も先ほどスーパーへ行って来た。そこでフト考えた。

スーパーというシステムは、なるべく属人性を排しながら成り立ってきているので、「共考」「共生」という感覚がわきにくい。従業員とも売場主任とも店長とも口をきいたことがない。誰がそうなのかもわからない。

それが個人商店だと、立ち話でもして、「今年のカツオは高いねえ」「獲れねえんだよ。このカツオはさ、千葉産でいくらか安いかな」「すると勝浦かな、地震の前だったら小名浜に揚がったやつかも知れないね」「そうなんだよ、こっちはどっちだっていいんだけどね」といった話しを店主とかわして(実際、先日そういう立ち話をしたのだが)、それが「共考」「共生」を実感するベースになったりする。こういう話をしていると、ああ自分たちも原発事故の「当事者」なんだと思う。

が、しかし、今日スーパーの店頭で考えたことは、そういうことではなかった。

スーパーというのは、たくさんの消費者と「共生」しているはずだけど、とくに客の方は「共考」「共生」の関係にあるという認識は薄い。それは先に述べたスーパーのシステムの問題でもあるが、ひとり一人が資本主義社会やそのシステムについてあんがい知らないということも関係するだろう。

資本主義やスーパーを主体的に理解しようという機会も、あまりない。生まれたときから資本主義とそのシステムのなかで生きていながら。

大きなシステムで動いているわりには、そのシステムについては、わりと無関心なのだ。それで、なにかコトがあると、クレームをつけたり、ひたすら不信感をつのらせたりする。

だけど、スーパーも人間が動かしている。「なるべく属人性を排しながら」のシステムというのは、カンジンなところは人が握っている。たとえば、バイヤーがいる。いまどきの金融取り引きはAIだのと言っているが、鮮度が大事な食品は、そうはいかない。そのうちにどうなるかはわからないが、かなり自動化がすすんだとしても、バイヤーはなかなかなくならないだろう。

スーパーを含めた流通業者は、とかく「利」だけで動いているように見える。実際、そうなのであり、コンマ以下のパーセントが利潤に影響を与える商売だから、それはもう細かい。だけど、同時に、たいがい消費者と生産者とのあいだにあって、「共存共栄」を追求する姿勢もある。それがなくては商売が成り立たないからだ。

ところが、生産者と消費者は、スーパーと売買取り引きだけの関係になりやすい。消費者は、スーパーなんか生産者のあいだに入ってピンハネしているだけだろうと思っているし、生産者も消費者のあいだに入ってピンハネしているだけと思っている。

実際、スーパーのバイヤーが生産者に憎まれるほど嫌われている例を、けっこう目の当たりにした。この場合の生産者は農業者だが。

で、今日スーパーで思いついたことは。

やっと、その話だ。

『原発事故と「食」』は、「復興」のためのマーケティング的アプローチについて述べているが、そのマーケティングの対象は主に消費者であったり、生産者の「個別の商品の市場特性をふまえたマーケテイング」であり、流通業者はあまり意識されてないのではないかという気がした。スーパーは視野の外側という感じもある。

それはたぶん、消費者が動けば、スーパーも福島産を扱うようになる、という考えなのだろう。

それは真理だろうけど一面であり、スーパーは消費者の反応に敏感ではあるが、最も実利的であると同時に共存共栄の理念を共有しうる太いパイプであることにかわりない。そして、スーパーは人間が動かしているのであり、バイヤーがその気になると、大きく動くことも事実だ。

声をかけていかないかぎり振り向いてはくれない。

なにはともあれ、それはマーケティング的にはチャネル政策の課題になるだろうけど、根本的には自分が生きている資本主義社会とそのシステムに主体的に関わる課題ではないか。

なーんてことを考えながらスーパーで値引きシールのついた商品を探して買ってきたのだった。

このあいだ、何度も高円寺に通っていたとき、JR高円寺駅の改札出口で福島物産展をやっていた。たぶん1週間ぐらいやっていたと思う。野菜が中心で、たくさんの人が買っていた。

本書に書いてある原発事故の風化により、「何となく悪いイメージ」が固定化しそうな中で、人通りの多いところで福島の幟旗を掲げ人だかりをつくることは、「何となく悪いイメージ」の払拭になるような気がした。ま、それは手間のかかることではあるが。

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