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2018/04/01

「福島」から遠く離れて。

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2018/03/24「鬼子母神通りみちくさ市で「地下アイドル」世界を垣間見る。」に、「今回、おれは、いま考えていることにドンピシャの古本を買った。なんというよいタイミング。その本については、明日書こう。五十嵐泰正さんの『原発事故と「食」』(中公新書)に深く関係する内容なのだ。」と書いたままにしていた。

その本は、みちくさ市の本部の古書現世の棚で見つけた、『戦後サブカル年代記』(円堂都司昭、青土社2015年9月14日発行)なのだ。目次を見ただけで、これは面白いし資料価値も高いと思って買った。厚い割には、値段も1200円という、即物的評価の高さもあった。

本文328ページのほかに、主要参考文献のリスト、関連年表が充実している。

この本には、「日本人が愛した「終末」と「再生」」というサブタイトルがついている。チョイとシニカルな感じがするが、斜に構えているわけじゃない。

「終末」は「スクラップ」を、「再生」は「ビルド」を、意味しているのだが、敗戦後の焼け跡と復興から、2010年代のこの本が発行されるまでの「スクラップ&ビルド」の繰り返しを、時代の反映としてのサブカルを振り返り、評を加えながらまとめている。大変な作業であり労作だ。

1945年の広島・長崎へ原爆の投下と終戦から、「戦後史をふり返れば、似たモチーフが時代を超えて何度も登場したし、私たちは「終末(スクラップ)」と「再生の(ビルド)」のある種のループに閉じ込められているかのようだ」「日本人はいまだにループの外部を上手に思考することができず、過去を反復しようとしてしまう」と、著者は最後の方でまとめのように述べる。

序章が、「一九四五年以後 終末から再生へ」から始まる。その最初の項は「聖火と原爆」であり、「一九六四年東京オリンピック」「原子力的な日光と『ゴジラ』」と節が進み、次が「終わらない「戦後」」だ。

そこで、おれは大発見でもしたかのように、「あっ」と思ったのだ。こう書かれてある。

以下引用………

『ゴジラ』公開の翌年の一九五五年には黒澤明監督『生きものの記録』が公開されていた。同作は、第五福竜丸事件、米ソ二大国の核開発競争といった世相から発想した内容であり、鋳物工場の経営者が、原水爆の放射能から逃れるためブラジルに移住しようといい出す。だが、家族に反対され、狂気に陥るストーリーだった。原爆を落とした相手をどう思うかとは別の話として、核の恐怖をどの程度に見積もるのか、戦後十年ですでに国民の間に埋められない意識の溝が生じていることをとらえた映画だった。

…………引用おわり。

『原発事故と「食」』の五十嵐さんは、まえがきで、「2011年以来の「(事故後の放射線リスクに対する)安全派/危険派」「生産者/消費者」「福島県民(とその支援者)・県外の人」という構図で、ツイッターなどを舞台に一部の人々が相変わらず石を投げ合っている。そんないつまで続く論争を横目に、大多数の人たちが被災地への関心を失ってゆく状況は、健全な姿ではないだろう」と述べている。

「安全派/危険派」については、「戦後十年ですでに国民の間に埋められない意識の溝が生じていること」を、おれは知らなかったといってよい。というか、忘却の彼方だった。これも「風化」といえるか。それで「あっ」と気が付いたのだ。

この構図は、何度も繰り返されている。食品をめぐっても、化学肥料や農薬あるいは食品添加物などについては日常的だし、大きなことでは、水俣があり、O157カイワレがあり鳥インフルや、近年では中国産の冷凍食品をめぐっても、いろいろあった。

「終末」と「再生」のほかに、「関心を失ってゆく状況」つまり「風化」があった。「風化」があって、閉じられた「ループ」が完成しているという感じもある。

「健全な姿ではないだろう」という問題意識は、『原発事故と「食」』のキモだと思う。

健全な姿を求めて。だけど、「風化」は、避けられない。

『原発事故と「食」』の第2章「風化というもう一つの難題」では、風化の実態にふれ、「伝えかた」を検討している。そこに「危険/安全の軸をズラす」ということがある。

これは、けっこう大事なことだと思う。

「ズラす」というのは、「危険/安全」から目をそらさせるような印象があり、なんだか詐欺的な手口のように聞こえそうで、あまりよい表現には思えないが、関心の本当のところを探るということになるだろうか。被写体に対し自分の位置をズラすように、自ら別の見方をしてみることだろう。それは閉じられたループを抜け出す一歩になりそうだ。

しかし、昨今の「福島」と「放射線」をめぐる言説状況は、「福島」や「放射線」に近い人たちばかりの話が中心になっている感じで、われこそは「福島」や「放射線」の実態に近い、を競っているようで、それがさらに風化を進めている感じもある。すでに「当事者」や「当事者に近い人たち」が中心の閉じられたループの中の話という感じだ。

「福島」に執着し、過去何度も繰り返されてきたスクラップ&ビルドから教訓をくみ取ろうという視野が感じられない。つまりは、何度も似たような体験をしている人たちはほったらかしに、「福島」への関心を「軸」にしている。風化を避けるには、その「軸」を「ズラす」ことだろう。

2016/12/20「「他人事」からの出発。」には、「当事者意識を持つことが、他人事意識の解決になるのか。風化や他人事意識は避けられないことを前提にした考えや方法があってもよいはずだ。」と書いた。一年以上が過ぎ、ますますその必要を感じている。

「当事者」に近い人たちだけが着けるテーブルではなく、誰でもが着けるテーブルの模索。「健全な姿」とは、それだろう。

もうちょっと引いたところから、あるいは巨視的に他人事的に考える必要があるんじゃないかな。と、おれは考えているわけなのだ。

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