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2018/05/09

気分と空気とコミュニケーション。

前のエントリーは先月28日だった。ツイッターも見たら、前のツイートは先月28日だった。ゴールデンウィークだからと休んでいたわけではないが、結果的にそうだった。休みの空気に気分がのまれたのだろうか、書く気分じゃなかったのだな。たぶん。もともとたいしてやる気があってやっているものじゃないし、メシのような習慣性はないから、気分に左右されやすい。そして気分は空気に左右されやすい。

とにかく、この間に、なにかしらの仕事もしたし、それ以上にグダグダしたし、けっこう歩いたし、あれこれ読んだ。

読んだ中に、おもしろいものがあった。書店でもらってきたままほったらかしになっていた出版社などのPR誌の一つ、紀伊国屋書店の『スクリプタ』1月発行の号だが、吉川浩満の「哲学の門前」の6回目「ディス/コミュニケーション(2)」が、すごくおもしろかった。

「コミュニケーション」って言葉は、もう空気のように流通しているけど、おれの人生では30歳ぐらいからの言葉だ。1970年代前半、まだ言葉としては一般的ではなかった。

おれはいまでも覚えているが、当時、「食はコミュニケーション」てなキャッチフレーズを見て、なんだコミュニケーションって、と思ったぐらいだ。

いまでは空気のように流通しているけど、その意味や概念は、どうなのだろう、ちゃんとわかっているのだろうか。と、たまたま、少し前に、第一次世界大戦が気になり調べていたときに、欧米の連合国側では「オーガニゼーション」と「コミュニケーション」が戦争の勝敗を決する重要なテーマになっていたことがあるとわかったのだが、その言葉の使い方が、英語がよくわからないこともあって、どうもいまの日本での使われ方と違うような感じが残り、気になっていた。

吉川浩満は、近年よくネットで流通している「コミュ障」に注目して、コミュニケーションを明らかにしている。つまり「この言葉のプリズムを通すことで、ふだん私たちがコミュニケーションなるものをどのように考えているのか、それをどのように用いているのかの一端を示すことができそうに思えるからです。私たちが暮らす社会の一側面を照らし出すことにもなるかもしれません」ということなのだ。

ある言葉を置いて、それをプリズムにしたり鏡にしてモノゴトを見るという方法もおもしろいのだが、とにかく、「コミュ障」と「コミュニケーション能力」や「コミュ力」という言葉の使われ方を調べ、4つのポイントをあげ、検討を加えている。

ヤマは、ここだ。

本来なら、コミュニケーション能力は、「人がもちうるさまざまな能力のひとつにすぎない」はずだが、それとは対照的に、「コミュ障」は「「あいつコミュ障あるよな」ではなく「あいつコミュ障だよな」こそ正しい用法です。コミュ障というのは、人そのもの、人の全体にたいして貼られるレッテルなのです」

なぜそうなるのか、私たちが暮らす社会の一側面が浮かびあがる。

「現代日本でコミュ力と呼ばれているものは、じつのところコミュニケーション能力とは別のなにかなのではないか、そう私は疑っています。むしろそれは場のノリに同調したり支配したりする能力、組織集団の権力構造に適応する能力ではないかと」

自分の意見を押し通す能力のある人間がコミュニケーション能力があると認識されてきただけではないか。

ってことで、「KY」なるもの「空気」という言葉をヒントに考える。ここで、「空気こそ、長いあいだわれわれを生かしも殺しもしてきた日本の宗教だからです」と指摘するのだが、これには注があって、山本七平『「空気」の研究』文春文庫1983年があがっている。山本七平がそんなことを書いていたとは知らなかった。

「場を支配する空気を読めない者がKYでありコミュ障であるとするならば、日本社会は少なくともこの点にかんしては戦前となんら変わっていないことになります」

そこでおれは、第一次世界大戦で「オーガニゼーション」と「コミュニケーション」に取り組んだ(取り組まざるを得なかった)欧米連合国と、連合国でありながら主戦場から遠く離れていたこともあってか、戦勝国になりながら「オーガニゼーション」と「コミュニケーション」について旧態依然だった日本について、思い当たることがあった。

それはまあ、食文化に関わることでもあるし、現在の食をめぐるさまざまについて、なかなか議論が深まらないことにも関係があるだろう。

そういえば「食文化」という言葉も、1970年代前半ぐらいから広く流通するようになったが、どのように理解されているのだろう。多分に空気的であり気分的ではないだろうか。

「二十世紀は組織の時代である」「いまや組織なしの社会など考えられないくらいである。しかし、人類の長い歴史の大部分を通じて人びとは自己の欲求を個人で満たしてきたのであって、このような組織社会になったのはごく最近のことでしかない」って述べたのはフィリップ・コトラーさんであるけど、もう21世紀。なのに、食とコミュニケーションのことを考えても、二十世紀以前の問題がたくさん転がっている。

日本は19世紀が資本主義の衣を着ている、とかおっしゃった人がいたと思うが、そういうオコトバはその通りでも何の足しにもならないしなあ。

自己の欲求を個人で満たす(自分の意見を押し通す)レベルをこえ、「食べる」という日々のことから、もっとオーガニゼーションとコミュニケーションを考えていきたいものだ。

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