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2018/08/19

東日本震災以後の理性的な「思考停止」。

おれがツイッターを始めたのは2011年の2月のことで、3月11日の東日本大震災のちょっと前だった。大震災のあと、いろいろな分断や亀裂が生まれたり表面化して、自分と異なる考えなどに一撃を加えるのに「思考停止」という言葉がよく使われるのをツイッターで目にした。

相手に「思考停止」と言ってしまえば自分の勝ち、てな感じで、お互いに相手を「思考停止」と言いあっている「思考停止」を眺めていると、では「思考停止」じゃない人はどこにいるのだろうと思ってしまうのだが、「思考停止」という言葉がこうも使われるようになったのは、ツイッターが普及したからなのか大震災が何かしらのキッカケになっているのか、よくわからない。

とにかく、自分は思考停止ではないと思っている人が大勢をしめているらしいのだ。

そもそも「思考停止」って、なんだ、どんなことを指しているのか、ということでインターネットで探ってみると、まあ、みなさん勝手にいろいろ言っている。ようするに、「思考停止」を説明しながら、自分は思考停止ではないということを主張したいだけとも読み取れる。

よく考えてみると、「思考停止=悪」という考えこそ、思考停止ではないのかなあと思ってしまうね。

なんだか思弁的な言葉を使い思弁的なことを言っていれば、思考停止してないかのようなポーズもある。

そして、思考というと、やたら「理性的」なふりなのだ。つまり、「思考=理性」みたいな思考停止も見られる。

考えるときは理性的に。そうなのか。いいのか、それで。

自分は思考停止ではない、だから正しい、みたいなの、けっこうコワイ。まんじゅうコワイじゃなく、ほんとうにコワイ。

「思考停止」というレッテルを貼りながら、反証可能性、反論可能性を否定する、そして自分は絶対神に近づく。おお、神様仏様。ま、単なる狭量なだけじゃねえかという感じだけどね。エラそうな、カッコつけたゲンロンが多いってこと。

大衆食堂のめしを食っていれば、「思考停止」になりません。というのは30%ぐらいは嘘だけど。

ってことで、本日は、『談』91号(2011年7月号)に掲載の「理性主義を超えて……思考停止からの出発」という文章を読んでいる。「思考停止からの出発」ですぞ。

談編集部による『理性の限界』の著者高橋昌一郎へのインタビューだ。『談』100号記念選集に収録されている。

「理性主義、理性信仰がますます強固になっているという感覚、それに対する朧げながらの不安、危機感が、一般にもかなり共有されている」「それがまさに三・一一大震災によって現実化し、理性・科学に対する信頼が大きく揺らぐことになりました。ここで改めて、理性主義の限界について考えてみたいと思うのです」と、インタビューは始まる。

インタビューのなかで、高橋さんは、「私は「科学と民主主義」が無意味だと言っているわけではない。そのどちらも人類が導いた最高の成果なのですが、全幅の信頼を置くような対象ではないことを実感すべきだと申し上げているわけです」と。

それはそうだとしても、現在の日本の「科学と民主主義」の実態は、あまりにもお粗末だというのが、これまた大震災後に現実化している。

だから、大衆食堂ぐらいの思考が、丁度よいというか必要といえるのだな。

ようするに、絶えず人間(自分)の限界を知っておくこと。人間(自分)を過信することから「思考停止」は始まる。ってことか。

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