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2018/08/25

2日連続、居酒屋ちどり@北浦和。

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一昨日、昨日と二日続けて、北浦和の居酒屋ちどりのライブへ行った。2日連続なんて、めったにあることではない。一昨日の23日は、円盤企画「URCレコード全部聴く会」5回目、これは2回目から連続して出席している、待ってましたのライブだし、昨日のAZUMIは、年に3回ぐらいしかないうちの1回だ、前回も行っているし、はずすわけにはいかない。

まずは、昨日のAZUMIソロライブだが、毎度のように堪能した。とくに、前回、いつものAZUMI説教節が、「やると思っているでしょうがやりません」とはぐらかされたので、ひさしぶりだった。いつも冒頭でチャック・ベリーが出てきてから次々に死んだ人が登場しては展開する説教節、今回はチャックベリーはちょこっと出たあと、AZUMIさんのおかんが出てきて、AZUMIさんとおかんの掛け合い。AZUMIさんが小学校3年生のときにウクレレを買ってもらったところから「ギター狂い」になっていく、いつものようにギターをかきならしテンポよく進み、最後、おかんだってロマンチックだったんだよというおかんの亡霊に、静かにトワイライトタイムを弾いて終わる。心憎い展開だった。次回、やってくるのは11月だそうだ。たのしみに待っているぜ。

昨夜は、しばらく行く機会がなかった狸穴にチョットだけ顔を出して、ビール一本あけて、あれこれ消息を交換しあい帰って来た。

さて、円盤企画「URCレコード全部聴く会」5回目だが、けっこう衝撃的だった。2回目から参加しているわけだが、今回は最もコーフンした。

自分の体験としても、1968年69年と70年では、なにかずいぶん変わったなという肌触りが残っている。なんてのかな、くすんだモノトーンから色彩をおびたような感触というか。その変りようが、レコードにもフォークにも、はっきりあらわれていたのだ。フォークからロックへ。これは続けて聴いているからこそ、はっきりわかったのではないかと思う。

それに、おれは音楽にはかなり疎いので、フォークだのロックだのといわれても区別がつかないし、ジャンルなんかどーでもいいじゃないかのタチなのだが、今回は、はっきりわかったのだった。これも続けて聴いているおかげだろう。だいたい、あの「フォークの神様」といわれた岡林信康が「ロック化」したのだ。

とにかく、吉田拓郎のレコードデビューとはっぴいえんどの出現は、時代を画したといえそうだ。

円盤の田口史人さんが作ってくれる年表の1970年4月の欄には、「「ロック叛乱祭」で岡林ロック化」とある。同じ年表によれば、70年3月に「ヴァレンタイブルーが「はっぴいえんど」に改称」とある。やはり同じ年表には、吉田拓郎のレコードデビュー「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(L盤、エレック)があり、これはURCではないのだが、URCが押していたフォークを痛烈に批判している歌であり、田口さんが聴かせてくれた。これには、ほんと、おどろいた。

当時のおれは、音楽などにはあまり関心がなく、吉田拓郎を知ったのは、70年代になってから、「結婚しようよ」(1972年)あたりからだった。だから、吉田拓郎とはっぴいえんどあたりで、流れがガラッと変わっていることは、初めて知ったのだ。

URCレコードの配布は、1969年2月にスタートしている。今回は、70年3月の発行の盤から聴いた。わずか一年のあいだに、岡林はロック化するし、URC4月配布の遠藤賢司「niyago」(L)のレコーディングにはははっぴいえんどが参加しているし、6月発行の岡林信康「見るまえに跳べ」も、はっぴいえんどがレコーディングに参加しているのだ。

69年の「くそくらえ節」の岡林とえらい違いだし、その頃のURC発行のフォークともえらい違いなのだ。

この69年70年は、ずいぶんいろいろあった。このころのことは、全共闘や70年11月の三島事件がクローズアップされるが、そればかりじゃないのだなあ。そんなことは関係ない人たちのほうが、はるかに多いわけだからな。

そのあたりのことを、細かく見直す必要がありそうだと思った。

昨年末発行の『ユリイカ』のエンケン特集に論考を寄稿したときは、「カレーライス」が生まれる時代背景を探ってみたいと思いながら、時間的制約もあり不十分だった。そのときの要点は、こんなことだった。

産業の成長で、ギターの量産化が本格化するのが1966年。

やはり産業の成長で、カレーライスの牽引役はカレー粉から即席カレールーに移行する。その年間生産量は、65年の36,500トンから70年には70,605トンになる。

生活の洋風化として、ダイニングキッチンが普及し、70年には、家庭の食卓は「ちゃぶだい」とイスとテーブルの割合が逆転していると推察される。

などなど。

遠藤賢司はおれより4歳若く、上京も4年ずれている、この間に東京オリンピックもあった。「六〇年安保の残り香があった私が上京したてと、六〇年代後半とでは、大衆や大衆めしに対する目線が変わってきていたといえる」とも書いている。

『大衆食堂の研究』(『大衆食堂パラダイス』にも載っている)から、「学生、労働者、職人、アソビニン……地下足袋をはいた、赤旗を持った、ギターを抱えた田舎者が、食堂では野性のままふるまった。気取り、虚飾、いっさい無用。クセークセーいろいろな地方の様々な種類の人間が、体をぶっつけあって、怒鳴り声をあげ、あけすけにめしをくう」を引用しているが、これは、だいたい68年頃から70年頃の風景だ。

とにかく、細かくは、これから考えるとして、チョイと当時のフォークシンガーの年齢とレコードデビューが気になったので、抜き出してみる。

生まれた順番だと。

吉田拓郎 1946年4月 1970年4月「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

岡林信康 1946年7月 1968年9月「山谷ブルース」

遠藤賢司 1947年1月 1969年2月「ほんとだよ/猫が眠ってる」

高田 渡  1949年1月 1969年2月 URCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー

おれは、1943年生まれ、終戦は1945年。

1968年、国民意識調査では「中流」に含まれる数が8割を越え、所得倍増計画のもとで日本の国民総生産 (GNP) が世界第2位となった。1970年、「中流意識」は約9割になった。

1947年から1949年にかけての生まれは、俗に「団塊世代」といわれ、70年代早々からは「ニューファミリー」ともいわれ、日本のあらゆる市場をリードするようになった。

吉田拓郎は、最初の結婚の頃、妻とテレビに出るなど、「ニューファミリー」「ヤングファミリー」の人気モデルのような存在になっていた記憶がある。

吉田拓郎とはっぴいえんどの出現は、少なくとも、この層を中心とする新しいマーケットの出現と、なにか通低するものがありそうだし、もっとなにかありそうだ。それと食文化との関係が気になっている。

ま、こういうことはこれからゆっくり考えるとして、URCレコードの1970年3月分には、嘉手苅林昌「海のチンボーラ(日本禁歌集3)」(L)、一柳慧「オペラ横尾忠則を唄う」(L、ジエンド)があって、これは特筆すべきなのだが、もう書くのがメンドウなのでやめる。

円盤の田口さんは、ほんとうにタフでエネルギッシュだ。このあいだ、円盤のレコブックで「ムードコーラス血風録」と「日本のタンゴ」を発行したばかりなのに、今回は「沖縄はレコの島」を完成し持ってきた。もちろん買った。

これは、嘉手苅林昌「海のチンボーラ(日本禁歌集3)」も関係する。このレコードタイトル、ニヤッとするでしょ。

沖縄のレコード史、おもしろい。その始まりは、戦前、大阪の大正区なのだ。しかも、「太平洋戦争突入の'41年に、曲の歌詞が卑猥だということで摘発を受け」たのだった。

とにかく、おもしろく、読みごたえ十分。

円盤企画「URCレコード全部聴く会」の次回、6回目@居酒屋ちどりは、来月の第4木曜日だ。たのしみだなあ。しかし、いつまで続くのだろう。永遠に続いてほしい。居酒屋ちどりも永遠に。

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2018/08/08
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