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2018/08/13

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」69回目、森下町・はやふね食堂。

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先月20日に掲載の「はやふね食堂」、すでに東京新聞のサイトでご覧にいただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018072002000197.html

ここは4月6日に発売の『dancyu』5月号の「美味下町」という特集でも取材して書いた。

詳しくはこちらを見ていただきたいのだが→2018/04/13「『dancyu』5月号「美味下町」ではやふね食堂を取材した。」にも書いたように、森下町より「深川」のほうが通りがよいだろうし、深川は大正から昭和の初期には、都内で最も「飯屋」や「食堂」が集まるところになっていた。

というのも深川は江戸の物語を宿す町だけど、近代化の流入する労働者でふくらんだ町なのだ。町工場も多く、1945年3月10日の東京大空襲の最初の爆弾は深川に落とされ、激しい爆撃を受け焼け野原になった。

はやふね食堂のご主人は、1944(昭和19)年生まれで、おれより1歳若いのだが、家族で疎開をしていて無事だった。そして、焼け跡にもどった一家の、ご主人のおかあさんが焼き芋やかき氷を売ることから始めた。ご主人は、目の前の深川小学校を卒業し、成人すると食堂を手伝うようになり跡を継いだ。

というわけで、東京新聞でのはやふね食堂の掲載は、「終戦」と「戦後」をからめて載せたいと思い、このように書き出した。

「 深川小学校の校門のすぐ前にある。かつては深川区だった。1945年3月10日の東京大空襲では最初の爆弾が深川に落とされ、一帯は焼け野原になった。47年、深川区は城東区と合併し江東区になった。焼け跡からの復興、はやふね食堂は焼き芋やかき氷を売ることから始まった。戦前から労働者が多い町だったが、戦後も木賃宿街が形成され、労働者のための食堂が並んだ。その中で今でも続いている一軒だ。」

当時はサツマイモが主食がわりにもなっていた時代であり、この連載で以前に掲載し、去る6月6日発売の『dancyu』7月号の「本気の昼めし」特集でも取材して書いた「動坂食堂」も、焼き芋を売ることから始まっている。

はやふね食堂も動坂食堂も、焼き芋から惣菜も売るようになり、食堂になったのだ。つまり家庭の手料理から始まった。

はやふね食堂は、そのままを続け、この土地のありふれたおかずでめしを食べる、メニューには定食も丼物もない。この、おかずもみそ汁もうまいんだな。

「漬物は40年の糠(ぬか)床が醸す味。その歳月以上に使い込んだアルマイトのおぼんまで、味わい深い」と書いたが、アルマイトのおぼんは、40数年前におかみさんが嫁に来た時には、すでにあったそうだ。そのアルマイトのおぼんと40年の糠味噌が入った樽が重なった写真を撮ってあったので、ここに載せておく。dancyuなどでは、けっして見られない。

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