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2018/09/29

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」72回目、小岩・サンゴ亭。

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ここに掲載するのが新聞発行日から一か月遅れぐらいになる状態が続いていたが、今月は、まだ月内だ。もちろん、すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018092102000196.html

日替り定食のさば焼きを食べた。いつも焼魚や煮魚を食べたあとは、そのうまさの不思議を考えることになるのだが、このときもまたそうであった。とにかく、うまい。

という話は長くなるから、おいておこう。

やっぱり小岩はいい町だ。こじんまりとした食堂が、入口をからりと開けはなった姿は、見るだけで、なんだか気分がよくなる。それに、こじんまりとした小上がりがあるのだ。これがまた、いい。

今回は、ちょうど、スペクテイター42号「新しい食堂」を見たあとに行った。「新しい食堂」には、「食堂幸福論」というページがあって、三つの話が物干竿之介さんの画入りで載っている。その一つが「小上がり」のタイトルなのだ。

これは、春日武彦の『幸福論 精神科医の見た心のバランス』(講談社現代新書)に所収の「さまざまな幸福 宮崎市の大衆食堂」をもとにしている。

おれはこの本も話も知らなかったのだが、編集の赤田祐一さんが、そこのところを画像ファイルにして送ってくれた。読んだら、しみじみ味わい深い「幸福」の情景だった。簡単には言いたくないが、ほんと、名文だなあと、しばしぼんやりした。名文て、文章表現のテクニックのことだけじゃなく、そこにある視線や思考も大事だね。

この本で著者が、「世間一般では「これこそ幸福の見本である」とはみなさないだろうけれど、わたしとしてはそこにまぎれもなく幸福の尻尾というか断片を感じ取ったケースを、以下に1ダースばかり列挙してみることにしたい」とあげた一つに、宮崎市の大衆食堂でのことがあるのだ。

講演で宮崎市へ行き、一人でひっそりホテルに泊り、夜になって散歩がてら食事に出かけたときのことだ。

中心街から外れた場所らしい暗くて閑散とした街並のなかに、「一軒の大衆食堂がぽつんと明かりを灯していた」のを見つけ入った。

「野菜炒め定食を注文してからふと見ると、壁際に不思議なコーナーがあった」

そのコーナーというのが、木箱のうえに畳一枚を置いて小上がりに仕立てたものだった。座布団と卓袱台が置いてあり、「すなわち昔ながらの茶の間を切り取った光景が、まるで舞台装置のようにして床から七〇センチの高さに再現されていたのである」

そこにすでに先客が一人いて、新聞を広げビールを飲みながら餃子の皿を前にしていた。「完全に茶の間のミニチュア版なのである」

その客が帰ったあとだ。「するとテーブル席にいた別のおじさんが人の好さそうな顔つきで、「じゃあ、今度はわたしがくつろがせてもらいますかね」と言いながら、ビール瓶を片手にひょいと畳へ揚がり込んだ。そのあたりの呼吸が、あまりにも自然かつ楽しそうなので、わたしは思わず幸福な気分に浸されたのである」

こういうかんじの気分、おなじ場面ではなくても、あるねえ。このあとの春日武彦のまとめ方も、大衆食堂あるあるで、ほんといいんだなあ。そこは、省略。

サンゴ亭の小上がりは、木箱の上ではないが、寸法は変則的の四人は座るのが難しそうな座卓が二台あるだけの、ささやかな空間だ。その空間をテーブル席ではなく、小上がりにしているところが、いいじゃないか。

そこにはちょうど、一人の客がいて、注文の品が出てくるまで、新聞を広げテレビを見ながらくつろぐ景色があった。

それは、貧しい景色と見る人もいるかも知れないが、おれは、生活することを肯定したくなる、春日武彦の文を借りれば、「何だか、「世の中、捨てたもんでもないな」といった気分になってくる」のだった。

ま、大衆食堂では、こういう気分になるのはめずらしくないが、今回は、「食堂幸福論」の「小上がり」を見たあとでもあり、小上がりの幸福論的に書いてみた。お膳のすみにちょこんとある、ささやかな小鉢まで、小上がりのように幸せ気分を運ぶのだった。

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2018/09/28

円盤企画「URCレコード全部聴く会」6回目。

きのうは居酒屋ちどり@北浦和で、毎月第4木曜日に開催の、円盤企画「URCレコード全部聴く会」6回目だった。おれは初回を逃しているので5回目ということになる。

繰り返すが、「URC」とは、アングラ・レコード・クラブのことだ。ま、アングラレコードの頒布会のようなもので、1969年2月から配布を始めた。その月は、ミューテーション・ファクトリー「イムジン河」(S盤)、トリン・コーン・ソン「坊や大きくならないで」(S盤)、「高田渡/五つの赤い風船」(L盤)だった。

前回5回目は、1970年6月の、久保田誠「昭和元禄ほげほげ節」(S盤)、全日本フォーク地図「村声一揆 福岡ヴィレッジヴォイス」(E盤)、岡林信康「見るまえに跳べ」(L盤)まで聴いた。

今回は、その6月分で残っていた、西村晃「人間バンザイ」(ガーリック、S盤)と引田天功「音楽催眠術夢幻」(てんぐ、L盤)からだった。

ガーリックやてんぐというのはレーベルで、大きなネットワークを持つURCが流通だけを担当したものだ。このころ、URCは発足して1年半ほどだが、急速に組織が大きくなり、手がけていたイベント「フォークジャンボリー」も大盛況で、スタッフはレコード制作もままならないほど大忙しだったらしい。

西村晃は、あの水戸黄門の人だ。「人間バンザイ」におさまった2曲は、いずれも昔の「かぞえ唄」のようなエロっぽいもので、それを彼がクソマジメに歌う。作曲はいづみたく、ほかにも、「話の特集」あたりの人たちがからみ、とことん遊んでいる。「音楽催眠術夢幻」は引田天功が音楽をバックに何人かいると思われる女性に催眠術をほどこす。これもエロチックなお遊びというかんじ。どちらも、とことん遊んでいる突き抜け感がよい。

あのころは、「カウンターカルチャー」「アングラ」とかいわれるけど、とにかく、自由闊達痛快無比な突き抜け感のあるカルチャーが盛んだったなあ、と思いながら聴いた。

出色は、7月分のマルビナ・レイノルズ「マルビナ・レイノルズ+ヤング・ニュー・フォーク・コンサート」(Century City、L盤)と8月分のはっぴいえんどによる「はっぴいえんど」(L盤)だった。

マルビナ・レイノルズの盤は、輸入盤に、URCで歌詞を日本語に翻訳したものなどをつけて配布した。初めて聴いたが、欲しくなるほど素晴らしかった。日本語の歌詞もいい。声、曲、詞。プロテストソングというのはこういうものだろうと思った。

「はっぴいえんど」は、いまさらながら、すごい。はっぴいえんどの影響が大きかったことも、うなずける。細野晴臣は、けっこうドラッグにはまっていたらしい、あの人の眼はやった人の眼をしているね、ドラッグもいい曲の栄養剤か、てな話をしながら聴くのもまた楽しいのだな。

どちらも、突き抜けていた。

田口さんが作った資料の年表の「できごと」欄には、1970年8月に「第二回全日本フォークジャンボリー」/内田裕也×大滝詠一「新宿プレイマップ」対談があり、そして、9月「ジミー・ヘンドリックス死去、10月「ジャニス・ジョップリン死去」、11月「三島由紀夫自決」、12月「コザ暴動」、71年1月「タイガース解散」、と大ジケンが続き、とどめのように、2月「「フォークリポート」猥褻文書として押収」がある。こうして、一つの波が急速に盛りあがったのち急速にしぼんでいくのだが、そのあたりは次回のことになる。

ただ、この盛り上がりは、単なるブーム的な盛り上がりだったわけではない。そこんとこは、いま一度、よく考えてみる必要がある。

たまたま、きのう知り合いから知らされたのだが、千葉市立美術館では9月19日から「1968年激動の時代の芸術」という展示があるそうだ。

その案内があるサイトを見たら、こんな文章があった。

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 世界中で近代的な価値がゆらぎはじめ、各地で騒乱が頻発した1968年は、20世紀の転換点ともいうべき激動の年でした。日本でも、全共闘運動やベトナム反戦運動などで社会が騒然とするなか、カウンターカルチャーやアングラのような過激でエキセントリックな動向が隆盛を極めました。近年、この時期に起こった文化現象が様々な分野で注目を集めており、「1968」は国内外で文化史のキーワードとして定着したと言えるでしょう。
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2018/0919/0919.html

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「68年」をクローズアップしているが、この流れは、1965年~1975年つまり昭和40年代のことで、根底に「世界中で近代的な価値がゆらぎはじめ」たことにある。

このあたりが始まりで、きのうのエントリーに書いたように、80年代には、多様な価値観が求められるようになった。

日本のばあい、メインストリームは経済成長の「成功」に酔ったのか、危機や「不確実性」が話題になっても、近代的な価値のゆらぎについては、きちんと考えることもなく、「過激」を否定しさえすれば成り立つ論理や「ソフトランディング」「ソフトノミックス」だのという用語をふりまわしておしゃべりしているうちに、有効な対策のチャンスを失い、今日まできた。もはや、そのメインストリームの価値観のヒエラルキーは、かなりガタがきている。ということですねえ。

全共闘だの過激派だのといった表面的なことにふりまわされず、70年前後から始まり80年代から大揺れになってきた「ゆらぎ」のなかで生きているということを、しっかり見つめなくては。

江原恵の『庖丁文化論』は1974年、玉村豊男の『料理の四面体』が1980年。この2冊については、『大衆めし激動の戦後史』でもしつこくふれているが、近代的な価値のゆらぎと大いに関係がある。

そりゃそうと、来週の金曜日の10月5日は、高円寺の円盤で、田口史人さんとなぎ食堂の小田晶房さんが隔月でやっているトーク「ぼやき万才」に加わってぼやきをトークをやるのだった。もう来週とは。

もう75歳になったおれ。

当ブログ関連
2018/09/15
都内で久しぶりのトーク。
2018/08/25
2日連続、居酒屋ちどり@北浦和。

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2018/09/27

「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界からのテイクオフ。

「ちびまるこちゃん」のさくらももこが去ったあたりで、やっぱり、平成30年間というのは、あと少し残っているにしても、「昭和」を消費しながら生き延びてきただけかという実感が、さらに深まった。

またもや『スペクテイター』42号「新しい食堂」のことになるが。

おれが寄稿した「結局、食堂って何?」の原稿を書いていたときは、さくらももこが闘病中であることすら知らなかった。

そこには、こういう文章がある。

「食堂が根をはった日常が大きく動いたのは、一九八〇年代だ。それまでは、たいがい収入差はあっても、成長する工業社会のもとで工場のサイレンに合わせるかのように同じリズム同じ方向を維持し、終身雇用年功序列の同じ出世双六ゲームを競っていた。日常もわりとわかりやすかった。「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界だ。」

これを書いているとき、ふと、平成30年間というのは「昭和」を消費してきただけではないかとおもったのだが、さくらももこの訃報を聞いて、「ふと」が「実感」になったようだ。

80年代に入ってからは、とくに「多様化」がいわれ、それまでの工業社会的な「近代」に対する批判や人間の「多様性」に関する言説があふれた。それはまた「個性化」ともいわれた。

引き続き、「結局、食堂って何?」から引用すれば、

「八〇年代中頃になると、「人並みから自分並みへと生活価値基準のシフト」「個人を主役として生活をグランドデザインする時代」といったぐあいに、全体的な枠組みが変わった。/「人並み」より「自分」「個人」が基準になった、ということだった。」

しかし、多様化や個性化で、「みんなが同じ方向のグレードやランクをめざすのではない」はずだったのに、そうはならず、みんなで同じ方向のグレードやランクを競った。

その結果、スターバックスがあるような街が「いい街」みたいな、職人の手仕事みたいな丁寧な仕事が上品質というような、均一化がすすんだ。

「質」が課題になっても、質というのは方向や構造によって異なるはずなのに、70年代までの単一の方向と構造のなかの価値観で上下や優劣をつけることが、いまでもメインストリームあたりでは続いているのだな。これは、山下清の話に出てくる「兵隊の位でいったら」という序列になる、軍隊式の価値観や構造でもあるのだが、企業や業界に依然としてはびこっている。

すごく陳腐なことだけど、あいかわらず比べること自体がおかしい質を比べて、どっちが「上」か「下」かなんて話がマジメ顔で流通している。

おれがチョットだけからんでいる出版や編集という世界でも、続く不況のなかで「いいもの作りましょう」「いい本をつくれば売れる」みたいなことで励まし合う微笑ましい景色があるのだけど、その「いい」を決める方向性や尺度は議論にならない。そして、メインストリームあたりのメディアに書いている人たちが、価値や評価の決定者であるかのように、エラそうにしている。近ごろは、そういう腐敗がすすんで、噴出するジケンもあるが、大勢はイノベーションの気配すらない。

「私は、いい仕事をし、いいものを作っている」と、けっこう多くの人たちが思っている。自分を高く、他者を低く見ることだけが、得意なのだ。モノサシは一つだけの、あの昭和から一歩もテイクオフしてないかんじ。

高い低い、上か下かではない、多様性なのだ、というところへ、なかなか議論がすすまない。80年代からだいぶたっているのに。これこそ日本経済の低迷の原因ではないかと思いたいぐらいだ。

「もともと個性だの個人だのは軽んじられていたのだから理解の外だった。今だって、軽んじられているけどね。けっきょく七〇年代までの序列思考を飲食のジャンルや単品ごとにはめこみ、「自分並み」ではなく、人並み以上をめざした。ようするに、ケッ、人並み以上の突出が「個性」ということだったのだ。」

70年代までだって、個性や個人は存在した。それは、一つの方向の価値観を共有する大きな集団のなかでのことで、個性や個人が中心だったわけじゃない。そういう方向に対する、カウンターカルチャーもあり、アウトローといわれる人たちもいたし、オチコボレといわれる人たちもいた。そういう人たちが「いた」のではなく、そういう人たちを生む「単一の価値観」が支配的だったのだ。

大衆食堂は、そういう価値観の体系のなかで、「落ちぶれても町の食堂にだけはなるな」といわれるほど低層に位置づけられていた。

そして平成30年間の不況のなかで、「昭和」や「大衆」をオリエンタリズムから見るような視線で、ネタとして消費する対象になったりもした。カルチャーとしての評価は低いままだ。大衆食堂で飲んで歩くようなことを商売にする人たちは、カルチャーであるようなのだが。

現場の働きや現場で働く人はカルチャーでなく、それを「取り上げる」メディアとメディア側の人たちだけがカルチャーになる。これこそ、70年代までに根強くはびこったものなのだ。

これはまあ、大きな流れのことで、メインストリームあたりでは「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界からのテイクオフはヨタヨタしているが、それとは異なるインディーズの小さな飛行機は次々にテイクオフしているってことでもある。「新しい食堂」は、そういうことだと思うね。

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2018/09/26

生活することを肯定する。

『Meets』9月号を見ていたら、チョイと気になることを、津村記久子が書いていた。

それは、前のエントリー「自分たちの普通の日常を大切にするカルチャー、それぞれの普通の生活を肯定するところからスタートするカルチャー」に関係することだ。

津村の連載「素人展覧会」は、最も愛読しているもので、これがきっかけで津村記久子の作品を読むようになった。おれはイマドキの文芸書なるものはあまり読まないし、ほとんど買わないのだが、津村の作品だけは、けっこう買って読んでいるぐらい、この作家が気になっている。ま、気に入っている。

そういえば、以前、このブログに「津村記久子が気になっている。」ってのを書いたことがあるな。2015年6月22日だ。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/06/post-a5d0.html

今回の「素人展覧会」は、「いやもう本当にかわいい」のタイトルで、芦屋市立美術館の「チャペック兄弟と子どもの世界」を観に行っている。そのなかに「ミンダ、すなわち犬の飼い方」という作品の話がある。弟カレルの話に兄ヨゼフのイラストで、彼ら兄弟が初めて飼った犬のミンダを主題にしているとのことだ。

それを眺めていると、と津村は書く。

「彼らがどれだけ自分たちの日常を愛していたかが伝わってくる。時代がどうであろうと犬はかわいいし、生活することを肯定する作品を作りたい。彼らの強い思いが時代も場所も越えて甦ってくるような気がする」

そこでおれは、「生活することを肯定する作品を作りたい」は、津村記久子の気持や意思でもあるのではないかと、彼女の作品を思い出しながら考えた。

それで気が付いたのは、日本にも、日常を愛したり、生活することを肯定する文学作品は、あることはある。ところが、食、とくに飲食や料理のステージがテーマとなると、たいがい「食エッセイ」とかいうものだが、日常や生活から離れる内容が多いのは、どういうわけか、その書き手のココロが気になった。

このことは、「生活料理」と出あってから、たびたびぶつかっては忘れているモンダイなのだ。「料理」にわざわざ「生活」をつけなくてはならない状況は、かなり変わってきてはいるけど、タテ型「上下」「優劣」の価値観は根強くはびこっている。「職人仕事」にのめりこんでいく傾向も、あいかわらずだ。なかなか、みなが同じ生活の地平に立つのが、難しいのだなあ。

たとえば、100円ショップのものや安物で整える日常や生活より、文化の香りが高い職人仕事や高品質のものがある日常や生活が質も高く文化的であるとするような、つまりは「生活することを肯定」するのではなく、そこにある「モノ」によって生活の格付けを行うような風潮は、けっこう根強いのだな。

日常の生活を愛おしく送るためのもろもろの仕事(家事などね)については、「実用」であり「文化」あつかいされない。こんなものが「文化」といえるのだろうか。「文化」でもいいのだが、どういう「文化」なのか。

と考えていると、大衆蔑視や生活蔑視の「サロン文化」のような存在が、浮かびあがるのだった。

時代や場所を超えて、国家が栄えようが壊滅しようが、人びとは食べ働き生きてきた、そこにあることをもっとよく見なくてはな。

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2018/09/24

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」71回目、十条・三忠食堂。

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はあ、もう9月も下旬。またまた遅れてしまった。ボケているからねえ。8月17日の朝刊に載ったものを紹介する。いつものように、すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018081702000209.html

この連載が始まったのは、2012年の10月からで、毎月第三金曜日の掲載。つまり、今月は、先週の21日に掲載になっているのだが、これで6年が過ぎたというわけだ。

連載が始まったとき、おれはまだ60歳代だった。今月の誕生日で75歳で「後期高齢者」入り。「後期高齢者」って、生産性のない「邪魔者マーク」みたいだ。ボケるのも仕方ないが、忘れるのは確かにラクだ、忘れることは「悪」じゃない。ゴメンね。しかし、以前のようには食べられなくなったのは、情けねえ~。

と、いきなり愚痴はやめよう。

2012年の1回目は、十条の天将だった。十条の食堂は、それ以来だ。三忠食堂と天将は、2分も離れていないだろう。天将は中休みがあるが、こちらはない。だから池袋あたりで14時過ぎに時間が空くと、こちらに立ち寄る。先週も1度行ったばかり。

夜は入ったことはないが、その時間、いつも必ず飲んでいる客がいる。グループや一人で。

入口は、間口は広いとはいえないし、入りにくい佇まいといえるだろう。ところが、なかは、明るく広く、ゆったりしている。

メニューのブルー系の文字がめずらしい。連日の猛暑で、ぐったりしていたが、なんとなく爽やか~。冷たい刺身がいいかなと思い、まぐろ刺身定食を選んだ。ここは、あじフライも、なかなかよい。いつもあじフライとマカロニサラダでビールやサワーを飲むから、チョイと目先を変えてみたということもある。

最近、このブログでは、「新しい食堂」のことが多いが、こちらは「旧い食堂」ということになるか。「旧いが新しい」という言い方もある。

「旧い食堂」は、80年代前半あたりをピークに減り続けている。ごく最近の統計はわからないが、しばらくは減っているのは小規模零細経営の店だった。食堂全体の定員数は、ほとんど変わっていない。大規模チェーン店化が進行していたのだ。

とかく、大衆食堂はファミリーレストランやファストフード店の影響で減ったような見方がある。でも、競合ということでは、最も影響が大きかったのは80年代中頃から強大な市場になっていくコンビニの弁当やおにぎり、そしてファストフード店、ファミレスの影響は立地や客層のちがいもあり、あまり大きくなかったというのがおれの実感だ。

別の角度からでは、後継者問題。後継者がいなくて消えていった食堂も多い。これは食堂だけではなく、個人商店など中小零細の生業店に共通することで、産業政策や地域政策の影響が大きい。それにからんで、再開発での、立ち退きや廃業はけっこうあった。

それから、カルチャーの問題がある。とにかく、自分たちの普通の日常を大切にするカルチャー、それぞれの普通の生活を肯定するところからスタートするカルチャーが、ヨワイことがあげられる。それがひいては普通の日常を支える普通の仕事を低くみる傾向に連動している。これは職業の優劣観とも関係しているようだ。

優秀モデルだけを追いかける、普通はイケナイという強迫観念のカルチャーの存在。

なかなか根深い問題なのだが、ところが、このカルチャーは、ここのところ変化が見られる。「新しい食堂」は、その一つのあらわれといえるだろ。

「旧い食堂」と「新しい食堂」の大きなちがいは、店主の「自由」に対する志向だ。「新しい食堂」の店主たちは、自由を大切にする意識が強い。それは料理文化にまで影響を与えている。

だからといって「旧い食堂」の料理が陳腐化して消えていくわけではない、ようするに、「近代日本食のスタンダードとは何か」が、豊かになっていくのだ。

などと、三忠食堂で、生ビールなんぞを飲みながら思考するのだった。

この連載、来月から7年目に突入なのだが、続くのか? 大衆食堂はまだまだたくさんあるが、おれが続くのか?ってこと。

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2018/09/21

スペクテイター42号「新しい食堂」の編集裏話。

「新しい食堂」は好評のようでうれしい。

SHIPSというアパレルブランドのサイトに、編集裏話が載っている。SHIPSは、スペクテイターに広告を載せているブランドだが、このサイトには、「緑色世代の読書案内」というのがあって、そこに。

「緑色世代」って初めてだが、あの「緑色革命」と関係あるのだろうか。ありそうなかんじもする。

とにかく、なかなかおもしろく読めるので、ぜひ。
https://www.shipsmag.jp/things/49804

あと「note」に、すずきもえさんという方による「わたしはわたしがいる場所で」という文章があって、「新しい食堂」にふれている。こんな風に読まれているというのも、とてもいい。

稲城市で「いな暮らし」というお店をやっているようだが、まさに「新しい食堂」のようで、「新しい食堂」をやっている方による「新しい食堂」の感想といえる。
https://note.mu/moe_filum/n/n66c38c265d4f

「ひとが集う場をつくる」という意識は、「新しい食堂」に共通しているようだ。ただ飲み食いだけではない、店主にも客にも「わたしがそこにいる理由」がある。

よい飲食とよい関係が生まれ続く場所、しかも気取らない日常的な場所、それが、町にも人生にも必要になっているのだな。

「単に空腹を満たすだけでは満たされない何かがある」

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2018/09/20

昨日の続き。ディスコのフリーフードメニュー。

昨日の本、『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』に載っていた、おれにとってはカンジンなことを書き忘れていた。

フリーフードメニューが囲みで載っているのだ。

ナポリタン ヤキソバ グラタン カレー あげしゅうまい トウモロコシ 枝豆 コロッケ 酢豚 スパゲッテイサラダカレー風味 ミートボール ピラフ マカロニサラダ ポテトフライ ポテトサラダ スイカ バナナ 牛乳寒天 ゼリー

これは、「「東亜会館 DISCO 物語」WEBサイトより」とある。だけどサイトの中は複雑で、検索してもうまくヒットしないし、見つけられないから、どこかのディスコのメニューなのかそれとも平均だったのか、これ以上詳しいことはわからない。
https://www.toa-kaikan.com/

とにかく、中高生たちはこういうもので「お腹を満たし、フリードリンクで酔っ払い、チークタイムでナンパする」ってことをやっていたのだな。

ついでに、昨日に続き、中村保夫さんの文章から、もう少し引用しておこう。

「今とは違いファミレスもコンビニもなく、24時間稼働している街は歌舞伎町ぐらいだった。学校や家との軋轢に悩むティーンにとって、年齢や性別、抱えている背景も含めてすべての人を寛容に受け入れる歌舞伎町は、絶好の居場所だったであろう。家出中の中学生だろうと、ディスコや深夜喫茶で朝まで時間を潰すことができた」

「居酒屋だって中高生が平気で入店できた。法律というよりも倫理観から「お前ら中学生だろ。一杯飲んだら帰んな」と注意する人はいたが、警察沙汰になることは一度もなかった」

「東亜会館の存在の良い面を挙げるならば、どこにもぶつけようのない若者の鬱憤を、その少し前の時代での暴走や暴力行為ではなく、踊るという快楽で発散させたことだろう」

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2018/09/19

鬼子母神通りみちくさ市、たまりあ×角田光代、東京キララ社。

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16日にちよーび、わめぞ一味が企画運営する鬼子母神みちくさ市へ行った。ちょっとだけ雨の心配があったが無事に晴れた。

連続トーク「談話室たまりあ~ステージ上の「私事」と「仕事」~」が13時半からなので、それに間に合うように行き、ざっと古本市を流して、いつもの塩爺やみどりさんなどに挨拶、トークの会場である雑司が谷地域文化創造館へ。

談話室たまりあは4回目だが、おれは初回と前回は都合が悪く、今回で2回目だ。ゲストが角田光代さんであり、いったいどんな話になるのだろう、まったく想像がつかなかった。そもそも「地下アイドル」もたまりあのこともまだそんなに知っているわけじゃないし、角田さんの作品もまとまったものはほとんど読んだことがなく、直木賞作家ということぐらいしか知らない状態。想像がつかないのがアタリマエなのだ。

20代2人と50代、インターネットがあってこその地下アイドルとオールドメディアがあってこその小説家、どう話が展開するか。

角田さんは話すのが苦手なのだそうで、それもあってか、最初はキンチョーの色があったが、たまりあの天真らんまーんな話しっぷりが巧み、なかなか楽しいトークになった。角田さんが、朝9時に仕事場へ行き5時終業を続けている、というようなことをいうと、たまちゃんが「会社員みたーい」「自制心つよーい」というかんじ。

りあちゃんこと小泉りあは、6月だったかな?地下アイドルからタレント・歌手へ転進、たまちゃんこと姫野たまは来年春に地下アイドルをやめる「脱地下アイドル宣言」をし、来年4月最後のイベントまで決まっている。たまちゃんの話では、地下アイドルをしている人たちは、次へのステップのためにやっている人がほとんどだそうで、たまちゃんはすでに文筆のほうでも活躍しているが、小説にチャレンジしている、だけどなかなか書けないのだそうだ。

角田さんは小学1年のときに小説家になろうとおもい、国語と作文を大事にしていたが高校を卒業するにあたり、作文は書けても小説が書けないことから、大学進学は創作をするための学科を選んだのだそうだ。おれなんか小学1年のころは、「小説」なんていう言葉すら知らなかったなあ。とにかく、トークは、私じゃない誰かや何かにならなくては小説は書けないということをめぐり、あれこれ盛り上がった。

日記をめぐる話もおもしろかった。角田さんは絶対に人に見られたくない日記をつけているそうで、それはゼッタイ見られたくない(夫にも見られたくない)から、ちゃんと病気になって死ぬ前に自分で片づける、と、決意かたく話す。角田さんのキチンとした仕事の仕方を聞いたあとには、この人なら、そんなふうにして死にそうなかんじがした。他人にゼッタイ見せられない日記は「黒日記」なのか。

とにかく、3人とも、ちゃんと考えて人生をやっているのだなあ。いいからかげんの成り行きで生きているおれとは大違いで、ただただ驚くばかり。

トークのあとは、たまりあの物販タイムだ。以前見たこの光景が興味がつきず眺めていたが、16時に終わる古本市へもどって、東京キララ社のブースをのぞいた。

このあいだから、70年代後半から80年代の背景としての「ディスコブーム」が気になって、ネット検索していたら、『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』という本が目にとまった。それが東京キララ社の発行なのだ。それを求め、手に入れることができた。

東京キララ社のブースには、いつものように石丸元章さんやピスケンさんなどがいてノワールの香りが漂っていたが、ピスケンさんの瘦せぐあいと肌の青白さに驚いた。

『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』は、期待を裏切らないおもしろさ、というか、おれにとってはいい資料だ。帯には「あの日に帰ろう」というキャッチがあるように、1983-5年頃、歌舞伎町の東亜会館のディスコが異様にもりあがった、当時中高生でその現場にいた人たちのための本ではあるが、今年で19回目を迎える当時を懐かしむ東亜会館の同窓生が集まるイベントもあるそうだ。すごいなあ。

ディスコブームもそうだが、とかく、80年代というと後半のバブルばかりが注目されがちだ、でも、変化は80年前後から始まっているのだ。そのあたりが、食文化も含めて、気になっている。

ところでこの本の著者は、東京キララ社の代表・中村保夫さんなのだ。装幀が、東陽片岡さんの本も多く手掛けている井上則人さんだ。

中村さんは、「まえがき」で、「その呼び名こそ定められていないが1984年から85年にかけて大きなムーブメントが、新宿のとあるディスコビルで巻き起こっていた。今から考えるととても現実とは思えない、余りにも不思議なこの現象について書き記していきたいと思う」

「フリーフードでお腹を満たし、フリードリンクで酔っ払い、チークタイムでナンパする。何度も言うが、客は全員中高生である。社会人どころか大学生さえ一人もいない。こんな無茶苦茶な現象はこの先、二度と起こることはないだろう。まだ戦後の無秩序が染み付いた昭和の終わり、バブルの直前の浮かれた時代の出来事だ。飲酒だけでなくタバコにだって未成年に寛容だった」

おれは、当時は40歳というおやじだから、歌舞伎町で毎晩のように飲んでいたが、東亜会館に入ったことはない。70年代の後半つまりおれは30歳代後半、東亜会館の近くコマ劇場と隣接する東宝会館のディスコには何度か行った。ここは子供たちはいなかった。1年か2年のあいだに数回ぐらいか。そのころもチークタイムはあったね。

とにかく、あのころの歌舞伎町に渦巻く「熱気」はなんだったのか、気になっている。

みちくさ市の打ち上げにも、もちろん、参加した。ピスケンさんのことが話題になった。ピスケンさんのいない打ち上げは、いまいちノワールエナジーが不足気味で、さみしかった。

ピスケンさんといえば、最近、古本屋で見つけた『STUDIO VOICE』2006年12月号「90年代カルチャー」完全マニュアルという特集をパラパラ見ていたら、「BURST ピスケン(曽根賢)/インタビュー」があった。「90年代~ストリートの普遍を浮上させた男」と。なんとなく童顔が残る若さ。

「でも俺は赤田(祐一)さんが作った『クイック・ジャパン』があって、すごく助かった」といっていて、このあとの話もおもしろいんだけど、長くなるから略。

その「Quick Japan」赤田祐一/インタビューもあって、「若者が語る「愛と笑いと夜の事情」に時代を読んだ力業のニュー・ジャーナリスト」の見出し。赤田さんの写真の表情は、現在とあまりギャップがない。

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2018/09/15

都内で久しぶりのトーク。

10月5日(金)、高円寺の円盤でトークがあります。

おれは今月で75歳、「後期高齢者」ってのになる。もうすでに、都内へ行くのは疲れるし面倒だから、よほどの用がないと行かないようになった。せいぜい上野か池袋あたりまで、そこから向こうは霞んでいる。

だけど、これは、何をおいても、行きますね。

円盤の田口史人さんとなぎ食堂の小田晶房さんが隔月でやっているトーク「ぼやき万才」にゲストで招かれたのだ。

いま、このお二人に招かれるなんて、うれしいね~。

円盤と田口さんのことは、最近このブログによく登場している。おれにとって最も刺激的な人だ。

そして、小田さんは、ここのところこのブログで連続して紹介している「新しい食堂」の「ロングインタビューに登場している。やっぱり、刺激的な人だ。

お二人とも、個性的な生き方と活動(商売)が、とにかくすごいしすばらしい。

おれは、小田さんとはまだお会いしたことがないし、田口さんと小田さんが、円盤で「ぼやき万才」なんてのをやっていることも知らなかった。

お二人の「ぼやき」に混ぜてもらい、大いにぼやきたい。いまから、楽しみだ。

20時スタート、最初の1時間は田口さんと小田さんの「ぼやき万歳」で、21時ごろからおれが加わるという進行らしい。もちろん、おれは最初から行っている。

当ブログ関連
2018/08/08
円盤企画「URCレコード全部聴く会」。

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2018/09/12

「新しい食堂」と「かけめし」。

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スペクテイター42号「新しい食堂」にからんで、脳ミソがいろいろにスパークしたりシャッフルしている。

おかげで、かつて注目しなくてはならない動きだなと気にしていながら忘れていたことをいろいろ思い出し、以前に本を書いたときの資料などをほじくりかえして見ていると、なかなかおもしろい。

スペクテイター42号「新しい食堂」に登場する店や人たちに共通すること、それと関連することを、忘れないうちにちょろっとメモしておこう。

その一つ。「誌面に登場いただいた方々は、どなたも専門的に料理を勉強されてはおらず、独学でオリジナリティ溢れる料理を、適切と思われる範囲の価格帯で提供して好評を得ています」と「新しい食堂」の特集リードに赤田祐一さんが書いているように、「素人飲食店」の台頭だ。

「素人」が飲食店を始める例は昔からあるから、珍しい現象ではない。ところが、いまの新しい傾向は、自分の「より自由な生き方として」、飲食店経営を選んでいる。「新しい食堂」が指摘するところの、「フィロソフィー」や「ヴィジョン」があっての選択ともいえる。

そういう傾向を、おれが最初に知ったのはいつごろか調べたら、2001年のようだ。この年、「手づくり」がブームになるのだが、それは、料理の手づくり(餃子が流行った)ばかりでなく、ファッションもちろん、「手仕事」としての手づくりばかりでなく、自分流の生き方として自分の店を自分でつくってしまう、「生き方DIY思想」といえそうな、既成の型にはまらない生き方が若者のあいだに広がった。

渋谷の呑兵衛横丁は、当時は廃れる一方だったが、そういところへ20代の若者が出店したりなどがあった。その店は、2001年か02年に一度行ったことがある。検索したらまだあるようだが、食べログでは「店舗の運営状況の確認が出来ておらず、掲載保留」になっている。

「新しい食堂」でも、ちょっとふれられているが、レイモンド マンゴー『就職しないで生きるには』の発売が1998年で、その影響が広がっている最中でもあった。おれはこの本は読んでないのだが、「自由な生き方として」の飲食店経営の選択には、こういう思想の潮流も関係ありそうだ。

とにかく、そのこともあってだろう、店主たちの日常と、店の空間や運営や料理などとの隔たりが小さい状態になっている。

その二。「新しい食堂」に登場の飲食店の料理には、必ず「かけめし」がある。おれとしては、大変おもしろいし愉快なのだ。

拙著『ぶっかけめしの悦楽』と『汁かけめし快食學』には、「かけめし」は「汁かけめし」のことであり、ようするに、「めしに汁や汁気のあるおかずをかけて、ごちょごちょやってたべる」と書いている。

料理的には、めしとおかずを別々の容器に盛り分けてたべる「単品単一型」の美味追求に対し、かけめしの美味追求は「複合融合型」としている。つまり、かけめしは、一つの器による美味追求の料理なのだ。

丼物やカレーライスの皿物などがこれにあたるのだが、1999年発行の『ぶっかけめしの悦楽』では、まだ「ワンプレート・クッキング」という言葉は登場しないが、2004年の『汁かけめし快食學』には登場する。

この「ワンプレート・クッキング」あるいは、「丼物」をカタカナ風にいえば「ワンボール・クッキング」になるものが、「新しい食堂」の料理に必ずあるし、「マリデリ」のメイン「ブッダボウル」はワンボール・クッキングであり「ベジ丼」ともいえそうなものだ。

『ぶっかけめしの悦楽』のあとがきにあたる「かけめしはこれからだ」で、おれは最後にこう書いている。

「かけめしは権威や既成概念からの解放だ。料理の権威や既成概念があるかぎり、一方にかけめしの可能性がある。精神がのびのびと躍動する自由な料理や食事をめざしたい」

「めざしたい」と書いているように、これは、おれの主観的願望でありヴィジョンでもあるのだが、「新しい食堂」に登場する店と「かけめし」は、とても自由であり解放的だ。

この、その1とその2の傾向は、2008年のリーマンショクと2011年の大震災を経て、増大し顕著になっているようだ。

大阪から広がったといってよい「スパイスカレー」がけん引する最近のカレーブームも、そのころからであり、スペクテイター40号で「カレー・カルチャー」を特集しているが、こういう流れと軸は同じと見てよいだろう。

家庭でも、ワンボールやワンプレートが広がっているし、こういう変化は、まだまだ続くだろう。

これはやはり「新しいスタンダード」への流れなのだろうか。

とはいえ、「新しいスタンダード」は、多様性を基本にしているのだから、このカタチが支配的になることはありえないはずだ。その傾向そのものが「新しいスタンダード」といえる。

誰かがエラそうにしている一つや二つの価値観のもとではなく、多様な価値観が共存するようになる流れ。料理や味覚においても。

どれも、多様な展開の一つの位置であり、その相互関係によって全体が成り立つ。料理や味覚の楽しみも広がる。

ま、そうなるには、まだまだ時間がかかるだろうが。

「新しい食堂」での、「結局、食堂って何?」というおれの文章の最後は、「もっと自由で楽しい食事を!」だ。

料理も食事も、もっともっと自由でいい。イマ、そういう動きに活気がある。

世の中全体は抑圧的な方向へ動いているようだけど、大衆的な料理と食事の分野は、自由で多様な方へ向かっている。とにかく、ぶっかけめしみたいに、ごちゃごちゃがちゃがちゃ、おもしろいわけですよ。

当ブログ関連
2018/07/23
食の実践と卓越化。

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2018/09/03

「新しい食堂」と「新しい」。

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前のエントリーの関連だ。

「新しい」という言葉は、新しいだけで価値を持っているかのように使われることが、けっこうある。それは、たいがい「古い」を否定する意味が含まれていた。かつての流行語「ナウい」は、ほとんど、それだった。いまでも、「新しい」が「いい」という価値観の人は、けっこういるようだ。

「ナウい」が流行語になったのは、1979年だ。

「ナウい」という言葉が、何を「古い」として否定してきたかは、いま振り返ってみるとおもしろいし、それを知ることは現在の価値観を考えるうえで有意義だろう。

それはともかく、読んでもらえばわかるが、「新しい食堂」の「新しい」は、そういう意味での「新しい」ではない。

では、その「新しい」「イマ」は、事象として、いつからどう始まったのかというと、なかなか難しい。もしかすると、事象としては古代からあったかもしれないが、それを今になって気づいたという可能性だってある。何を「新しい」とするかは、認識のしかたや価値観が大いに関係する。

前のエントリーに「食に対する意識の変容のイマ。そこが、この本の焦点だ」と書いた。そこにあるように、「今まさに変容のときを迎えている」と編集の青野利光さんは述べている。

その変容が、いつごろから始まったのか、というと、これまたなかなか難しい。

ここ10年ぐらいのあいだに、目立つ潮流になったというのが、おれの実感なのだが、その始まりはおれの体験では、1980年頃になる。

最初は、どうなるかわからない、小さな点在する散発的に見える事象だった。それが次第に連続する事象になり、つながりあってふくらんでいった。

たまたま、おれはその「流れ」の中にいた。ま、「江原生活料理研究所」ってのが、そうだった。

それは、料理的に一言でいうと、それまでの「和洋中」のどれにも属しようのない料理といえるだろう。つまり、それまでの日本の味覚の価値尺度からは、はずれていたのだ。それを「新しい」と見るか「ヘンな」とか「おかしな」と見るかは、それぞれだが、後者が大勢だったと思う。

「新しい食堂」のロングインタビューの最初に登場するのは、「ウナカメ」の丸山伊太朗さんだ。「ウナカメ」では気がつかなかったが、丸山伊太朗さんは、1980年に中野北口で「無国籍料理食堂カルマ」を始めた人だ。2014年まで続け、再開発で閉店。「ウナカメ」は、その後の店名というか丸山さんのブランドというか。

カルマでは、まだ若くて無名時代の、高山なおみ(22歳から9年間)と枝元なほみ(25歳から8年間)が料理をつくっていた。高山なおみは、カルマから吉祥寺にオープンした「諸国空想料理店KuuKuu」に移った。「諸国空想料理」は、身も蓋もない「無国籍料理」という表現よりファンタジーがある。

「無国籍食堂」「無国籍料理」という言い方は、カルマ創業の頃、一般的ではなかったが、知る人ぞ知るという存在になった。おれがよく利用したのは、渋谷の宇田川町の奥にあった「スンダ」という店で、検索したら同じ店らしいのが今でもある。ここは「無国籍料理」を名のっていた。

同じ頃、多少前後するかも知れないが、タイ料理などをケイタリングでサービスするアートグループや、アフガニスタン料理(シルクロード料理?)などを、やはりケイタリングでサービスするグループなど、それまでの「和洋中」に属しようのない料理をゲリラ的に始める人たちがいた。かれらの何人かは、生活料理研究所の厨房を使うこともあった。

タイ人でもアフガニスタン人でもなく、そのあたりを放浪するように旅して来た人たちが始める例がほとんどだった。一方で、タイ人やカンボジア人など、現地の人が始めるレストランも生まれていたが、それは「タイ料理店」であり「カンボジア料理店」であり「インド料理店」などだった。それは当然のことであり、「無国籍料理」を名のったのは日本人だ。

80年代は、「エスニック料理拡大前夜」という感じで、そんな風だったのだが、そういう「無国籍料理」をやる人たちは、それまでの日本人の典型的な価値観や生活様式とだいぶ違っていた。

無国籍料理も、それに関わる人たちも「変態」のように見られていた。それがしだいに広がっていった。そのあたりは、「新しい食堂」のインタビューでも、よくわかる。

と書いていると長くなるから、今日はこれぐらいにしておこう。

そういう料理と人たち、その文化や価値観が、一つの潮流のようになっていくのは、1990年代後半ぐらいからだと思う。自由で多様な価値観の広がりでもあった。

それには、いろいろなことが関係するが、一つには、「幸せ」の変化もあるようだ。

以前、2014年5月28日にツイートして忘れていたが、最近リツイートしてくれた人がいて思い出した。ここにまとめておく。

「TASC MONTHLY」4月号に菊地史彦さんが「「幸せ」はいかに歌われたか」を書いていて面白い。著書の『「幸せ」の戦後史』(2013、トランスビュー)を読んでみたくなった。

1961年の「上を向いて歩こう」では「幸せは雲の上に 幸せは空の上に」だった。森高千里の「普通の幸せ」は97年。菊地史彦は「私たちは、40年近い年月を経て、「雲の上の幸せ」とは、「普通の幸せ」であるという簡明な認識にようやくたどり着いたのだ。ただし皮肉なことに」「日本社会が「普通の幸せ」を享受しにくい社会へ変わり始めたのも、ちょうどこの頃だった」と。

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