« 都内で久しぶりのトーク。 | トップページ | 昨日の続き。ディスコのフリーフードメニュー。 »

2018/09/19

鬼子母神通りみちくさ市、たまりあ×角田光代、東京キララ社。

1001

16日にちよーび、わめぞ一味が企画運営する鬼子母神みちくさ市へ行った。ちょっとだけ雨の心配があったが無事に晴れた。

連続トーク「談話室たまりあ~ステージ上の「私事」と「仕事」~」が13時半からなので、それに間に合うように行き、ざっと古本市を流して、いつもの塩爺やみどりさんなどに挨拶、トークの会場である雑司が谷地域文化創造館へ。

談話室たまりあは4回目だが、おれは初回と前回は都合が悪く、今回で2回目だ。ゲストが角田光代さんであり、いったいどんな話になるのだろう、まったく想像がつかなかった。そもそも「地下アイドル」もたまりあのこともまだそんなに知っているわけじゃないし、角田さんの作品もまとまったものはほとんど読んだことがなく、直木賞作家ということぐらいしか知らない状態。想像がつかないのがアタリマエなのだ。

20代2人と50代、インターネットがあってこその地下アイドルとオールドメディアがあってこその小説家、どう話が展開するか。

角田さんは話すのが苦手なのだそうで、それもあってか、最初はキンチョーの色があったが、たまりあの天真らんまーんな話しっぷりが巧み、なかなか楽しいトークになった。角田さんが、朝9時に仕事場へ行き5時終業を続けている、というようなことをいうと、たまちゃんが「会社員みたーい」「自制心つよーい」というかんじ。

りあちゃんこと小泉りあは、6月だったかな?地下アイドルからタレント・歌手へ転進、たまちゃんこと姫野たまは来年春に地下アイドルをやめる「脱地下アイドル宣言」をし、来年4月最後のイベントまで決まっている。たまちゃんの話では、地下アイドルをしている人たちは、次へのステップのためにやっている人がほとんどだそうで、たまちゃんはすでに文筆のほうでも活躍しているが、小説にチャレンジしている、だけどなかなか書けないのだそうだ。

角田さんは小学1年のときに小説家になろうとおもい、国語と作文を大事にしていたが高校を卒業するにあたり、作文は書けても小説が書けないことから、大学進学は創作をするための学科を選んだのだそうだ。おれなんか小学1年のころは、「小説」なんていう言葉すら知らなかったなあ。とにかく、トークは、私じゃない誰かや何かにならなくては小説は書けないということをめぐり、あれこれ盛り上がった。

日記をめぐる話もおもしろかった。角田さんは絶対に人に見られたくない日記をつけているそうで、それはゼッタイ見られたくない(夫にも見られたくない)から、ちゃんと病気になって死ぬ前に自分で片づける、と、決意かたく話す。角田さんのキチンとした仕事の仕方を聞いたあとには、この人なら、そんなふうにして死にそうなかんじがした。他人にゼッタイ見せられない日記は「黒日記」なのか。

とにかく、3人とも、ちゃんと考えて人生をやっているのだなあ。いいからかげんの成り行きで生きているおれとは大違いで、ただただ驚くばかり。

トークのあとは、たまりあの物販タイムだ。以前見たこの光景が興味がつきず眺めていたが、16時に終わる古本市へもどって、東京キララ社のブースをのぞいた。

このあいだから、70年代後半から80年代の背景としての「ディスコブーム」が気になって、ネット検索していたら、『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』という本が目にとまった。それが東京キララ社の発行なのだ。それを求め、手に入れることができた。

東京キララ社のブースには、いつものように石丸元章さんやピスケンさんなどがいてノワールの香りが漂っていたが、ピスケンさんの瘦せぐあいと肌の青白さに驚いた。

『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』は、期待を裏切らないおもしろさ、というか、おれにとってはいい資料だ。帯には「あの日に帰ろう」というキャッチがあるように、1983-5年頃、歌舞伎町の東亜会館のディスコが異様にもりあがった、当時中高生でその現場にいた人たちのための本ではあるが、今年で19回目を迎える当時を懐かしむ東亜会館の同窓生が集まるイベントもあるそうだ。すごいなあ。

ディスコブームもそうだが、とかく、80年代というと後半のバブルばかりが注目されがちだ、でも、変化は80年前後から始まっているのだ。そのあたりが、食文化も含めて、気になっている。

ところでこの本の著者は、東京キララ社の代表・中村保夫さんなのだ。装幀が、東陽片岡さんの本も多く手掛けている井上則人さんだ。

中村さんは、「まえがき」で、「その呼び名こそ定められていないが1984年から85年にかけて大きなムーブメントが、新宿のとあるディスコビルで巻き起こっていた。今から考えるととても現実とは思えない、余りにも不思議なこの現象について書き記していきたいと思う」

「フリーフードでお腹を満たし、フリードリンクで酔っ払い、チークタイムでナンパする。何度も言うが、客は全員中高生である。社会人どころか大学生さえ一人もいない。こんな無茶苦茶な現象はこの先、二度と起こることはないだろう。まだ戦後の無秩序が染み付いた昭和の終わり、バブルの直前の浮かれた時代の出来事だ。飲酒だけでなくタバコにだって未成年に寛容だった」

おれは、当時は40歳というおやじだから、歌舞伎町で毎晩のように飲んでいたが、東亜会館に入ったことはない。70年代の後半つまりおれは30歳代後半、東亜会館の近くコマ劇場と隣接する東宝会館のディスコには何度か行った。ここは子供たちはいなかった。1年か2年のあいだに数回ぐらいか。そのころもチークタイムはあったね。

とにかく、あのころの歌舞伎町に渦巻く「熱気」はなんだったのか、気になっている。

みちくさ市の打ち上げにも、もちろん、参加した。ピスケンさんのことが話題になった。ピスケンさんのいない打ち上げは、いまいちノワールエナジーが不足気味で、さみしかった。

ピスケンさんといえば、最近、古本屋で見つけた『STUDIO VOICE』2006年12月号「90年代カルチャー」完全マニュアルという特集をパラパラ見ていたら、「BURST ピスケン(曽根賢)/インタビュー」があった。「90年代~ストリートの普遍を浮上させた男」と。なんとなく童顔が残る若さ。

「でも俺は赤田(祐一)さんが作った『クイック・ジャパン』があって、すごく助かった」といっていて、このあとの話もおもしろいんだけど、長くなるから略。

その「Quick Japan」赤田祐一/インタビューもあって、「若者が語る「愛と笑いと夜の事情」に時代を読んだ力業のニュー・ジャーナリスト」の見出し。赤田さんの写真の表情は、現在とあまりギャップがない。

1004_2
1002

|

« 都内で久しぶりのトーク。 | トップページ | 昨日の続き。ディスコのフリーフードメニュー。 »