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2018/09/29

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」72回目、小岩・サンゴ亭。

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ここに掲載するのが新聞発行日から一か月遅れぐらいになる状態が続いていたが、今月は、まだ月内だ。もちろん、すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018092102000196.html

日替り定食のさば焼きを食べた。いつも焼魚や煮魚を食べたあとは、そのうまさの不思議を考えることになるのだが、このときもまたそうであった。とにかく、うまい。

という話は長くなるから、おいておこう。

やっぱり小岩はいい町だ。こじんまりとした食堂が、入口をからりと開けはなった姿は、見るだけで、なんだか気分がよくなる。それに、こじんまりとした小上がりがあるのだ。これがまた、いい。

今回は、ちょうど、スペクテイター42号「新しい食堂」を見たあとに行った。「新しい食堂」には、「食堂幸福論」というページがあって、三つの話が物干竿之介さんの画入りで載っている。その一つが「小上がり」のタイトルなのだ。

これは、春日武彦の『幸福論 精神科医の見た心のバランス』(講談社現代新書)に所収の「さまざまな幸福 宮崎市の大衆食堂」をもとにしている。

おれはこの本も話も知らなかったのだが、編集の赤田祐一さんが、そこのところを画像ファイルにして送ってくれた。読んだら、しみじみ味わい深い「幸福」の情景だった。簡単には言いたくないが、ほんと、名文だなあと、しばしぼんやりした。名文て、文章表現のテクニックのことだけじゃなく、そこにある視線や思考も大事だね。

この本で著者が、「世間一般では「これこそ幸福の見本である」とはみなさないだろうけれど、わたしとしてはそこにまぎれもなく幸福の尻尾というか断片を感じ取ったケースを、以下に1ダースばかり列挙してみることにしたい」とあげた一つに、宮崎市の大衆食堂でのことがあるのだ。

講演で宮崎市へ行き、一人でひっそりホテルに泊り、夜になって散歩がてら食事に出かけたときのことだ。

中心街から外れた場所らしい暗くて閑散とした街並のなかに、「一軒の大衆食堂がぽつんと明かりを灯していた」のを見つけ入った。

「野菜炒め定食を注文してからふと見ると、壁際に不思議なコーナーがあった」

そのコーナーというのが、木箱のうえに畳一枚を置いて小上がりに仕立てたものだった。座布団と卓袱台が置いてあり、「すなわち昔ながらの茶の間を切り取った光景が、まるで舞台装置のようにして床から七〇センチの高さに再現されていたのである」

そこにすでに先客が一人いて、新聞を広げビールを飲みながら餃子の皿を前にしていた。「完全に茶の間のミニチュア版なのである」

その客が帰ったあとだ。「するとテーブル席にいた別のおじさんが人の好さそうな顔つきで、「じゃあ、今度はわたしがくつろがせてもらいますかね」と言いながら、ビール瓶を片手にひょいと畳へ揚がり込んだ。そのあたりの呼吸が、あまりにも自然かつ楽しそうなので、わたしは思わず幸福な気分に浸されたのである」

こういうかんじの気分、おなじ場面ではなくても、あるねえ。このあとの春日武彦のまとめ方も、大衆食堂あるあるで、ほんといいんだなあ。そこは、省略。

サンゴ亭の小上がりは、木箱の上ではないが、寸法は変則的の四人は座るのが難しそうな座卓が二台あるだけの、ささやかな空間だ。その空間をテーブル席ではなく、小上がりにしているところが、いいじゃないか。

そこにはちょうど、一人の客がいて、注文の品が出てくるまで、新聞を広げテレビを見ながらくつろぐ景色があった。

それは、貧しい景色と見る人もいるかも知れないが、おれは、生活することを肯定したくなる、春日武彦の文を借りれば、「何だか、「世の中、捨てたもんでもないな」といった気分になってくる」のだった。

ま、大衆食堂では、こういう気分になるのはめずらしくないが、今回は、「食堂幸福論」の「小上がり」を見たあとでもあり、小上がりの幸福論的に書いてみた。お膳のすみにちょこんとある、ささやかな小鉢まで、小上がりのように幸せ気分を運ぶのだった。

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