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2018/09/03

「新しい食堂」と「新しい」。

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前のエントリーの関連だ。

「新しい」という言葉は、新しいだけで価値を持っているかのように使われることが、けっこうある。それは、たいがい「古い」を否定する意味が含まれていた。かつての流行語「ナウい」は、ほとんど、それだった。いまでも、「新しい」が「いい」という価値観の人は、けっこういるようだ。

「ナウい」が流行語になったのは、1979年だ。

「ナウい」という言葉が、何を「古い」として否定してきたかは、いま振り返ってみるとおもしろいし、それを知ることは現在の価値観を考えるうえで有意義だろう。

それはともかく、読んでもらえばわかるが、「新しい食堂」の「新しい」は、そういう意味での「新しい」ではない。

では、その「新しい」「イマ」は、事象として、いつからどう始まったのかというと、なかなか難しい。もしかすると、事象としては古代からあったかもしれないが、それを今になって気づいたという可能性だってある。何を「新しい」とするかは、認識のしかたや価値観が大いに関係する。

前のエントリーに「食に対する意識の変容のイマ。そこが、この本の焦点だ」と書いた。そこにあるように、「今まさに変容のときを迎えている」と編集の青野利光さんは述べている。

その変容が、いつごろから始まったのか、というと、これまたなかなか難しい。

ここ10年ぐらいのあいだに、目立つ潮流になったというのが、おれの実感なのだが、その始まりはおれの体験では、1980年頃になる。

最初は、どうなるかわからない、小さな点在する散発的に見える事象だった。それが次第に連続する事象になり、つながりあってふくらんでいった。

たまたま、おれはその「流れ」の中にいた。ま、「江原生活料理研究所」ってのが、そうだった。

それは、料理的に一言でいうと、それまでの「和洋中」のどれにも属しようのない料理といえるだろう。つまり、それまでの日本の味覚の価値尺度からは、はずれていたのだ。それを「新しい」と見るか「ヘンな」とか「おかしな」と見るかは、それぞれだが、後者が大勢だったと思う。

「新しい食堂」のロングインタビューの最初に登場するのは、「ウナカメ」の丸山伊太朗さんだ。「ウナカメ」では気がつかなかったが、丸山伊太朗さんは、1980年に中野北口で「無国籍料理食堂カルマ」を始めた人だ。2014年まで続け、再開発で閉店。「ウナカメ」は、その後の店名というか丸山さんのブランドというか。

カルマでは、まだ若くて無名時代の、高山なおみ(22歳から9年間)と枝元なほみ(25歳から8年間)が料理をつくっていた。高山なおみは、カルマから吉祥寺にオープンした「諸国空想料理店KuuKuu」に移った。「諸国空想料理」は、身も蓋もない「無国籍料理」という表現よりファンタジーがある。

「無国籍食堂」「無国籍料理」という言い方は、カルマ創業の頃、一般的ではなかったが、知る人ぞ知るという存在になった。おれがよく利用したのは、渋谷の宇田川町の奥にあった「スンダ」という店で、検索したら同じ店らしいのが今でもある。ここは「無国籍料理」を名のっていた。

同じ頃、多少前後するかも知れないが、タイ料理などをケイタリングでサービスするアートグループや、アフガニスタン料理(シルクロード料理?)などを、やはりケイタリングでサービスするグループなど、それまでの「和洋中」に属しようのない料理をゲリラ的に始める人たちがいた。かれらの何人かは、生活料理研究所の厨房を使うこともあった。

タイ人でもアフガニスタン人でもなく、そのあたりを放浪するように旅して来た人たちが始める例がほとんどだった。一方で、タイ人やカンボジア人など、現地の人が始めるレストランも生まれていたが、それは「タイ料理店」であり「カンボジア料理店」であり「インド料理店」などだった。それは当然のことであり、「無国籍料理」を名のったのは日本人だ。

80年代は、「エスニック料理拡大前夜」という感じで、そんな風だったのだが、そういう「無国籍料理」をやる人たちは、それまでの日本人の典型的な価値観や生活様式とだいぶ違っていた。

無国籍料理も、それに関わる人たちも「変態」のように見られていた。それがしだいに広がっていった。そのあたりは、「新しい食堂」のインタビューでも、よくわかる。

と書いていると長くなるから、今日はこれぐらいにしておこう。

そういう料理と人たち、その文化や価値観が、一つの潮流のようになっていくのは、1990年代後半ぐらいからだと思う。自由で多様な価値観の広がりでもあった。

それには、いろいろなことが関係するが、一つには、「幸せ」の変化もあるようだ。

以前、2014年5月28日にツイートして忘れていたが、最近リツイートしてくれた人がいて思い出した。ここにまとめておく。

「TASC MONTHLY」4月号に菊地史彦さんが「「幸せ」はいかに歌われたか」を書いていて面白い。著書の『「幸せ」の戦後史』(2013、トランスビュー)を読んでみたくなった。

1961年の「上を向いて歩こう」では「幸せは雲の上に 幸せは空の上に」だった。森高千里の「普通の幸せ」は97年。菊地史彦は「私たちは、40年近い年月を経て、「雲の上の幸せ」とは、「普通の幸せ」であるという簡明な認識にようやくたどり着いたのだ。ただし皮肉なことに」「日本社会が「普通の幸せ」を享受しにくい社会へ変わり始めたのも、ちょうどこの頃だった」と。

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