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2018/11/12

大革命。

近ごろは、あんまり「革命」ということばを聞きもしないし見もしないな。どうしたの、みんなビビっているのか。

80年代前半の中曽根内閣のころから「改革」がハヤリになり「革命」は廃れた、ように見えるが、そうでもないな。

いまの家に引っ越したのは、10年前の10月21日だった。

それで何が変ったって、台所のレンジがガスからアイエイチになったのだ。

それまでは、炎が見える火力を使って料理をしていた。

その火力のもとは、薪が炭や石炭、石油からガスになっても、太古の昔から炎が見えていたのだ。

「火」とは、見えるものだった。

それが、炎がないアイエイチってやつになった。これは「火」のようだが「火」ではない。つまり「火」を使わないで料理をするようになったのだ。

有史以来の大革命に、おれは遭遇した。

「火」は見えないが、「熱」は得られる。

「火」から「熱」へ。

「ファイアー」ではなく「カロリー」。

この「ファイアー」と「カロリー」のあいだには、いろいろありすぎる。電磁波じゃ~とか、波動じゃ~とか。なんじゃそれ。

とにかく、なれるのに、けっこう時間がかかった。とくに炒め物は、最近ようやっと、なんとかなったかな、という感じだ。

そのなんとかなったかな、ってのは、ようやっとアイエイチの前ぐらいになったかな、ということではない。もっとちがう次元の、なんとかなったかな、という感じなのだ。

この比較はヒジョーに難しいが、革命とは、そういうものなのだな。たぶん。

ようするに、「見える火力」と「見えない火力」が、認識できたし自覚できた。まだ、よく理解しているかどうかは、わからない。

おれは革命に参加して、悪くないネ、やりようだネ、ていどの感想は持った。だからといって、これはゼッタイにイイと、ひとにすすめはしない。革命が悪いからではなく、それぞれが判断することだからな。

熱源のちがいが料理の「味」に影響することはたしかだろうけど、それをコントロールする人間の文化があり、さらに食べる文化がある。熱源は科学だが、味覚には文化がからむ。

アイエイチを批判するひともいるし否定するひともいる。そういうひとには、たくさん遭遇した。おれは、素直に聞いていた。まあ、人類が「火」を使いはじめて以来の初めての革命だからねえ。フランス革命やロシア革命どこじゃないわけ。

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2018/11/11

「食べる」を「まじめに考え、もっと楽しむ」。

きのうのテキストにある「まじめに考え、もっと楽しむ」は、西江雅之著『食べる 増補新版』(青土社、2013年)の帯にあるオコトバだ。

とてもよい、すごくよい、と思った。

「まじめに考える」と「楽しむ」は、相いれないような扱いを受けていることがめずらしくない。そして、「食べる」となると、考えることを停止し、しかし脳ミソのなかにためんこんだ知識を総動員してウンチクを傾けたりしながら、テレビタレントのように、誰が見ても「楽しそう」な、大根役者のような教条的な表情とことばを放出する。「オイシイ~」

それもまあいいだろう、おれのしったことじゃない。だけど、もしそのとき「うまい」と思ったら、「うまい」ってなんだ、ワタシの生理か心理か文化かぐらいは、ヒマなときに考えてみるのも悪くない。「うまい」には、たぶんに食文化が関係している。

でも、「食文化とは」となると、なかなか複雑で説明しにくい。実際のところ、説明せよといわれると困ってしまう。生理や心理や社会など、雑多にいろいろな次元のことが関係し、『世界の食文化 16 フランス』(農山漁村文化協会、2008年)を著した北山晴一は「複雑性の罠」といったぐらい、ややこしいのが「食」の分野だ。

だからあまり考えずに、ワタシはうまいものや食べ物について詳しいのヨってな顔をして、これはサイコー、日本一だ、世界一だ、とでも、少しばかり文学的に気どりながら断言しちゃえば、あら不思議それを信じちゃう人も少なくない。世間とは、そういうもので、たいがいのグルメ本とか食べ物の話は、そうして成り立っている。

「食文化とは」についてふれている、適切な本は何冊かあって、先駆者といっていい石毛直道などは、詳しく述べている。彼の食談義はおもしろいのだけど、彼は文化人類学者であり、文化人類学は、「文化」×「人類」だから、その眺めは広大で、いざ学問的立場で食文化を語るとなると、すごく広大なのだ。おれのようなシロートは、もっと整理してくれるとありがたいんだがなあ~と、わが脳ナシ頭をうらむことがたびたび。

ところが、この『食べる 増補新版』は、食文化論の急所を、身近なことにブレイクダウンし「七つの要素」をあげて説明している。

本書の構成は、三つにわかれていて、その「Ⅰ」と「Ⅱ」の一部が「食文化とは」に直接関係する内容だと判断できる。

「Ⅰ」は、「「食べられるもの」と「食べ物」」 「「文化」としての「食べ物」」 「コミュニケーションとしての「食べ物」」 「「食べ物」と「伝統」」の四つにわかれている。

「Ⅱ」は、九つの話があるが、「「ことば」を食べる時代」が、とくに大事だと思った。

小見出しレベルをあげると、こんなぐあいだ。

「人間にとって大切なもの」 「「食べられるもの」と「食べ物」」 「「食べ物」と文化」 「文化とは何か」 「五つのポイント」 「「どのようにか」という文化」 「「どのようにか」食べる」 「七つの要素」 「「昔」ということの曖昧さ」 「「伝統」が意味するもの」 「伝統を「創る」」 「伝統は構成要素の束」 「伝統は「未来」である」 「「食べ物」の話題の変化」「「美味しい」とは何か」「亡食の時代」「「ことば」を食べる」「「ことば」先行型商品の問題」 「「実」にこだわる」

ってことで、「七つの要素」は、①ことば、②人物特徴 ③身体の動き ④環境 ⑤感情・情動 ⑥空間と時間 ⑦人物の社会背景 をあげ、一つひとつ説明している。

具体例では違和感のある記述もあるが、基本的なところは豊富な経験と学識をもとにまとめられているから、とてもありがたい。

せっかく毎日「食べる」のだし、人によっては大いに食べ歩いているだろう、その体験を体験でおわらせることなく、かつ自分本位の認識と理解におわらせることなく、あるていど「客観的な尺度」で考えてみたい。すると、ますます「食べる」が楽しくなるというわけだ。

それに、コイツ、ずいぶんひとりよがりのおかしなことをいっている、ということが自分のことも含めて見えてきて、大いにリテラシーに役立つのだな。

「ことば」を食べる時代」だからこそ、食べるを楽しむために、「まじめに考えて」が不可欠になっている。「食べる」世界は、広大だ。まだまだその広大さに気が付いていない。小さな世界に閉じこもり、食べることでエラそうにするのは、やめにしようぜww

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2018/11/10

「共」と「個」×「食」。

きのう、インターネットで拾ったニュース。

河北新報は「<仙台市給食>「野菜高騰でモヤシ料理増えた」 予算目減り、厳しい実態」と、栄養レベルの低下も心配なようす。

いっぽう、天下の日経新聞の「日経MJ」は「全国で高級レストランが続々と誕生しています。高級店に通う食通の富裕層で注目を集めるのが、イノベーティブ料理」と、かつてのバブル後期を思わせる「富裕」ぶり。

「日経MJ」の「MJ」は、「マーケティング・ジャパン」の略。

マーケティングってのは、金のないやつは相手にしない。というか使う金があるやつだけを相手にする。その使う金の多い少ないにあわせて動く。それで市場は成り立っているし、そういう市場が成り立っていなくては、いまの資本主義の世間は成り立たない。

というわけで、マーケティングは、ミもフタもないほど、現状をあらわにする。いったい、この高級レストランへ行ける人たちって、どういう人なのだろう。そういう人たちが、きっとアベノミックスバンザーイなんだろうねえ。

その現状だが、この記事に、ある店で食べた男性客のコメントが載っているけど、40代なんだな。使える金の多い少ないは人によって異なる。ってわけで、アラフォー40代をねらえ!ってことで、たいがいのマーケティングは、ここへ傾れこんでいる。メディアは、40代を注視し、大事にしている。

でも、同じ40代でも、いろいろだ。子供のいるサラリマーンなら、とても無理ね。おれの知り合いにも、丸の内あたりの大会社に勤めていて給料も悪くはないけど、子供が2人いて、これから中学、高校へと向かう。自分への「ごほうび」でも、外飲食は3000円が上限。

ま、とにかく、貧乏労働者には、別のマーケティングが用意されている。メディアは、そういう「選別」の役割も担っている。近ごろのメディアは、経済資産だけじゃなく文化資産とやらも重視し、人びとを選別する。

が、しかし、この世は「市場」がすべてではない「社会」がある。近ごろは、「市場」と「社会」の区別のつかない人が、メディアで名を売っている、いわゆるオピニオンあたりにもけっこういるし、マーケティング屋が社会学者のような顔をしたり、実際に何かしらを売って商売になっていることをして食っているのに金儲けは「悪」のようにいう人もいる。それはまあ、社会が新自由主義の市場原理で動くようになったことも関係するだろうけど、知性ある知的なみなさまが、市場と社会の区別もつかなくなるのは、困ったことだ。

そりゃそうと、その日経MJの記事の見出しには、「おいしさの先へ、食はアート」「「作品」を堪能」だってさ。

うへぇ~、料理は「芸術」とかいっていた、あのバブルのころと同じだよ。「作品」って、そんなに高級でエライのかなあ。

いや、「作品」、けっこうですよ。おれなんか、200円で5尾もパックされているイワシの丸干しを、日々「作品」にするため創造力を働かせているもんね。もう毎日、安い材料で時間をかけず大きな満足や驚きと感動をつくりだす「作品」のため、革新と創造の「イノベーティブ料理」に取り組んでいるんですよ。

ああ、もう書くのがメンドウになってしまったのに、タイトルの「共」と「個」×「食」について、まだ何も書いてない。どうしよう。

前のエントリー「「サードプレース」と苔むす感覚。」の関連なんだが。

これからの「サードプレース」には、「個」と「共」と「食」の関係を忘れてはいけないね。

前のエントリーでは、「職場と自宅」「仕事と私事」をあげたが、もっと深いレイヤーでは「「共」と「個」」になるんじゃないかな。

まだほかに「公人」と「私人」ってのがあって、安倍首相夫妻の縁故主義と公私混同が取り沙汰されたけど、追及するほうは、この「公人」と「私人」という論理にハマってどうにもならなくなった。

近年、いつごろからか、たぶん「自己責任」キャンペーンからのような感じがするけど、「人間として、どうか」という視点が、どんどん後退しているんじゃないかな。公人だろうが私人だろうが、「人間として、どうか」という問いかけがない。

ま、そのことはおいとくとして、「職場と自宅」「仕事と私事」「公人と私人」という枠組みのレイヤーでああだこうだいっているうちは、「食」は、さっぱり深まらないね。

「共」というのは「公共」の「共」であり、「共有」の「共」であり、「共生」の「共」であり、「共食」の「共」だ。「共産」の「共」は、おいておこう。

「個」は、「個性」の「個」であり、「固有」の「個」であり、「個体」の「個」であり、「個人」の「個」であり、「個食」の「個」だね。

平成30年間の食文化上の大ジケンといえば、食育基本法の成立と施行だろう。おれは、一貫して反対だったし、いまでも反対というか廃止にしたいと思っている。

これは「食」と「共」と「個」が関係する大きなモンダイであり、食文化からすれば「共」と「個」のために、食育基本法なんていうものは許されるものじゃない。

だいたい、もうすでに、あの「食事モデル」だって、どうなったの。最初から成り立たないものをモデルにしてたんじゃないのか。だいたい、家族と労働の変化という背景を無視して、広がる「個食」と「孤食」を悪にしたてた食育基本法推進の論陣からして、「家族主義」と「栄養主義」の偏見に満ちていた。

もっと、食文化について「まじめに考え、もっと楽しむ」ことが必要なのだ。

ところが、その食文化となると、「一汁三菜」の伝統だのなんだの「日本独自の食文化」からの、リクツにもなっていないような「和食バンザイ」「和食スゴイ」なリクツが大手をふって、それから「食文化」は口にするけど、なんだか文学的だったりアートだったりするのが食文化であるようなことで、もういいかげんにしてくれ、といいたいね。

書くのが疲れた。トシだなあ。

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2018/11/08

「サードプレース」と苔むす感覚。

近ごろまた「サードプレース」なる言葉を目にするようになった。

この言葉、ま、カタカナ語にありがちのことだが、勝手な解釈がひとり歩きし、イマイチ実態がわからないところがあった。

それぞれが勝手な解釈をして、「いまおれはサードプレースにいる」「ここがおれにとってのサードプレースだ」といったことで、どんどんイメージがふくらむのは、いいことかもしれない。

だけど、職場でも自宅でもないところで、ノートパソコンで仕事をしていながら、「いまおれはおれのサードプレースにいる」なんてツイートされると、それって単なる「ノマド」じゃねえのと思ったりするのだった。

「プレース」であるから「場所」であって「場」ではないのだろうが、どうも「私事の場」でもない「仕事の場」でもない、中間的な場が「サードプレース」ではないのかと思ったりした。

自宅でも職場でもない「第三の場所」ってだけのことなら、昔から存在した、地域密着の大衆食堂なんてそういうものだったし。いま、「サードプレース」というなら、もっと何かあるだろう。

スペクテイター42号「新しい食堂」に寄稿した「結局、食堂って何?」の最後の見出しは「"もう一つの場所"のために」になっている。

そこでは、鎌倉の立ち飲み「ヒグラシ文庫」店主の中原蒼二さんが、著書の『わが日常茶飯 立ち飲み屋店主の御馳走帳』に書いていることを引用した。中原さんは、2011年3月11日の東日本大震災と東電原発事故の体験から、「家と仕事先だけではなく、もう一つの場所が必要だ」と切実に感じ、それを「自分で作ろう」と開業を思い立った。

これも文面だけ見ると「場所」になるのだが、「もう一つの場所」で得られる人間関係のことをぬきにしては意味がなくなる。

「場所」には、いろいろなことが関係しているのだ。「サードプレース」たりうるには、いくつかの条件あるいは要素それと機能が必要なのだな。それは、私事と仕事の中間になりうることのようだ。

と、最近の20代の若い人たちと話していて気が付いた。仕事でもないし私事でもない、だけど自分が生きるうえで必要なことや大切なことがあるのだ。友達と好きなことをやったり、とか。

消費社会では、いわゆる中央につながる大きなシステムで暮らしていると、仕事と私事だけで成り立つ生活もある。だいたい、そういう生活が拡大して、「コミュニティ」が分解してしまった。いまでは、「コミュニティなんていらないね」という人もいる。仕事とカネと私事がうまくまわっていれば、そうなってしまう社会もある。

それを「人間として、どうか」と考える人もいるのだな。

「売り」と「動員」にあけくれる「コミュニケーション」に疲れる人もいる。そんなのは「プロモーション」で「コミュニケーション」じゃないだろうと考える人もいる。

おれは「世代論」なるものは、あまり関心はないのだが、ジジイになると、そういうことに鈍感になるのもたしかだ。ま、ほんとうはトシのせいではないだろうと思うが、「人間として、どうか」と考えるフレッシュな感覚にコケが生えているようだ。

えと、何の話だったかな。

埼玉は、「サードプレース」的に面白くなりそうなところが、いくつか生まれている感じだし、まだ生まれそうだ。東京=中央に熱をあげるより、自分たちで何かやろう、自分たちで何とかしていこうという、DIYやインディーズのカルチャーを2,3年前ぐらいから感じていたのだが、けっこう腰の座った動きのようだ。もちろん、飲食がらみ。

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2018/11/06

「食べる」と「生きる」。

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「体育会系」と「文化系」という言い方がある。「体育会」という言い方からすれば、もとは大学のスポーツ系と文化系のサークルの分類からきているのかな。

「体育会系」というと、たいがい「無教養」で「無知性」で「野蛮」で「品がなく」て「思考停止」の「精神主義」の、ようするに「バカ」という感じに使われることが多いようだ。「スポコン」なんていう言葉もある。

対して「文化系」ということらしいのだが、こちらはとても「知的」で「品があり」「教養がある」という感じになっている。

という差別的なイメージのふくらみは、たいがい、かつてのメインカルチャーの活字文化を握ってきた、「文化系」がつくりあげたものだと言っていい。「文化系」は、じつに陰湿なのだ。自分たちの文化的思想的リードのまずさも、誰かのせいにしてしまう。

その陰湿さは、最近の新潮社の『新潮45』問題をめぐる、カタの付け方にもあらわれている。もうカタがついているのかな?

「体育会系」なら、新潮社の社長が出てきて、過ちをおかした普通の会社の社長たちがみっともなくもよくやるように、頭下げるなり土下座するなりして「からだ」で謝罪を表現するところだが、『新潮』に権威ある文学者の「文」をのせてチョンにしようとしているようにみえる。

あわれなのは、権威ある出版社という権力構造に利用されるだけのモノカキ屋、か。

そのモノカキ屋が商売に使う「言葉」。

「体」と「文」をめぐる、差別的な言動や確執、これはどうやら漢字導入後の日本語からきているらしい、とみることができそうだ。

「食べ物と「食べる」と「生きる」は密接で生活の根本なのに、長いあいだ「文」のリーダー格であったらしい文士や作家とか文化人とかは、もっぱら趣味や文学として「食べ物」をあつかってきた。それが、いわゆる近代のオピニオンの風潮であり、一般人のあいだにも広がった。そこで70年代、あえて「生活料理」という造語が生まれた、ということは『大衆めし 激動の戦後史』に書いた。

どんどん「食べる」と「生きる」ぬきの「食べ物(うまい物)」話が広がった。

ところで「文」の人たちは、なぜこうも、「食べる」と「生きる」から離れ、「食べ物」を趣味や文学としてだけあつかうようになったのだろうか。

これは、なかなかおもしろいことだ。

2018/11/03「「文化」と「カルチャー」。」の「カタカナ語の氾濫は日本語批判である」の関連だが。

表意文字の漢語が入って、それまでの和語から生理である「音」が犠牲になった、明治以降その生理的に欠陥のある日本語教育をつづけてきた。ということのようだ。

「そもそも言葉は第一義的には知的なものではなく、多分に生理的なもの」なのだが、ゆがんでしまったのだなあ。そういう言葉で教育されてきた、おれもあんたもあんたも、ゆがんでいるわけだが。「文」屋がエラそうにしているのも、「文」屋をやたらあがめたてまつるのも、そういうゆがみだ。

とくに明治以降の「文」の人たちのあいだでは、「食べる」と「生きる」から「食べ物(それも、とくにうまい物)」を離して語るようになった、それは生活的でも生理的でもなく、とても知的に気取った作業だったのですね。そして、大めしをワッシワッシとかっこむことは、低次元の生理的な食べ方で、品がなく野蛮なことにされた。

とにかく、漢字文化の日本語教育のおかげで、言葉は知的で品がなくてはダメ、ってことになったわけだよ。この抑圧は強いね。おれのように下品で野暮な男は、負けそう。

知的であり品があることが、「文」を通じて、とても大切にされるようになった。肉体労働は見下される。

ところが、1980年代、平成になってから、「食べる」と「生きる」が一緒に大いに語られるようになった。そこには「からだ」や「いのち」という言葉もよく使われている。

それなりの背景があるのだが、それはともかく、「ビーガン」や「ベジ」などの言葉が、普通になってきたのをみるにつけ、カタカナ語の氾濫は、言葉は知的でければならないとして生理としての「音」を犠牲にしてきた漢字文化への「ノー」であるというのは、なんとなく、わかる。

音楽、じゃなく、ミュージックの分野では、ビジネスの分野以上にカタカナ語が多いようだし。

「食べ物」と「食べる」と「生きる」がつながって、生活の中の言葉が豊かになっていくのだろうか。そこに、カタカナ語が、昔からあるふりをしておさまっていくのだろうか。「マカロニサラダ」や「ライス」のように。

「体」と「文」のあいだは、どうなっていくのだろう。

気取るな、力強くめしを食え!ってことですよ。

これ、カタカナ語にすると、どうなるのだろう。

画像は、『太陽』1994年10月号。「作家」たちは、大いに「食べ物」を語ったのだが。

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2018/11/05

平成の食カルチャーと「デフレ」。

きのうは「平成の食文化」と書いてみたが、きょうは「平成の食カルチャー」と書いてみた。

平成の食カルチャーに与えた衝撃つまりインパクトをキーワード的にあげると、きのうの「エコロジー」「ファジー」のほかにいくつかあるが、下半身直撃のインパクトといえば、なんといっても「デフレ」だ。

ってわけで、資料をいろいろ見ていたら、きのう書いたことに関係する話があった。

2000年ごろから、「デフレ時代の生活術」として「「手づくり」ブーム」が注目された。それは、じつは、従来の「手づくり」とはちがうカルチャーを持っていたのだが、いろいろな新しい展開を見せている。たとえばスペクテイター42号「新しい食堂」にも見られるように、シロートが飲食店を開いたり、いろいろな分野に進出しているのだ。

これには、平成の食カルチャーに大きな影響を与えた「インターネット」も関係している。おれがパソコンを買ったのが2000年暮れで、翌年の2月に「ザ大衆食」のサイトを開設したころは、インターネットが急速に拡大していた。ホームページも新しい手づくりメディアであるのだけど、デフレとインターネットと手づくりが交差し、食カルチャーは変容していく。「餃子ブーム」も、その一つだ。

それはとにかく、そのきのう書いたことに関係することだが、2001年ごろの「手づくり」ブームをリードしていた雑誌に、マガジンハウスが発行し「シロートが発信する雑誌」といわれた月刊誌『MUTTS』がある。

その編集長だった秦義一郎さんが、こんなことを言っていた。

以下引用・・・・・・・・・・・

工業社会の時代には、価値の規準は一つ。食でいえば、グルメ評論家の山本益博氏の意見に大勢が追随します。今は、一人一人に固有の規準があって、それはウマイとかマズイではなく、自分の好み。それを自由に料理で表現できるようになっているのです。雑誌で素人が変な料理を披露しても、昔なら無視されるのが、今は1万や2万の賛同者や模倣者がいて、ウマイと言ってくれる。どんなに趣味が悪くても、賛同者はいて、それを認めないといけない時代。一人一人のアイデンティティを認める個人主義が、ようやくこの国にも始まったのかなと思いますね。

・・・・・・・・・・・・・・・

「一人一人のアイデンティティを認める個人主義が、ようやくこの国にも始まったのかな」

そして10数年がすぎた。

『MUTTS』のような、シロートが発信する雑誌など必要ないほどインターネットが普及し、日々、いろいろな「変な料理」がたくさん登場し、たくさん「いいね」がついたりする。飲食店でも、店主の個性や生き方と提供する料理やサービスのギャップが小さくなっている。

一方で、そういう「変」を認めない人たちもいる。なにより飲食店や食べ物選びでは「外れ」をひきたくないという考えも根強い。冒険や失敗を避けたい気持は、デフレで、ますます強まったともいえる。昭和に支配的だった一つの価値観一つの方向を向いて「質」を求めるヒエラルキーの構造は、もはや全体を支配するほどではないが、大勢であって、均質化均一化も進行しているのだ。

個人主義の歴史は浅い。「個性」を認めあうことについては、まだ子供のレベルともいえる。

そのあたりでもみあっている。

当ブログ関連
2015/05/31
1995年、デフレカルチャー、スノビズム。

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2018/11/04

平成の食文化と「エコロジー」「ファジー」。

バブル真っ盛り平成のしょっぱなに流行っていたのは、ディスコだけじゃない。「エコロジー」と「ファジー」がブームだった。

どちらも、70年代後半ぐらいから、学術業界方面では話題になっていたが、80年代後半には、大手ナショナルブランドの大量生産商品の名前や広告に使われるほどになった。ファッション業界は「エコカラー」のファッションを売り出し、家電業界では「ファジー」な電化製品を開発した。

「エコロジー」と「ファジー」というが、本来の意味以上に、じつにいろいろなことが絡んでふくらみ、食文化への影響も半端じゃなかった。いまでいう「マクロビ」などは、このあたりのことをぬきには考えられないし、いまでも、いわゆる「和洋中」という盤石に見えた近代日本食の大きな構造をゆさぶり続けている。

「食堂が根をはった日常が大きく動いたのは、一九八〇年代だ。それまでは、たいがい収入差はあっても、成長する工業社会のもとで工場のサイレンに合わせるかのように同じリズム同じ方向を維持し、終身雇用年功序列の同じ出世双六ゲームを競っていた。日常もわりとわかりやすかった。「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界だ。」

と、スペクテイター42号「新しい食堂」に書いたのだが、みんなが同じ一つの価値観に向かってイケイケの工業社会は、70年代中ごろからの2回のオイルショックもあって、かなり雲行きがあやしくなっていた。

で、工業社会を支えてきた科学技術の背骨のような思想として、「デカルト主義」その「要素還元主義」が見直されたり批判にさらされる一方で、「エコロジー」や「ファジー」などが、いままでとちがう、これからの価値観として注目され話題になった。それを、大手のマーケティング屋が商売に利用することで、ブームにまでなったのだ。

大手のマーケテイング屋が商売に利用するからには、それなりの目算があってのことだが、マーケティング屋は同時に、従来の一つの価値観に向かったマーケティングも怠りなくやっていた。それは「品質至上主義」ともいえるもので、バブルのころには「いいものをつくれば売れる」という、工業社会の遺訓のようなものを引きついでいた。

「グルメ」の分野でいえば、80年代前半に料理評論家として売り出した山本益博さんに追随するような風潮だ。長いあいだの集団主義は、そうは簡単には変わらない。一つの価値観に向かっての、ステレオタイプや善悪二元論や二項対立といった右往左往は、いまだって続いている。

平成になったからといって、昭和の工業社会の一元的な価値観がいきなり変わるわけじゃないのだな。ましてや、高度成長という成功に酔ったことがある文化だ。それが親から子に伝えられ、平成になってからも「プロジェクトX」なんてのもあったしなあ。

「サザエさん」「ちびまるこちゃん」型の世界観は続いている。それは、個人主義が未成熟で、家族という集団の中の個人主義ていどのものだったことが関係していたようだ。

その個人主義が、しだいにエコロジーやファジーと絡み合い、自立性を獲得していく。そこには、これまでの「和洋中」とはちがう「第三世界」の文化と料理が見られることも多い。「第三世界」の文化と料理は、スーパーの陳列棚まだ変えてしまった。

一方で、工業社会の流れの「いいものつくれば売れる」の教条主義は、本来は対極にあったはずの「エコロジー」や「ファジー」と絡み合い、その品質至上主義はマクロビ食品や純米酒といった先祖がえりのような「本物主義」と仲良くしたり、「フード左翼」でありながら「フード右翼」である複雑な関係が生まれていく。まさに「ファジー」なんだねえ。

乱交状態のようないろいろな絡み合いで平成の食文化は、多様化し複雑化するのだが、その根っ子をさぐると、「エコロジー」と「ファジー」が出てくるというわけなのだ。

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2018/11/03

「文化」と「カルチャー」。

今日は「文化の日」だそうだ。

もとは明治天皇の誕生日で「明治節」といったものが、戦後の「民主主義の時代」にあわせて「文化の日」になったとか。そうやって戦前も生きのびている。日本料理界にも、天皇家の御威光を笠にきている人がいますな。

「文化」のかわりに「カルチャー」という言い方があって、近ごろは、「カルチャー」がよく出回っている。

おれの体験では、70年前後か、「サブ・カルチャー」や「カウンター・カルチャー」あたりから「カルチャー」を使うようになったが、それ以外で「カルチャー」を使うことはあまりなかった。

70年代ぐらいから、カタカナ語の氾濫がすごくなり、「ビジネス」は普通に流通するようになったし、そのビジネスのステージでは「コンセプト」や「ポリシー」や「クリエイティブ」や「ロイヤルティ」、それから「アイデンティティ」なんてのが広がり始めたし、食品の商品名もカタカナでないと売れないといわれた。多様化が進行する80年代は、さらにすごいことになった。

けっ、カタカナ語なんか使ってかっこつけやがって、と、おれは思いながらも、仕事では、けっこう使っていたね。なにしろマーケティングの手法は、ほとんどアメリカ伝来だから、仕方ないのだ。

でも「文化」については、「文化」で通すことが多かった。

が、しかし、どうも、だんだん、「文化」がエラそうにしているのがハナにつくようになった。「文化の日」の「文化勲章」なんて、その頂点といえるだろう。

まだ、けっ、カタカナ語なんか使ってかっこつけやがって、と思っていたころ、「カタカナ語の氾濫は日本語批判である」という主張を読んだ。たしか、1990年代後半、「一流」といわれる大学の言語学の教授が、そのようなことを言っていたのだ。その言葉が気になったので、メモに残っているが、何に書いてあったかのか、教授の名前もわからない。

とにかく、それを読んで、なるほどねえ、そういう見方もあるのか、知らなかったよと思った。

日本語の漢字は、表意文字だから「音」は犠牲になっている、欠陥言語だというのだ。

そういえば、漢字を使うと、なんだか格調高くエラそうだ。官庁の文章は昔から漢字が多かったぞ。大昔は漢文だったしな。ようするに見栄っぱりのために、身体的な「音」を犠牲にしている。

現代の詩人のなかには、やたらにひらがなを多用する傾向があるが、あれは、エラそうな漢字に対する批判とみれなくもないな。

とか、いろいろ考えて、忘れていたが、近ごろ、「文化」と「カルチャー」をめぐって、このことを思い出した。

とくに、「文化」の「文」が意味を持ちすぎている、やたらエラそうだ。なんでもやたら「文化」をつけて、「貴族」ぶって、「賎民」を見くだしている。おれのような野暮な賎民は、「カルチャー」のほうが、はるかに解放的で民主的でよい。

しかし、2018/10/25「おれの平成食文化誌。」にも書いた「憧れの文化」は、貴族的文化の象徴である天皇の御威光のもと、まだまだ続くのだろうな。

カタカナ語もいいことばかりじゃない。

たとえば、「コンプライアンス」なんてさあ。NHKだの、いい大会社が、「コンプライアンス推進」なんていうけど、ようするに「法令遵守推進」をいわなくてはならないほど腐っているわけだ。それが「コンプライアンス」なんていうと、おれたちかっこよくやっているもんね、なーんていうイメージへのすりかえで腐臭がなくなってしまう、それをねらっているんじゃないの。

とにかく、近代日本食は、漢字とカタカナとひらがなをテキトウに使ってきたから、こうまで多様化したともいえるわけだ。普及には、「ことば」が、ものをいうからね。もう食べ物の名前からして、すごい雑多雑種で、これ「日本文化」というより「日本のカルチャー」ね。というぐあいに、「カルチャー」を、どんどん使おうかナ。

「文化の日」が「カルチャーの日」になったら、おもしれえな。

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