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2018/11/08

「サードプレース」と苔むす感覚。

近ごろまた「サードプレース」なる言葉を目にするようになった。

この言葉、ま、カタカナ語にありがちのことだが、勝手な解釈がひとり歩きし、イマイチ実態がわからないところがあった。

それぞれが勝手な解釈をして、「いまおれはサードプレースにいる」「ここがおれにとってのサードプレースだ」といったことで、どんどんイメージがふくらむのは、いいことかもしれない。

だけど、職場でも自宅でもないところで、ノートパソコンで仕事をしていながら、「いまおれはおれのサードプレースにいる」なんてツイートされると、それって単なる「ノマド」じゃねえのと思ったりするのだった。

「プレース」であるから「場所」であって「場」ではないのだろうが、どうも「私事の場」でもない「仕事の場」でもない、中間的な場が「サードプレース」ではないのかと思ったりした。

自宅でも職場でもない「第三の場所」ってだけのことなら、昔から存在した、地域密着の大衆食堂なんてそういうものだったし。いま、「サードプレース」というなら、もっと何かあるだろう。

スペクテイター42号「新しい食堂」に寄稿した「結局、食堂って何?」の最後の見出しは「"もう一つの場所"のために」になっている。

そこでは、鎌倉の立ち飲み「ヒグラシ文庫」店主の中原蒼二さんが、著書の『わが日常茶飯 立ち飲み屋店主の御馳走帳』に書いていることを引用した。中原さんは、2011年3月11日の東日本大震災と東電原発事故の体験から、「家と仕事先だけではなく、もう一つの場所が必要だ」と切実に感じ、それを「自分で作ろう」と開業を思い立った。

これも文面だけ見ると「場所」になるのだが、「もう一つの場所」で得られる人間関係のことをぬきにしては意味がなくなる。

「場所」には、いろいろなことが関係しているのだ。「サードプレース」たりうるには、いくつかの条件あるいは要素それと機能が必要なのだな。それは、私事と仕事の中間になりうることのようだ。

と、最近の20代の若い人たちと話していて気が付いた。仕事でもないし私事でもない、だけど自分が生きるうえで必要なことや大切なことがあるのだ。友達と好きなことをやったり、とか。

消費社会では、いわゆる中央につながる大きなシステムで暮らしていると、仕事と私事だけで成り立つ生活もある。だいたい、そういう生活が拡大して、「コミュニティ」が分解してしまった。いまでは、「コミュニティなんていらないね」という人もいる。仕事とカネと私事がうまくまわっていれば、そうなってしまう社会もある。

それを「人間として、どうか」と考える人もいるのだな。

「売り」と「動員」にあけくれる「コミュニケーション」に疲れる人もいる。そんなのは「プロモーション」で「コミュニケーション」じゃないだろうと考える人もいる。

おれは「世代論」なるものは、あまり関心はないのだが、ジジイになると、そういうことに鈍感になるのもたしかだ。ま、ほんとうはトシのせいではないだろうと思うが、「人間として、どうか」と考えるフレッシュな感覚にコケが生えているようだ。

えと、何の話だったかな。

埼玉は、「サードプレース」的に面白くなりそうなところが、いくつか生まれている感じだし、まだ生まれそうだ。東京=中央に熱をあげるより、自分たちで何かやろう、自分たちで何とかしていこうという、DIYやインディーズのカルチャーを2,3年前ぐらいから感じていたのだが、けっこう腰の座った動きのようだ。もちろん、飲食がらみ。

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