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2018/11/10

「共」と「個」×「食」。

きのう、インターネットで拾ったニュース。

河北新報は「<仙台市給食>「野菜高騰でモヤシ料理増えた」 予算目減り、厳しい実態」と、栄養レベルの低下も心配なようす。

いっぽう、天下の日経新聞の「日経MJ」は「全国で高級レストランが続々と誕生しています。高級店に通う食通の富裕層で注目を集めるのが、イノベーティブ料理」と、かつてのバブル後期を思わせる「富裕」ぶり。

「日経MJ」の「MJ」は、「マーケティング・ジャパン」の略。

マーケティングってのは、金のないやつは相手にしない。というか使う金があるやつだけを相手にする。その使う金の多い少ないにあわせて動く。それで市場は成り立っているし、そういう市場が成り立っていなくては、いまの資本主義の世間は成り立たない。

というわけで、マーケティングは、ミもフタもないほど、現状をあらわにする。いったい、この高級レストランへ行ける人たちって、どういう人なのだろう。そういう人たちが、きっとアベノミックスバンザーイなんだろうねえ。

その現状だが、この記事に、ある店で食べた男性客のコメントが載っているけど、40代なんだな。使える金の多い少ないは人によって異なる。ってわけで、アラフォー40代をねらえ!ってことで、たいがいのマーケティングは、ここへ傾れこんでいる。メディアは、40代を注視し、大事にしている。

でも、同じ40代でも、いろいろだ。子供のいるサラリマーンなら、とても無理ね。おれの知り合いにも、丸の内あたりの大会社に勤めていて給料も悪くはないけど、子供が2人いて、これから中学、高校へと向かう。自分への「ごほうび」でも、外飲食は3000円が上限。

ま、とにかく、貧乏労働者には、別のマーケティングが用意されている。メディアは、そういう「選別」の役割も担っている。近ごろのメディアは、経済資産だけじゃなく文化資産とやらも重視し、人びとを選別する。

が、しかし、この世は「市場」がすべてではない「社会」がある。近ごろは、「市場」と「社会」の区別のつかない人が、メディアで名を売っている、いわゆるオピニオンあたりにもけっこういるし、マーケティング屋が社会学者のような顔をしたり、実際に何かしらを売って商売になっていることをして食っているのに金儲けは「悪」のようにいう人もいる。それはまあ、社会が新自由主義の市場原理で動くようになったことも関係するだろうけど、知性ある知的なみなさまが、市場と社会の区別もつかなくなるのは、困ったことだ。

そりゃそうと、その日経MJの記事の見出しには、「おいしさの先へ、食はアート」「「作品」を堪能」だってさ。

うへぇ~、料理は「芸術」とかいっていた、あのバブルのころと同じだよ。「作品」って、そんなに高級でエライのかなあ。

いや、「作品」、けっこうですよ。おれなんか、200円で5尾もパックされているイワシの丸干しを、日々「作品」にするため創造力を働かせているもんね。もう毎日、安い材料で時間をかけず大きな満足や驚きと感動をつくりだす「作品」のため、革新と創造の「イノベーティブ料理」に取り組んでいるんですよ。

ああ、もう書くのがメンドウになってしまったのに、タイトルの「共」と「個」×「食」について、まだ何も書いてない。どうしよう。

前のエントリー「「サードプレース」と苔むす感覚。」の関連なんだが。

これからの「サードプレース」には、「個」と「共」と「食」の関係を忘れてはいけないね。

前のエントリーでは、「職場と自宅」「仕事と私事」をあげたが、もっと深いレイヤーでは「「共」と「個」」になるんじゃないかな。

まだほかに「公人」と「私人」ってのがあって、安倍首相夫妻の縁故主義と公私混同が取り沙汰されたけど、追及するほうは、この「公人」と「私人」という論理にハマってどうにもならなくなった。

近年、いつごろからか、たぶん「自己責任」キャンペーンからのような感じがするけど、「人間として、どうか」という視点が、どんどん後退しているんじゃないかな。公人だろうが私人だろうが、「人間として、どうか」という問いかけがない。

ま、そのことはおいとくとして、「職場と自宅」「仕事と私事」「公人と私人」という枠組みのレイヤーでああだこうだいっているうちは、「食」は、さっぱり深まらないね。

「共」というのは「公共」の「共」であり、「共有」の「共」であり、「共生」の「共」であり、「共食」の「共」だ。「共産」の「共」は、おいておこう。

「個」は、「個性」の「個」であり、「固有」の「個」であり、「個体」の「個」であり、「個人」の「個」であり、「個食」の「個」だね。

平成30年間の食文化上の大ジケンといえば、食育基本法の成立と施行だろう。おれは、一貫して反対だったし、いまでも反対というか廃止にしたいと思っている。

これは「食」と「共」と「個」が関係する大きなモンダイであり、食文化からすれば「共」と「個」のために、食育基本法なんていうものは許されるものじゃない。

だいたい、もうすでに、あの「食事モデル」だって、どうなったの。最初から成り立たないものをモデルにしてたんじゃないのか。だいたい、家族と労働の変化という背景を無視して、広がる「個食」と「孤食」を悪にしたてた食育基本法推進の論陣からして、「家族主義」と「栄養主義」の偏見に満ちていた。

もっと、食文化について「まじめに考え、もっと楽しむ」ことが必要なのだ。

ところが、その食文化となると、「一汁三菜」の伝統だのなんだの「日本独自の食文化」からの、リクツにもなっていないような「和食バンザイ」「和食スゴイ」なリクツが大手をふって、それから「食文化」は口にするけど、なんだか文学的だったりアートだったりするのが食文化であるようなことで、もういいかげんにしてくれ、といいたいね。

書くのが疲れた。トシだなあ。

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