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2018/12/31

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」75回目、新宿・はやしや。

20181221

今年最後の掲載日は今月21日だった。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018122102000193.html

この連載で初めての、ナイフ、フォーク、ライス付きの食事だ。

本文では、このように書いている。

「ファミリーレストランが進出する1970年代頃から、なんでもありのメニューのデパートの大食堂は姿を変えていったが、はやしやはかつてのそれをしのべる数少ない場所だ。それに、「昭和24年より営業老舗食堂復刻メニュー 昭和のプレート1380円」には、はやしやの前身でこの場所にあった「三平本店」の昭和47年撮影の写真がそえられているのだが、「三平」は筆者が上京した1962年頃には、すでに新宿駅東口界隈(かいわい)に大きな店舗が何軒かあって、いつも大にぎわいだった。大衆食堂としては少し高めだがメニューが豊富でデパートの大食堂の廉価版といったところ、新宿が現在のようにビルに埋もれる前は、「新宿といえば三平」という存在感だったのだ」

つまり現在は「はやしや」という店名だが、もとは食堂の三平から始まっている。それも昭和24年といったら、まだ闇市が残っていた。

三平は戦後から高度成長期、新宿で勢力のあった大衆食堂で、『大衆食堂の研究』にも書いたし、このブログでも何度かふれている。

以前このブログで話題にしたときは、1960年の電話帳で見つけた「味覚の民主化」のキャッチフレーズがある三平の広告も載せている。その画像と文の一部を、もう一度ここに。

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1960年は、まだ「民主化」がショーバイになったのだろうか。いや、当時でも、「民主化」をショーバイにつなげた経営者は、そうはいないだろう。ましてや「味覚の民主化」とは、いやあ、エライ!

この電話帳の発行は60年2月のことだが(電話の局番が3桁になっている)、すでに51年には、日本の支配者GHQ占領軍のマッカーサーは、「民主化」なんぞやめて、戦前の旧体制の推進者の公職追放を次々と解除し、日本の再軍備の必要を説いていた。そして、9月、日米安保条約調印。「民主化」の時代は、わずか数年でおわっていた。しかし、60年といえば、その安保条約をめぐって、改定反対闘争が盛り上がっていた最中ではある。

「味覚の民主化」を掲げた三平は、目先がきいていたのかきいていなかったのか。とにかく、おれが上京した62年、新宿東口のアチコチで、三平は繁盛していた。メニューは、和洋中をそろえたデパートの大食堂の廉価版といったところ。

おれが、たまーに利用したのは、東口の武蔵野館通り、三越裏のへんに2軒ほどあった店だった。『大衆食堂の研究』にも書いたが、三平は、ション横の「つるかめ」などに比べると、やや出費が多くなるので、あまり利用してない。おなじ東口の駅前にあった「じゅらく」なんぞは、上野のじゅらくにしてもそうだったが、三平より「高級」で非日常的な場所で、大衆食堂という認識はなかった。

この広告の三平の本社住所は、新宿区角筈1-1。角筈1丁目は、現在の新宿3丁目。おそらく、三平ストアがあるところだろう。この広告によれば、食堂は、東口周辺に5店のほか、西銀座5丁目、渋谷宇田川町、浅草、神田にも出店していたのだな。

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2010/11/13
古い電話帳から、その3。味覚の民主化。

高田馬場の古本屋の若店主(1972年生まれ)に「はやしや」の話をしたら、子供のころ父親に連れられて行ったといった。まだそういう暮らしがあったのだなあ。

デパートの食堂は、70年代に広がったファミレスに押された感じで変貌していくが、同じように大型の食堂だった三平も変わっていった。「はやしや」は、メニューにしても「三平」がファミレス風に変化した業態と見ることができるが、なぜか「昭和」の気配を感じるから不思議だ。「ファミレス」というより「デパートの大食堂」的気分なのだ。それは昔のデパートの大食堂を知っているせいなのか。でも、昔のデパートの大食堂と比べると、やっぱりファミレス的なのだが(郊外型のそれとはちがう)。

ここでめしを食っていると、「平成」といっても「味覚の民主化」を謳うほどの迫力もなく、「昭和」の尻尾をチャラチャラ貪欲に食いつぶしていたにすぎないのではないかという感慨がわいてくる。

とにかく、この連載の年内分を、年内中の大晦日にアップすることができた。

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2018/12/29

「生活」の始まり。

ことしのいつだったか、鬼子母神通りみちくさ市の古本フリマで買った『ナリコの読書クラブ』(近代ナリコ/彷徨舎2008年11月)を読んだ。

『彷書月刊』連載「ハルミン&ナリコの読書クラブ」の近代ナリコ執筆分2001年8月号から2008年7月号に加筆修正し、近代ナリコと浅生ハルミンの対談「わたしたちってなぜ?」がまとまっている。

近代ナリコの書きっぷりが、文体も内容も自由闊達解放的で、読書の楽しみを広げるおもしろさがある。こういう書評?は、いいなあとおもう。メインストリームとは立ち位置が異なる『彷書月刊』だったからできたのかもしれない。近代ナリコも対談のなかで「こういうふうになんの制約もなく書ける場所、他にないので」といっている。

取り上げられている本の傾向はいろいろだが、「「生活」と「芸術」と」というタイトルは、西村伊作『装飾の遠慮』(大正11年・文化生活研究會)についてだ。

引用も含めて、このように書かれている。

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「近頃、生活と云ふ言葉がよろこんで多く用ゐられます。生活のためといふことは、たゞ人々が其日其日衣食して暮すと云ふ事以外に意味を有つて居るようです」
 とあるように、ひろく日本人の関心が「生活」に向けられはじめたのは明治の末頃だったようです。文化学院の創立者であり、また今日の一般的な居間中心の住宅をいちはやく取り入れた伊作は、「生活」と「芸術」の調和をめざした大正のモダニスト。そのおこないのすべては彼の理想とする「美しい生活」のため。

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おれとしては、西村伊作が述べていること、なかでも「生活のためといふことは、たゞ人々が其日其日衣食して暮すと云ふ事以外に意味を有つて居るようです」と、近代ナリコが「ひろく日本人の関心が「生活」に向けられはじめたのは明治の末頃だった」というのにすごく興味をひかれた。

そこんとこを、もっとよく調べてみたいし「暮らし」と「生活」のあいだが気になるのだった。

西村伊作は「明治風の西欧趣味を嫌い、アメリカの中産階級の合理的で堅実な生活を手本としていたようで」と近代ナリコは述べている。となると、『食道楽』の著者、村井弦斎が思い浮かぶ。彼も渡米しアメリカの影響を受けている、そのあたりの生活文化的な時代背景はどうだったのだろう、西村伊作と共通する何かあるのか。

近代ナリコは最後を、「『暮らしの手帖』が提唱するくらいの「美しい暮し」なら、懸命に努力すれば近づけそうな気もしますが、伊作の激しい徹底ぶりにはとてもついてゆけない。「生活」と「芸術」の調和、などという問題について本気で考えていたら、それこそまともな暮らしがままならなくなってしまいそうだと思いました」と結んでいる。正直でいい。

だいたい、普通の「まともな暮らし」「まともな生活」をおいといて、「美しい暮し」「美しい生活」なんていってもねえ。

近ごろは「丁寧」が印籠語のように使われるが、「丁寧」とは何を基準に考えているのか、その思考レベルはすごく雑で丁寧でもなんでもないのが目立つ。ま、ようするに、印籠語のハヤリ言葉なのだ。「美しい暮し」も、そんな感じがある。そういう言葉を使って何者かになったかのような気分にひたることは、「丁寧」に始まったことじゃない。

「美しい暮し」も、表現レベルや作業レベルでは丁寧で美しそうにしているけど、思考レベルではアヤシイものが多い。だけど、上っ面の表現にごまかされやすい。そして、すごくハイアートのようだけど内容の薄っぺらな表現になれていく…と劣化ループは続く。

おれは、近ごろ、「丁寧」は「カワイイ」のエセ大人バージョンではないかと思っている。

とにかく、「生活」や「暮らし」を、その言葉が多く用いられるようになったころから調べてみよう。

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2018/12/28

おととい、わめぞ忘年会。

会場が例年の池袋駅北口の東京中華街が閉店のため、みちくさ市の打ち上げでおなじみ東池袋のサン浜名だった。

始まりの時間を確認しないで行ったら、18時40分ごろ着いた。誰もいない、19時からだった。5分もすると塩爺があらわれた。年寄りはセッカチだからなあ、とお互いにいいあう。

とにかく、くう、のむ、しゃべる。

堀内恭さんと入谷コピー文庫のことがしばらくネタになっていたな。

まだ体調不全のように見えるピスケンさんと7年前に脳梗塞をやったが憎まれっ子世にはばかる(その割には儲けてないようだが)で生還した塩爺が、身体と病気の話で盛り上がる。おれは身体のぐあいの悪いところがない。病気と子供の話をするようになったら老化だとかいって傍観。

9月のみちくさ市のあと脳卒中で倒れた石丸元章さんが途中で姿をあらわし、まったく後遺症を感じさせない挨拶をし、飲んでいた。大丈夫か?

けっこうハイペースでの飲んで、どんどんまわる。酔った目で店内のかなたを見ると山田参助さんがいた。近くの席に移動。家を出るときは帰りに浦和で降りて宮本くんが餃子を焼いているらしい中華屋に寄ってみようと思っていたが、その宮本くんが店を休んで来ていた。北浦和に居酒屋ちどりがあっていいよな、よかったよなと話していた記憶がある。

そのうち山田参助さんと1968年頃からの「あの時代」を話していた。1975年の荒井由実の「いちご白書をもう一度」でオワリのとどめをさされた、とおれはみている、「あの時代」。

全共闘運動ばかりが注目され騒がれるが、それだけじゃないんだなあ。若い男たちは、平凡パンチなどを片手に、カー、セックス、ファッション、ミュージック、てなこともあったし、いろいろなものが生まれ、戦後からの脱皮の季節として、あるいは脱戦後史の季節として、全体的に見る必要があるだろうと。全共闘運動だって「戦後」に対するカウンターだったとみることもできるだろう。おれの酔った頭の中では、エンケンのカレーライスや、ことし円盤の田口さんのURCレーコドを全部聞く会のおかげで刺激になった曲の数々が、ふわふわしていた。しかし、自分がもう何をしゃべっているかわからない酩酊状態にあることを自覚し、これは帰ったほうがよい。帰ることにした。カネを払ったのは覚えていない。

記憶がいろいろとんでいるが、東大宮に着いて、そのまま帰ればよいものを、コタツに寄ったのがいけなかった。出羽桜がうまかった、ホッケの刺身がうまかった。飲んでいるうちに記憶が無くなった。

どうやって帰ったか覚えていない。目が覚めたら着替えもせずベッドのなか、部屋の明かりも暖房もつけっぱなしの朝、着替えてないのが幸い燃えるゴミの日なので捨てに出て、またもどってそのままベッドに入る。次に目が覚めたら11時過ぎていた。

わめぞ、来年は一月のみちくさ市から。寒くても古本は熱いのか?おれは単なる飲兵衛で、古本好きでも本好きでもないのだが。
https://kmstreet.exblog.jp/

まもなくことしも終わり。来年に延ばせることは来年にしていたら、1月のスケジュールがヤバイことになっている。もう若くないのに。

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2018/12/26

ことしは冷凍食品をくった。

ほとんどの食品をコンビニで買って賄っている、20代の会社員一人暮らしの男がいうには、なんの問題もないそうだ。冷凍食品のスパゲティがいいともいっていたようで、気になっていた。

おれは、冷凍食品初期のころの開発に関わっていたし、冷凍食品を忌避する気はまったくないのだが、ここしばらくはさぬきうどんとミックスベジタブルの冷食以外は買ったことがなかった。

コンビニの冷凍ケースの中など、ちゃんと見たこともない。コンビニで買うものは、だいたい決まっている。サラダ、にぎりめし、パン、その他若干。めざす棚へ直行直帰。

スーパーでは、かなりゆっくり店内を見てまわるので、冷凍食品のケースも見るが、見るだけ。

自分で作るのが苦にならないということもある。たいがい、料理する時間がひねりだせないほど忙しいわけじゃない。

とにかく、それで、気になるからコンビニの冷食スパゲティを2種類買って食べてみた。なるほど、それなりにうまくできている。材料を買いそろえて自分で作ったら、この値段では無理にちがいないと思った。

スーパーの冷食スパゲティも買ってみた。味はコンビニのものと似たようなもの。

それで、一時は買い置きもしたのだが、それがなくなったら、なくなりっぱなしになり今日にいたる。

ようするに、飽きるし、タイクツになるのだ。自分で、チョイと変化をつければよいのだろうが、そこまでやる気はない。

そういえば、きょねんあたりは、コンビニのサラダチキンをよく買っていたが、ことしはまったく買わなかった。やっぱり、飽きたのだろうなあ。食べたいときは、自分でボイルして作る、テキトーな味にして。

冷食もチルドも、ここ10年ぐらいで、たしかによくなった。これは、外食チェーンの競争とも相関関係があるだろう。競争しながらよくなって味が均一化するのは、大量生産であるから仕方がない。あとは生活の実態と能力に応じて使えばよいのだ。

だけど、ことし気になった「均一化」は、そういうことではなくて、もっと根深い問題があるような気がしている。うまく丁寧に作られているが、刺激やワクワクドキドキ感のない本みたいなものか。

当ブログ関連
2018/10/06
ぼやきトーク、どうしてこんなに均一化しちゃったの。

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2018/12/23

「米食かパン食か」ではないのだが。

先日、午後1時すぎに都内の古い大衆食堂に入ったら、いいダーク・スーツを着た若い男二人と女一人が一つのテーブルにいた。その隣の席があいていたので、おれはそこに背中合わせで座ったのだが、自然に三人の話が耳に入る。

三人は25、6歳だろう、同期入社で、二年ほど地方へ転勤させられ最近(たぶん秋の異動でだろう)東京へもどったようだ。沖縄以外に支店や営業所があって、一人(女)は新潟の某市、一人は山陰の某市、もう一人は判断できなかった。転勤先の食べ物とコンビニの話をしていたが、24時間交代勤務の会社のようで、5時間コアタイムのフレックス制のコアを何時にとるのがいいか、ひとしきり話していた。やっぱり食事を中心に勤務時間を考えたほうがよいとか、夜勤務を中心にして朝の退勤にするのも変わった生活ができていいようだとか話していたのだが、女が突然(のようにおれには聞こえた)「とにかく炊飯器でごはんを炊けるようになったからうれしい」といった。

一人暮らしのようだが、これまでごはんを炊くことをしてなかった、というより、ごはんを炊けなかったようだ。台所のない寮のようなところにいたのか。あれこれ考えてみるが、話の内容からは、よくわからない。仕事で疲れたときはコンビニに寄るのもめんどうになるから、ごはんが炊いてあると安心だ、というようなことをいっていた。

疲れてコンビニに寄るのもめんどうになる労働を想像してみた。そういう生活の炊飯器でごはんを炊いておける「うれしさ」を想像してみた。

きのうの関連になるが、『大衆めし 激動の戦後史』では、「米とパン」「米と麦」について、けっこうふれているが、「米かパンか」「米か麦か」ではなく、戦後の米とパンや麦について、主にどんな経緯と言説があったかを書いている。

ようするに実態としては「米かパンか」ではなく、米もパンもうどんもそばもであり、米も麦もなのだ。ということは、『ぶっかけめしの悦楽』と『汁かけめし快食學』でも書いていて、庶民レベルの日常では雑穀中心の五穀が「主食」であり、そこに汁かけめしの必然と可能性があったし、米が全国的に庶民の日常の食べ物になるのは昭和30年代以後のことだと書いている。

ところが主な言説となると、「米食かパン食か」になってしまう。二項対立の比較で、「主従」「上下」「優劣」をつけたがる。どっちを食べるとバカになるかという話まで出て、いやはや、だ。

そういう思考回路は、いろいろなところに働いていて、粋と野暮だって、粋と野暮は対極にすぎないのに、対立軸であるかのように、粋が上位で野暮は下品にされる。そもそも、米食とパン食も、米と麦も、対極ですらない。

「主従」「上下」「優劣」をつけたがるクセの背後には、長く続くタテ型社会の一元的価値観がある。多元的価値観は、なかなか受け入れらない。結果、二項対立の一択になるという、いたるところにある図式だ。

そうなのだが、「米食かパン食か」につていは、独特の背景がある。

米は、タテ型社会の頂点に君臨してきた天皇家と深い関係にあること。

米は貨幣に代わる機能を有していた時代が長かったこと。

つまり米は、普通の「主食」である前に、「特別」だったのだ。「特別」であり「投機」の対象にまでなって、普通の食品としての供給を損なうこともあった。米が普通の食品として庶民の日常に定着したのは、戦後のことで、まだ日は浅い。もしかすると食パンの広がりと10年もちがわないかもしれない。

そして、現在、パン食のパンの原料の麦は、ほとんどといってよいほど輸入、しかも、ほとんどといってよいほどアメリカ産であることだ。

さらにさらに、戦後の米作が日本の農業と地方経済に占めていた位置がまた「特別」だった。

だから日本の「主な」方々は、キーッとなって、「米食かパン食か」の話に短絡しやすい。例によって「伝統」をふりかざす。ああ、混迷。

消費金額で、米とパンが同等かパンが上回るようになっても、大都市の消費者は、日本の米の生産者ともアメリカの麦の生産者とも向き合っているわけではない。「金」を間においた関係でしかない。それと大きな「日米関係」ってやつが立ちはだかる。

こうなると、五十嵐泰正さんの『原発事故と「食」』が述べているように、「食べる/食べない」の不毛の対立を乗り越えるために、問題を整理し切り離して個別の対策が必要だと思うが、でも、たぶんこれまでの流れからすれば、どうにもならないんだろうなあ。という感じのほうが強い。

「主従」「上下」「優劣」の価値観は捨てられないのか。「金」を間においた関係は変えられないのか。もっと生産の現場と向き合えないのか。

いったい、どうしたいのか。

どうしたいのか。

グルメと酒に酔っているうちに、どこかへ転がっていくのだろうか。うへへへへ

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2018/12/22

「平成最後の」。

なにやかにやで「平成最後の」ってことが姦しい。年号なんてのは、さっさと卒業したほうがよいと思うんだが、できないんだなあ。次の年号は、これを最後の年号にしよう、というぐらいの決意でのぞもうぜ、みなのしゅう。

とりあえずは、平成は、ちょうど30年間なので、おれは30年をふりかえる意味で、簡単に「平成30年間は」なーんていってしまうんだけどさ。30年間、「食」に関しては大きなことがいろいろあった。なかでも「ジケン」として騒がれることなく、でも大きな変化であるし、さらなる変化の予兆として、もっと注目され議論になっていいと思うのは、去年と今年あたりで、消費金額にしてだが、パンが米を上回ったことだろう。

『大衆めし 激動の戦後史』では、「米とパン」「米と麦」について、けっこうふれているのは、そのうちに、この関係が大きな問題になるだろうと見越してのことだったが、そのことを気にしている人たちは「食」の関係者でも、あまりいないようだ。日本という国がミステリアスなのか日本人がミステリアスなのか。

「東京=中央」のメディアが騒がないと問題にすらならないのは、このことだけじゃないが。

いろいろ整理をしていて、ことし都内へ行った回数を調べたら、4月以降は1か月に2回平均だった。仕事の打ち合わせや飲むために、わざわざ都内からお越しくださったみなさま、ありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね。

おれは、文化的にはすでに「東京=中央」的なアルゴリズムやらコードやらからの離脱あるいは逃走が、ヤバイほどすすんでいるが、都内へ行く回数が減ってさらにすすむかもしれない。

「運動」というのは、たいがい大勢でやるイメージだろうけど、おれの食と料理に関する「運動」は「一人運動」だ。運動はカネにするのが難しいし「一人運動」ともなればなおさらだ。ほかにも「一人運動」の人たちがいるけど、たいがい、なにかしら商売をして収入を確保している。そういうものなのだ。

「東京=中央」的なアルゴリズムやらコードやらが圧倒的な力を持っているメディア業界。おれは、ただでさえ売れないフリーライターなのに、75というトシだし、かなりヤバイことになるか。スリリングな事態になった。日本の農業みたいだ。

一億火の玉
一億玉砕
一億総懺悔
一億総白痴化
一億総中流
一億総グルメ
一億総評論家
一億総活躍社会

というのを拾ってみた。「一億玉砕」は「一億総玉砕」という言い方もあるようだ。戦中のことで、戦後がらっと「一億総懺悔」。

「一億総白痴化」「一億総中流」「一億総グルメ」「一億総評論家」は、社会風俗のことで、そういう言葉があてはまりそうな現象があったのだけど、「一億総活躍社会」は「お上」のおぼしめしだ。政府のスローガンにすぎない。「一億玉砕(一億の火の玉)」も、「上」からのスローガンだし、「一億総懺悔」は微妙だが、どこかしら「上」の意向ではあったようだ。

こうやって並べてみると、ここに「一億総グルメ」があることに、あらためておどろく。おどろいて、ああでもないこうでもない考えている。平成は、「一億総グルメ」で始まったんだよね。

とにかく、ここにあげた「一億ナントカ」は、ヤバイか、それほどほめられるようなことではない。「一億ナントカ」なんてのは、ないのが普通であってほしいな。

一人火の玉、一人玉砕、一人懺悔、一人白痴化、一人中流、一人グルメ、一人評論家、一人活躍…、これならどうだろう。

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2018/12/20

捕鯨問題。対極―対立―対決―強行―?

「政府は20日、クジラの資源管理について話し合う国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、IWCが禁じる商業捕鯨を北西太平洋で約30年ぶりに再開する方針を固めた。」というニュースが流れた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00000086-jij-pol

これはなんですかねえ、「日本の国際機関脱退は極めて異例。日本は、クジラを食べる食文化や適切な規模の捕獲は正当との主張のもと、捕鯨を行う考えだ。」「商業捕鯨は、来年にも日本の排他的経済水域(EEZ)や近海でのみ実施する見込み。」だそうですよ。

近ごろこのことについては追いかけてないのだが、70年代におれが「食」のマーケティングに関わったころのクライアントは、何しろ「ホエールズ」っていう球団を持っていたぐらい捕鯨で有名だった。

70年代、鯨の資源問題が大きく取りざたされ、やがて80年代になって商業捕鯨は禁止される。その過程で、日本は国際的なPR会社なども使い、商業捕鯨の継続のために様々な手を打ってきた。そのあたりのことは、ボケて忘れたこともあるようだけど、いろいろな情報を入手できる立場にいた。

実際のところ、日本の立場は難しかった。資源問題と伝統的な食文化は、ちがうレベルのことだし、そもそも環境や資源については、その考え方から、日本はユニークだった。

70年代についていえば、鯨に限らず、日本の漁業は世界の海を荒らしまわっているという批判も強く、それをかわすためにいろいろな手が打たれていたが、「不信」を金でごまかすようなやり方が、捕鯨問題にもはねかえっていた感じもあった。そういえば、あのころ、やり玉に挙げられていた「商社」は、近ごろはうまく立ち回っているようだけど、あのころの教訓が生きているのか。

日本が鯨に限らず地球の環境や漁業資源の管理について、もっと真摯にのぞんでいたら、あるいは捕鯨に関しても、ちがった展開があったかもしれない。それは、いまでも、そうだろう。環境や資源について、「鈍」すぎるのだ。消費的な味覚については真摯で繊細らしいのだが。それがどうして環境や資源につながらないのだ。

ほんと、鯨資源のデータに関しては議論のあるところだろうけど、それで「脱退」ってのは、どうなんだろう。文書改ざんがまかり通る国がさ。姑息な政治的駆け引きのつもりか。

食文化についていえば、鯨にかぎらず、「食べる/食べない」は文化の「ちがい」にすぎず、あるいは「対極」の価値観につながることはあるかもしれないけど、それが直線的に「対立」や「対決」になるのは、どこかおかしい。戦略がなさすぎるのか、日本人のメンタリティの問題なのか思考の問題なのかはしらないが、そういう「対極」にすぎないことがらを、すぐ「対立」や「対決」の関係にもちこむって、よくあるな。

こういうところに「食文化」や「伝統」なんてのが使われるのは、おれは嫌だね。

ああ、今日は、コーフンしてしまった。これぐらいでやめておいたほうが吉だな。

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2018/12/19

それぞれの生活の実態や能力に応じてやることが可能性につながる。

きのうは、「それぞれの生活の実態や能力に応じてやればよい」という言い方をしたが、これでは足りない。それぞれの生活の実態や能力に応じてやることが、多様性になり、可能性につながる、と言いたいのだ。

そのことに関連して、以前いただいたメールを思い出した。

これは、2018/02/13「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」をご覧なってのことだ。

こう書かれてあった。

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「ライフハック」に掲載された「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」(ニック・ダグラス)、これ、面白い(刺激的な)文章ですね。いろんなことを考えさせられます。

世の中全体のコーヒーの味が、スタバとか出てきて以来、平均的に旨くなりすぎ、頑張りすぎて、コーヒーの味に対する期待値が、やや変わってしまった。

ニック・ダグラスは、そんな「平均して旨くなったことで、ある意味で、味覚の偶然性、多様性が失われた」コーヒーをめぐる状況が、以前と比較してリラックスできないようになり、心の中で「しゃらくさい・・」と感じている??

わたし自身について言えば、自宅でいつも飲むコーヒーは、MJBのグリーンと「決めて」います。その理由のようなものは、味が飽きないこと、植草甚一がMJBを好きでつねに普段づかいで飲んでいたこと、MJBは冷めても味が比較的落ちないように思えること、値段がそこそこであること、割と入手しやすいこと、そしてコーヒーについてあれこれ考えたくないこと…あたりです。最後の「考えたくない」という理由が一番大きいかもしれません。コーヒーのこと以外に、考えたいこと、おカネを回したいところ(面白そうな本や雑誌を買うことや、妻と旅行をすること等)があるので、生活上のコーヒーに対する優先順位は、高くはありません(でも必需品なんですよね)。

遠藤さんは「自分の哲学を持てということなんだろう」と、ブログでまとめておられましたね。

私もこの話から導かれたのは自分自身の価値判断、哲学が必要というようなことで、「自分自身の(味覚の、生活の)指標、哲学をもちなさい。たかがコーヒーの味にそれほどこだわる(必要以上にグルメ的にこだわりすぎる)ことは人生を窮屈にするよ、だからこだわらないことにこだわろうよ。その方が楽しい人生を過ごせるんじゃないの」、というように受け止めたのですが。

自分は遠藤さんの考察に大いに共感するのですが、こういう(コーヒーのランクを下げる)のは、もしかしたら一種、古い、「反動的」?な考え方にとられてしまうんでしょうかね?? 難しいところです。

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難しいところではあるけれど、さて、どう考えるか。

おれは「反動的」というより、「個」の自由を広げる「革新的」だと思っている。ある種の人たちからは、「リベラル」といわれるようだけど。それはともかく、このメールの方のように、自分の生活の実態や能力などにあわせて考え楽しむ選択をすることに、これからの可能性を感じる。

誰もが同じ方向へ向かって優れたモデルを追いかければ全体が発展するという構造は、すでに閉塞に陥って久しい。

誰もが同じようにやれるわけではないし、誰もが同じ感覚を持っているわけじゃない。それぞれ異なる「個」が基本なのだ。味覚などは典型的だが、それぞれの口中のことだ。

「同じ」は、かなり限定された条件で成り立つものだろう。トラック競技の100メートル走、1500メートル走、あるいはマラソンを、あるいは三段跳びなどを、「同じ」ように比べ、優劣をつけることはできない。でも、そういうことが、さまざまな分野で平気に行われている。なにさ、その「トップ」って。

「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」ということを、もっと大っぴらに、考えたり主張してもいいのではないか。

それに、「ちがい」が雑多で変化に富んでいるところに、人間としての可能性や、交流や交易や文化や経済が成り立ってきたし、発展性があるのではないか。

それにしても、今夜は早い時間から、よく飲んだ。酔って、変化に富んでいる。

当ブログ関連
2018/10/07
なぜだ~、「普通」と「均一化」。

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2018/12/18

「ナチュラル志向」と「食」。

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きのう書いたことに関係するが、手元にある平成初期の頃の資料を探したら、見つかったのが『ハッピー・エンド』1990年11月号。雑誌タイトルのところに「地球にそって生きる」のキャッチがある。ハッピーエンド通信社の発行で、編集・発行者は、森村一会だ。

森村一会もハッピーエンド通信社も、「ナチュラル志向」の啓蒙というか普及に、かなり影響力を持っていた。いまでは、ほとんど忘れられているけどね。おれの記憶でも、そういえば、そういう人が、がんばっていたなあ、と、やっと思い出すていど。

この号の特集が「食卓と日本の農業をつなぐJAC(ジャック)」なので、おれはこれを保存していたのだろう。

2017/08/14「有効微生物群(EM)の初期の資料。」に、「古い袋をあけたら、こんなものが出てきた。近年なにかと世間を騒がせている「有効微生物群(EM)」の資料だ。/これはたしか、1989年か90年に、JAC(ジャパン アグリカルチャー コミュニィティ株式会社)を訪ねたときにもらったものだ。」と書いている。

当時、無農薬・有機栽培の生産者と関わって、その販売を手伝っていたおれは、その分野で先進的に流通網を広げていたジャックに関心があったのだ。

それはともかく、この特集は、巻頭が森村一会の「危険な野菜が売られている」という文章で、次がJACを取材してまとめた「食卓と農業をつなぐコンピューター 野菜の小流通が提起する新しい家族」、次が「美しい野菜をつくる 有機・無農薬野菜づくりの美学」のタイトルで農業の中村武夫を取材している。当時はまだ「オーガニック」という言葉は使われていなかった。

特集のつぎに「ワクワク鼎談」というのがある。

「現代の医療に欠落した癒しの「場」としての共感の世界」ってことで、東京大学東洋文化研究所・上田紀行、京都・高雄病院の江部康二、東京都立豊島病院東洋医学科・小高修司が、「悪魔祓いから端を発するワクワク談論は風を発してとどまることがないのであります」と編集部がリードに書いているとおり。ここでは、きのう書いたように、おれもチョイと首を突っ込んだ、ホリスティック医学なるものも話題になっている。

「癒し」は、この頃から、料理と食事の分野でも注目のキーワードになった。

河野友美が寄稿しているのが意外だった。ま、あの人は「越境」を苦にしない感じだったからなあ。

「東洋医学を学ぶ」という連載があって、三浦於菟(東京・武蔵野市、武蔵境東方医院)が「東洋医学の生理観 五臓六腑は互いに調節しあう」を書いている。陰陽五行説にもとづき、下の画像のような「五臓六腑とその関連器官」などの表がある。

食材や料理の話はないが、料理家は、これに「五色」と「陰陽」をからめて、食材と料理の話をするのが、ハヤリになっていた。

また、森村一会が「中国の伝統医学とはどんな方法か」を書いている。

そして、「地球再生計画」のくくりで、「人間と健康」「食卓と農業」など。あるいは、「ナチュラリスト」の寄稿や、世界の伝承料理を旅したり。

当時は、こういう傾向はマスコミや行政などメインストリームからは無視され、かなりマイナーであったけど、急速に広く受け入れられるようになっていて、その上昇気流にのった熱気が感じられる。

それにしても、「危険な野菜が売られている」といった見出しからは、『週刊金曜日』が1996年から連載し99年に一冊にまとまって話題になった『買ってはいけない』を思い出す。こういう煽りが売れるのも、この頃からか。

いまでは「エコロジー」や「ナチュラル」はファッションとしても浸透し、「パワースポット」なる言葉も普通に流通し、なんだか知らんが「スピリチュアル女子」をあざ笑ったり、あざ笑う人たちにもの申すということにもなっている。

エコロジーやナチュラル志向は、必ずしも「スピリチュアリティ」と結びつくものではないし、けっこう科学的に追究されているところもあるのだが、「不安」や「恐怖」を煽るようになると、とんでもないところへ転がりかねない。また、「ナチュラル志向」や「スピリチュアリティ」などを頭ごなしに否定することで、とんでもないところへ転がるということもある。平成の30年間の「食」をめぐっては、そのあたりのもみあいだった一面もある。

2018/12/10「「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。」に引用した、「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいいのであって、自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる。もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」

これには、もみあいのはざまで、おかしなところへ転がりかねない危うさを見た気がした。単純な否定というか。頭ごなしの否定は、別の危険をよびこむことになりかねない。

化学調味料も自然調味料?も連続している。どっちがいいかとか、どっちが「魑魅魍魎の棲家」になるかということではないし、「もっとシンプルに自分にとっての心地よさ」は、そもそも「ナチュラリスト」たちが得意とすることだったのではないか。「自分にとっての心地よさ」を求め、そこもまた「魑魅魍魎の棲家となる」ことだってあるのだ。

食材選びや料理は、簡便かどうかやナチュラルかどうかより、それぞれの生活の実態や能力に応じてやればよい、それだけのことだ。そこには優劣も上下もない、それぞれの生活や能力の実態にあっているかどうかだけだ。それぞれに応じて楽しむことだろう。

楽しむためには、選択肢は多いほどよい。科学や化学が広げた選択肢もあるし、エコロジーやナチュラル志向が広げた選択肢もあるのさ。そこは連続している。

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2018/12/17

「スピリチュアリティ」と「食」。

読んでないのだが、最近ネットで『「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人たちに言いたいこと』という文章が話題になっていたようだ。

「スピリチュアル女子」って、どんな女子をさすか知らないし、「スピリチュアル系」とか「スピリチュアル界隈」とかいわれても、どんな「系」や「界隈」なのかイメージがわかない。

ただ、平成30年間の「食」の動向を考えるとき、簡単にいってしまえば「スピリチュアリティ」なる、それなんだ?「思想」なのか、いやちがう「スピリチュアリティ」なのだという感じのことが、平成以前と比べると大きなインパクトを持つようになったといえる。

そのインパクトは、個人的な体験でいうと、当時はまだ「スピリッツ」がせいぜいで「スピリチュアル」という言葉は、ほんとんど聞かれなかったけど、1983年の中沢新一の『チベットのモーツァルト』あたりから、そんなニオイが濃くなり、関心が雷雲のような勢いで高まったと思う。

おれも知り合いに誘われて、信濃町にあったマンションの一室で中沢新一とファンが(誰でも参加できる)集まりをしていて、一度それに参加したことがあるけど、あまりの熱気に圧倒されて一度だけでやめた。

フリッチョフ・カプラの『ターニング・ポイント―科学と経済・社会、心と身体、フェミニズムの将来』(工作舎、吉福伸逸訳)が1984年。これには、おれも刺激を受けた。松岡正剛の工作舎は、その前から「タオ」に関して、たしか「游」あたりでもやっていたと思うが、「タオ」に関するフリッチョフ・カプラの著書を、やはり吉福伸逸の訳で出していた。『ターニング・ポイント』は、「タオ」よりはるかに広い層に読まれ「エコロジー」や「フェミニズム」をブームに押し上げる一翼をになった。というのがおれの印象だ。

これとはちがう、もともと桜沢如一が始めた「正食普及会」、それから農本主義と自然農法の流れもあり、70年前後からはカウンター・カルチャー系の「インド思想」や「東洋思想」をゴチャゴチャしたような流れもあり、また山岸会やMOAなどの宗教団体などの活動もあり、料理の「自然主義」「環境主義」や「無国籍料理」などが70年代後半からじわじわ広がっていた。

その背景には、近代合理主義や科学やテクノロジーあるいは「都市」や自然破壊に対する不信や反発などがあった。

食の分野では、栄養学に依拠しながらも、東洋思想やインド思想で「自然」に一歩近づき、さらにそれを超越するかのような、さまざまなリクツが盛んになった。食に「癒し(ヒーリング)」を求め、中国ン千年の知恵といわれる「五色×陰・陽」説などが話題になり、鍼灸やヨガも混ざり合いゴチャゴチャ広がっていった。

で、おれも、脱西洋医学をめざす「ホリスティック」な思想に興味を持ち接近し、当時はマクロビという言葉はなく「無農薬・有機栽培」「自然農法」といった界隈に関わるようになった。

それで見えてきたのが、いまでいう「スピリチュアル」という言葉にまとめられそうな人たちなのだ。これはもういろいろあって、分類困難だね。天河系の人もいれば、ヒッピー系の人もいれば、「透視」だか「霊視」だかが好きな人もいれば、単なる詐欺師的な人もいれば、右翼系もいるし左翼系もいる。それから、「魂」なるものについて、ちゃんと考えのある人たちも、けっこういたな。

そうそう、「spirit」「mind」「heart」のちがいをうまく説明する人がいて、すごく納得したことがある。

あとやはり、「不治の病」というものを抱えて、ひたすら「スピリチュアリティ」に心を寄せる人たちも多かった。

「食べ物」は、単なる物質としての「食べ物」ではなく、身体と心、自然や自然を超越したつながり、ま、このへんのことになると、表現の仕方はいろいろになるが、「言霊」といわれる「ことば」のような意味を持つ。だから、その選択も料理も、なかなか念がいっている。できるだけ工業製品は避け、できるだけ自ら手を下す。その一つ一つに意味がある。そして、自然を超える「何か」に近づこうとする。

って、こういうことを信じてないおれが書くと、ほんと「スピリチュアリティ」には失礼なんだけど、おれは『「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人たちに言いたいこと』というほどじゃないんだが、「スピリチュアリティ」は、いろいろ誤解されやすいということは理解しているツモリなのだ。でも、うまく書けねえなあ。

広井良典という学者、科学史や科学哲学が専門なのかな? 「いのち、自然のスピリチュアリティ」について語っていて、なかなかうまくまとまっていて、おもしろい。

彼がそこで言っていることではないが、日本というのは先進国のなかでは「アミニズム」が根強く残っている国なのだそうだ。そういうこともあわせて考えると、「いのち」に関わる「食」では、「スピリチュアリティ」のことは避けて通れないし、だから平成30年間の「食」の分野で存在感を増してきているといえそうだ。

広井良典は、こう述べている。

「自然のスピリチュアリティという時、それは日本だけの話ではないのですが、生命と非生命は連続的なんですよね。石ころであっても風であっても、そこに神様は宿っている。そして今の自然科学もそういう方向になりつつあるともいえるわけです。」「もともとは存在/非存在という区別そのものも連続的だった。自然のスピリチュアリティとか、日本語の「いのち」というのは、そんな宇宙全体を包括した言葉ではないかと思います。」

2018/12/10「「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。」に書いたように、食の分野では細分化がすすむ一方で、「宇宙全体を包括」なんて思いもよらないことだが、連続しているのだ。

東電原発事故以来、放射能汚染と「食」をめぐって、いろいろあり、なかなか困難な問題を抱えている。そこでは「科学的」ということが重みをもって語られているし、「科学的」であるのは当然だとしても、それはどうも「物理科学的」なことに偏っているようにもみえる。「物理科学的」でないことは叩かれ排除されるだけというのでは、チョイと「科学の道」に反するのではないかという感じもする。

いろいろなことが連続して成り立っている。なのに、「科学的」に、連続を不連続にしてしまう。また分断が深まる。これはある種の「劣化のループ」か。

平成30年間のあいだの「食」のインパクトとして、エコやマクロビや手作りのブームなどの流れと「スピリチュアリティ」をふりかえってみようと思ったのに、ズレてしまった。めんどうな問題だ。

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2018/12/16

ひさしぶりに、記憶喪失帰宅。

とくに今年になってからは都内へ出かけて飲むことは控えるようにしていた。トシのせいだろう、出かけるだけでもくたびれるのに、酔って混んだ電車に乗って帰るなんて真っ平ごめんという気分が先に立つ。

というわけで、きのうは、赤羽まで来てもらって飲んだ。15時に待ち合わせ。

まずは暖母。ここはつくづくおかしな店で、おもしろい。シャンデリアがぶらさがる昔のアンティークな純喫茶の見た目。喫茶と居酒屋とイタリアンと大衆食堂が混在しているようで、そのどれでもないがどれでもである。たこ焼きもピザも食える。飲み放題メニューもある。中華や日本の麺類だけはないか。とにかく安くて量がある。それに、客層が、これはもう赤羽的としかいいようがないのだろうなあ、「市民」というより「労働者庶民」。

最近おれは、「庶民」を「貴族庶民」と「労働者庶民」にわけてみるとおもしろそうだと思っている。なにしろ、いろいろ「格差」や「不均衡」が激しくなり「分断」もなかなかのもんだからねえ。「庶民」なんて言葉でくくるのは難しくなっている。

それはともかく、暖母で、まずは乾杯。どうやら、夏以来のことらしい。

チョイと酒が入ると元気になる、やっぱり日本酒が飲めるところへ行こう。そうだ、王子の山田屋へ行こうと、1時間ほどで暖母を出た。ついでに一番街のほうをぐるっとまわってみると、まるますは行列ができていた。あいかわらずですなあ。行列の大半は二人連れ以上の貴族庶民風、なかに一人客の労働者庶民風がちらちら。

山田屋はまるますほど混雑はしない。まずは、高千代の辛口をボトルで。あけたあとは、緑川や鶴齢をグラスでちびちび。ますます調子がついて、池袋のアボチョイへ行こうとなった。

アボチョイはけっこう混んでいたが、なんとか座れた。生ビールのナンチャラやらジントニックを飲んで、どんどん酔いが深まる。

出たのは何時かわからない。池袋駅手前あたりから記憶がとんでいる。ひさしぶりに泥酔記憶喪失帰宅だった。

ま、何を話していたか、たいがい思い出せそうだが、どのみち忘れてもよいようなことばかり。と、覚えていなくてはならないことを忘れているかもしれない。酔っ払いはあてにならない。

とにかく、今年も作家は津村記久子だったし(+滝口悠生)、来年は津村記久子攻略が成功することを祈ろう。

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2018/12/14

死者を送る。

きのうは、7日に亡くなったギンちゃんの葬式に行った。

小田急線千歳船橋から10分ほど歩いたところのホールで9時半に始まるというので、ラッシュのピークを避けるため東大宮7時20分ごろの電車に乗った。8時10分すぎに新宿に着き、東口のベルクへ。生ビールとホットドッグ、生ビールおかわり。演奏のバンドは知らないが、BGMにロック調の「インターナショナル」が流れた。

立て~飢えたるものよ~、ああ、いま立ってドッグを食べてビールを飲んでいます。しかし、この曲、これから葬式のギンちゃんにピッタリな感じがした。彼女は左翼ではなかったが、ウッドストックからやってきたカウンター・カルチャーという感じだった。それにしても、朝からインターは、左翼なんぞ知らなくても、調子が出る。

会場に着いたら9時半を少しまわり、式は始まっていた。ギンちゃんは、もともとキチンとした計画的な人という評価が高かったが、葬式についても全部決めておいた。それに従い、無宗教、戒名なし、香典のたぐいお断り、家族と親しかったものたちばかりで静かに営まれた。

「あの当時」の関係者は、おれのほかはRちゃんとなお女のみ。高山のSさんがいたのには、おどろいた。ギンちゃんとは、かなり以前から仕事をしていたとか。おれはあまり付き合いがいいほうじゃないせいもあるが、そういう情報に疎い。なお女とSさんは火葬場まで行ったが、おれとRちゃんは葬列を見送り、お別れにした。

見送って、「ああ、いっちゃった」とつぶやいた。

おれとRちゃんがそのまま帰るはずもなく、すっかり冷えたし、蕎麦で燗酒を飲みたいねえと千歳船橋駅周辺を探したが見つからず、祖師谷大蔵なら駅近くに蕎麦屋があったと一駅乗る。だが、そこは牛丼チェーン店になっていた。ま、ここでいいかと入ったのが、日高屋。11時半近くだった。それから13時すぎまで、よく飲んだ。

「あの時代」というのは、70年代後半から80年代前半、あの会社でおれが経営権を握っていた数年間のことで、管轄下に彼らがいた。おれが一番年上で、いまは75歳、その次がRちゃんで70歳。Rちゃんがいうには、若死にが多いという。おれより数年年上だったクリさんは1980年代に49歳で亡くなった。あとえーと、ビンシュ、カミヤマ、アンザイ、カトウ、若いうちに亡くなり。事務所に何か悪霊でも棲みついていたか。そういえば自殺もあったな。ここ数年で亡くなったのは、クニコさん74歳、ミトメ60歳ぐらい、カツカワ70歳ぐらい、そしてギンちゃん69歳、というぐあいにあげて、それぞれの思い出を話したり。

ってえと、残っているのは、はーすけ、マコト、ノムラ、ユウタ、ヨネさん、なお女…みんな、いちおう、60代にはなった。あと…、ショウジさんどうした、カムラさんやポンさんは生きているか。ポンさんとイワノが殴り合ったのが懐かしい。

さらに、「あの時代」以前の、おれより一回り以上年上の人たちの話になった。この3人はクセモノだ、かなりヤバイ背景を持っている。話しながら忘れていたことまで思い出した。大陸にあった実質スパイ養成学校の某学院の関係者だった某、朝鮮戦争当時の共産党の地方幹部だった某と某、それに某研究所の某、半島を舞台にした人脈と某はいつから極右につながったか。ようするに「右」「左」などは、そんなにキレイにわかれているわけじゃない、二重三重に立場が入れ替わる。

てな、アノ人コノ人たちの話をしながら、ビールをぐいぐい飲み、笑う。ま、みんな知らないうちに、そういうヤバイ関係の重なりのなかで生きているのさ。自分だけは政治と関係ない、無色だ、と思いながら。そういえば、Mなどは、ずいぶん口の軽いスパイだったな、某CIAに取り入ったときのことをペラペラしゃべったり。でも、肝心なことはしゃべらなかったよ、そこがアノ人たちらしさなんだな。

うへへへと、話はアメリカへとんで、某氏がCIAのリストに載っていて嘘だと怒っているが、どうやらその噂を流したのは「あの時代」のMらしいぞ。あの頃、アメリカで一儲けできるところだったのになあ。ま、食べ物の話をしているぐらいが、いちばん無難かもしれないねえ。なんの進歩もないけどね。彼らから見たら、日本人は大甘ってことだろうし、たしかにおれたちは幼稚な大甘の日本人だけど、それを自覚していればいいんじゃないの、そうすればへんなところに首を突っ込まなくてすむんだが。やたら大人ぶるやつがいてね。大甘は増長しやすいから。がはははは。

そうして、最後はギンちゃんの話になり、あいつはほんとうに楽しいやつだった。深刻なヤバイことでも、あいつが話すと笑い話になっちゃうんだよなあ。ほんと、ほんと。

シングルマザーのまま、この妊娠だけは計画的でなかったにちがいない、生まれた子を育てあげた。その赤ん坊が生まれたあと、ギンちゃんは何度か背負って出社したのだが、それからこの子を見ていないおれは、この日初めて、喪主を務める成長した彼を見たのだった。

ギンちゃんのおかげ、といっちゃなんだが、こうして会っておもしろい話もできたし。じゃ、また誰かが死んだときに会って飲もう。おお、そうしよう。

で、祖師谷大蔵駅で、Rちゃんは下り電車に乗るし、おれは上りで新宿へ出るので別れたが、考えてみると、おれとRちゃんが年齢的には次に死ぬ確率が高いのだった。ほかの誰かが死んで、二人で飲める機会があるのだろうか。

当ブログ関連
2018/12/08
ギンちゃんが亡くなった。

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2018/12/11

『ハックルベリイ・フィンの冒険』の一大事。

『ハックルベリイ・フィンの冒険』は、ときどきパラパラ見たり、何度かはシッカリ全部読んだりしている。『トム・ソーヤの冒険』もいいが、ハックのほうが、おもしろいだけじゃなく、なんてのかな、あの開放的な自由の思想ってのかなあ、それがいいドラッグになってカツが入るのだ。

ところがだ、そうまで入れ込んでいたのに、といってもおれの「入れ込み」ぐあいはネチネチが嫌いだからテキトーなんだが、テキトーだから、いろいろ見逃している。

今回、おれにとっては一大事を見逃していたのに気がついた。だから、こうして書いている。

それは、新潮文庫版の33刷(1982年6月)だと、本文が始まってすぐ、2ページ目にあるのだ。

ハックが几帳面で上品で堅苦しいダグラス未亡人のもとを一度は逃げ出し、そしてトム・ソーヤに捜し出され連れ戻されたあと。

「またもや、元の通りのことが始まった。未亡人が夕食の鐘を鳴らすと、時間どおりに行かねばならず、食卓についてもすぐ食べてはいけない。未亡人が頭を垂れて食べもののことをくどくど言うのを待たねばならないのだ。別に食べものがどうかなっているわけじゃないのに、――ただ、なにもかも別々に料理してあるというだけのことだ。これが残飯桶の中だと話がちがう。いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ。」

これはもう、ハックというより作者のマーク・トウェインに拍手喝采を送るべきだな。

別々に料理し別々の皿にもった、単品単一型の美味追求より、残飯桶の中で「いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ」と、複合融合型美味追求のぶっかけめし・汁かけめしを語っている。

これをよろこばずにいられるか。

しかし、なんで、ここんとこを見逃していたんだろう。『ぶっかけめしの悦楽』(1999年)を書いたときも、『汁かけめし快食學』(2004年)を書いたときも、気が付いていなかったのか。気が付いていたら、ゼッタイ引用したもんな。どこに目をつけて読んでいたんだ。

ま、おれの頭も目もザルだけどさ。

いやあ、さすが「現代アメリカ文学の源泉」といわれるこの作品だ、と、こういうとこで評価したいね。書かれた、ふだんの食事にあらわれる思想は、その文学や文化の本質だ。

と考えると、夏目漱石だの森鴎外だのを奉り、文学というと上品に気取って人びとの上にそびえようという日本の近現代文学そしてその影響下のテキストどもは……おっと、これ以上はやめておこう。

とにかく、ハックルベリイは何度読んでも、たのしい。

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2018/12/10

「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。

平成のはじめごろ、「蛸壺化」なんてことが騒がれ、「セグメンテーション」が生き残り戦略のようにいわれることもあり、そのあたりが「オタク」などにとばっちりしながらぐちゃぐちゃ、とにかくやたら「細分化」が進んだ。平成は細分化の時代だった、といえそうだ。

産業社会のゆきづまりの結果の情報社会のせいなのか、もともと日本人は「蛸壺型」なのか。

どうだ、いまや、出版の飲食の分野を見ても、カレー、ラーメン、丼物、餃子をなどは涙がたれるほど懐かしい古典的なテーマになり、どんどん細分化され、さぬきうどん、やきそば、たこ焼き、お好み焼き…、ラー油や発酵やスープや塩など続々、それぞれに「我こそは」という感じの情報通がいらっしゃって、なかなか鼻息もあらい。

きのうの話の「ナポリタン」だって、いまや「日本ナポリタン学会」なるものもあり、1995年ごろには「絶滅品種」かと思われていたハムカツにも「ハムカツ太郎」なる人物が活躍している。

パフェだのコーヒーゼリーだのという本もたくさん、もっと細かくは、ドコソコの有名店が一冊の本になってしまうのが続々。

細分化は、テーマだけじゃなく切り口にまでおよんでいる。食う飲むの本などは、テーマ×切り口で、際限なく細分化がすすんでいる。「立ち飲み」「センベロ」「一人飲み」とかとか、そこに酒器だの作法だのが交差して。

情報過多のなか、細分化し、わかりやすく、消費しやすく。アメ横の割りばしを刺して売っているカットフルーツみたいだ。カットフルーツ山盛り。デカイまんまのスイカを手で割ってかじりつきたいんだよ、と思っても、それじゃ「文化」になりませんという感じで、やたら細分化しては小ぎれいにし、知的に文化を気取っている。ま、なかには「闇市派」のようにキタイナイ系もないではないが。

おれの肩書も、「大衆食堂の詩人」とかいう、いくらか細分化されたものになっているが、「大衆食」や「大衆食堂」なんていう分類は大きすぎてカワイイものだ。

「分類」と「比較」は、人類の文化的所業の根幹であるにはちがいないが、昨今の「細分化」はそれとはちがうようだ。やっぱり、薄気味悪い「蛸壺化」の進行が、ますます深まっているんだろうか。ニッポン・スゴイからオレサマ・スゴイまで、わっしょいワッショイ。細かく知ることが深く知ることと錯覚されたり、全体像が失われ、いろいろ認知が歪んできている感じもあるし、とにかく薄気味悪い。

このあいだ、やはりある細分化された分野で有名な方が、「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいいのであって、自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる。もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」と言っていて、エッと思った。そういう話なの?

でも、こういうわかりやすそうな例が、わかりやすいからこそか、けっこう受け入れられるんだなあ。

「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいい」「自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる」「もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」。まるで別のことが、みごとにつなぎあわされて、なんだか「正しそう」になっている。

そして、こんな考えのなか、「自分にとっての心地よさ」を求め、さらに細分化が進むのだろうな。

ちょいと考えてみれば、「もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求」したら、やっぱり魑魅魍魎の棲家になることぐらいわかりそうなものだが、細分化された明晰な頭脳は、なんだかとても歪んでいる。

こうして、どんどん歪んだ認知が広がるのだろうか。うへへへへ、こわいなあ。細分化された魑魅魍魎だらけ。

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2018/12/09

「ナポリタン」ってのはね。

もう、ほんとうに、飲食ネタは花盛りだけど、デタラメが多すぎやしないかという話をしていた。まあ、売れれば天下、という時代だからなあ。

ナポリタンにかぎらず、まいどのワン・パターンなんだが、「プロの味」だのなんだのって。そりゃまあ、プロはプロでやっているでしょうけど、そういう話がにぎやきになるのは、いつごろからのこと? わりと新しいんじゃないの。「B級グルメ」が話題になりはじめた、1980年代の後半の「B級グルメ」の本などでは、ナポリタンなんかたいして話題になっていないよ。だけど、どんどん食べられていたよ。

おれが、おふくろがつくるナポリタンを食べていたころは、ってのは中学から高校のころのことで、小学校のころはハッキリ思い出せないのだが、もしかすると小学6年生のころには食べていたことがあるかもしれない、つまり1950年代後半ぐらいか。

そのころ、おれのまわりでどのていどの人たちが「ナポリタン」を食べていたか知らないし、友達と話題になったこともなかったが、とにかく、スパゲッティは売られていたし、高校の山岳部の合宿(1958年~61年)でもナポリタンをつくって食べたよ。

なにがいいたいかというと、「プロの味」だのなんだの関係なく、たぶんスパゲッティ麺メーカーやケチャップメーカーの包装の作り方や広告宣伝のおかげじゃないかと思うんだが、どんどん人びとの生活の中で勝手につくられていたのさ。

そういうことをまったく無視するように、飲食店の「プロの味」ばかりが流布される。それって、ナポリタンにかぎったことじゃないが、「歴史修正主義」じゃないの。ってか、飲食のことについては、まっとうな歴史とは何かすら疑わしい。これなんていうんだろう、「似非歴史主義」とでもいうんかなあ。「似非科学」は問題になるわりに「似非食文化」は話題にならない。そういう「劣化ループ」ね。

と、飲食ネタのいいかげんさを正そうとするようなことをいうと嫌われるから、やめておこう。みんなは「いい話」がほしいだけなのさ。

はあ、「崑崙」のナポリタンとミートソースは、よく食べたなあ。

とにかく、飲食ネタを、エラそうな、かっこいい話にするのはやめようぜ。ナポリタンってのは、貧乏くさい生活の中で、あれをすすりこむようにズルッズルッと食べると貧乏くささを抜け出せそうな、バタくさい「洋風幻想」を一瞬あたえ、うどんのような腹ごたえを残してくれる、まあ愛しいやつだったのさ。

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2018/12/08

ギンちゃんが亡くなった。

危篤状態で年は越せないだろうといわれていたギンちゃんが昨夜亡くなった。

2013年末にミトメが亡くなったとき知らせてくれたのがギンちゃんで、その翌年カツカワが亡くなったのを知らせてくれたのもギンちゃんで、そしてこんどは彼女が亡くなった。まだ60代半ばだし、一番長生きしそうだったのに、先月末、かなり悪いという知らせを受けカクゴはしていた。

70年代中ごろ、彼女は20代。細い体に、いつもジーパンはいて、ヘルメットでもかぶっていれば似合いそうな格好で(当時のウーマンリブ活動家みたいだった)、「おい、ひるめし食いに行こうゼ」なーんてやっていた。ある朝、痣だらけの顔で出社した。前夜会社の連中と飲み酔っ払い、夜中の新宿中央公園で、その辺に置いてあった自転車で滑り台を乗って下り、すっころがった。そんな酔っ払いを重ねているうちに、妊娠した。シングルマザーの道を選び、めでたく出産。乳飲み子を連れて出社した。などなど、いろいろ話題の多い女だったが、サバサバした気性で仕事もでき、みんなに好かれた。おれは同じ会社にいても(いちおう、おれが「上司」だったが)直接仕事を一緒にしたことはない。ま、ようするに飲んだのだ。ときどき(子供が少し大きくなってからも)シングルマザーの苦労話をおもしろおかしくしていたな。

最後に一緒に飲んだのは、いつだったか、カツカワが亡くなったあとだったような気がする。そのとき集まったメンバーは、彼女と同じ年ごろ、おれより10歳ぐらい下の連中ばかりだった。東中野で大いに飲んだ。70年代中ごろのようにはいかないが。

それはそうと、昨夜亡くなったのに、火葬場が混んでいて、13日まで火葬ができないのだそうだ。

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2018/12/07

ループの内と外。

きのうのエントリーに使った「劣化コピー」という言葉、最近どこかで見たような気がするなあと思って検索したら、あった。

「平成の終わりは、昭和末期の「劣化コピー」である〜ループする衰亡史」というタイトルで、與那覇 潤が書いている(2018年11月23日)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58542

これ、当ブログの2018/04/01「「福島」から遠く離れて。」に書いた、円堂都司昭が『戦後サブカル年代記』(青土社2015年9月14日発行)の、「戦後史をふり返れば、似たモチーフが時代を超えて何度も登場したし、私たちは「終末(スクラップ)」と「再生の(ビルド)」のある種のループに閉じ込められているかのようだ」「日本人はいまだにループの外部を上手に思考することができず、過去を反復しようとしてしまう」という話と少し重なるところがある。

「歴史は繰り返す」てな言葉があって、現在はかつてのあのころに似ているという話はよくあるけど、與那覇の「ループ衰亡史」も円堂の終末と再生のループも、そういうのとチトちがう。とくに円堂のは、ま、本も厚いけど、重層的に解き明かしていて、考えるもとになる。

しかし、なんでこういうループにはまりやすいんでしょうねえ。と、いちおう、ループの外側にいて、それなりに苦労が多いつもりのおれは、思うわけだが。

そりゃそうと、きのう書いたように『あれよ星屑』を読んでいたら、山田風太郎の『戦中派不戦日記』が気になり、たいして本がない本棚から講談社文庫のそれを簡単に見つけ出しパラパラ読んでいた。

これは敗戦の年の昭和20年の記録なのだが、後半には闇市がたくさん登場する。新宿、新橋、三軒茶屋など。山田風太郎はいい家のお坊ちゃんの医学生だから、金さえあればなんでも手に入る闇市でいろいろなものを買っている。映画も見に行っている。おなじ戦後でも、金がなければ飢えた地獄の日々とは、かなり違う暮らしだ。

けっきょく歴史なんてのは、どの時代のどの人たちをどう見るかで、ずいぶん変わるわけだ。それでループにはまったりもするんだな。

『戦中派不戦日記』は何度もぱらぱら読んでいるが、今回気が付いたのは、いま、きょうあたりから「明日は真珠湾攻撃の日」と騒がれているけど、この日記では、まったくふれられてない。

まだ「敗戦」の実感もわかずボー然としたり激しい混乱のなか、「ガダルカナルの生き残りです」という傷痍軍人が町にいるなか、日本が太平洋で戦争の泥沼にはまっていくことになったその日のことなど、誰もが思い浮かばなかったのだろう。

1956(昭和31)年、経済白書は「もはや戦後ではない」とうたったけど、なにも終わちゃいない。まだ大勢はループのなかなのさ。

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2018/12/06

星屑の行方。

『あれよ星屑』の山田参助さんに、ちょろっとお会いしたとき、あの話は、誰か自分の近親者などの体験談がもとになっているのか、というようなことを聞いた。については、2018/03/24「鬼子母神通りみちくさ市で「地下アイドル」世界を垣間見る。」に書いた。…クリック地獄

2巻の帯に、大根仁さんが「こんな話どうやって思いつくんだ?本物中の本物」と書いているのを見て、ヒザをたたいて笑った。まったく、その通りだ。

ちかごろは、たいがいの出版物なるものは、全日本的現象ともいってよい「劣化コピー」の繰り返しで、既視感ありありだし、ようするにオリジナリティはどこへ行ったと思うことが多いなか、ほんと「こんな話どうやって思いつくんだ?」と思っていた。

まだゆるゆる繰り返しながら読み進めているところなのだが、よく戦後の闇市と生活を思い出しては、すすむのが止まってしまう。といっても、もう70年以上前のことだし、おれは『理解フノー』にも書いたように、80年頃から前の写真は一枚もないので、手がかかりが少ない。

写真はなくなったが、覚えている写真は、何枚かある。

一枚は、母の一番上の兄と次の兄が出征する前に、一家で母の実家の前で撮ったものだ。その写真には、まだ1歳になっていないおれが、白い赤ちゃんの正装で、母の一番上の兄に抱かれて写っていた。

当時、母の実家は、現在の調布市つつじヶ丘にあった。父と母は結婚した当初、その近くに住んでいた。昭和16年におれの兄が生まれたのはそこで、その後、父と母と兄は父の実家のある新潟県六日町へ移住した。そして昭和18年に兄が亡くなり、入れ替わるようにおれが生まれた。おれが生まれたのは9月だから、写真はたぶん昭和19年のものだろう。

次の一枚は、リアカーに腰をおろしている、おれと母、それに母のひざの上には赤ん坊の弟がいた。弟は2歳違いの昭和20年生まれ。たしか6月生まれであり、この写真の背景は当時のわが家のサツマイモ畑だったから、芋掘りに行ったときのことだろう。20年秋のことではないかと思う。

この頃のことは、うっすら記憶がある。その畑は町の外にあり、何度も行ったし、サツマイモのほかにジャガイモもつくっていて、それらをよく食べていた。収穫しリヤカーに積んで家まで帰るときの興奮もまだ身体の片隅に残っているような気がする。

町に人影は少なかったが、しだいに国防服を着た男たちが増えた。いわゆる「復員兵」だ。隣の家の主は、復員して町に帰る列車で線路に落ち大怪我をして入院したというような話もあった。あそこのひとが帰ってきた、あそこのひとはダメだったらしい。静かだった町は騒々しくなった。

父は、母と結婚するころに、カメラを買ったと思われる。あるいは結婚する前、母を撮りたくて買ったのかもしれない。とにかく、うちにあったアルバムの最初の頃の写真には、母が一人で写っているものがけっこうあった。小さいころ、「どこか」と聞くと「深大寺だ」と言われたのは覚えている。そのあたりでデートをしていたのだろう。

食べ物の写真がドバッと姿をあらわすのは、戦後だ。ひとつは東京の闇市であり、ひとつは六日町での農作業のあいだのいろいろな人たちの食事風景だ。これらはたくさんあったし、子供心にも「いいなあ」と思う写真が多かったので、よく覚えている。

そう、『あれよ星屑』を見ながら、とくに闇市の写真を思い出していた。

父は自分で現像から焼付までやっていたので、大きな版のものもけっこうあった。闇市の全景、通りや雑踏、店頭の様子、人物や食べ物のアップ、しっかり目に焼き付いている。たしか新宿と新橋の闇市だと言った。

母の実家は、おれが小学校に入る年に、六日町で一緒に住むようになるまで、(当時は「金子」といった)つつじヶ丘にあった。出征した母の長兄と次兄は復員後戦地で罹ったマラリアのため死んだ、母の姉が肺病で死んだり、そういうこともあって父と母はよく上京したし、おれは母の実家に長い間あずけられることもあったし、父はそんなあいまに写真を撮ったのだろう。

そのころ、家族で普段の食事にどんなものを食べていたか、まったく思い出せない。思い出すのは、紙芝居の水あめとか、アイスキャンデー売りのアイスキャンデーとか、配給のパンとバターをトーストして食ったこと、それからどんどん焼。思い出とは、そういうふうになりやすいのだろうか。

写真がすべてなくなって、惜しいと思ったことはなかったが、あの闇市の食べ物アップの写真や、農作業の途中で草の上に重箱やにぎりめしを広げてかぶりついている様子は、「生きる」「食べる」の貴重な記録だったなと近ごろ思うのだった。

というのも、昔の暮らしのことになると、あいかわらず、普通の労働者のことより、作家とか文化人とかが書き残したかれらの暮らしや、彼らの目から見た暮らしの話が多いからだ。もう既視感ありすぎ。

ま、それが出版としてはラクだし売りやすいからだろうけど、もっと膨大な真実が眠っているような気がする。

と、また『あれよ星屑』を読み進めながら、ふりかえるのだった。

当ブログ関連
2015/09/02
新宿東口闇市に幼いころの自分の姿を探す。

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2018/12/05

「しあわせ」。

ことし亡くなった知人は、二人。いま、もう一人、おれより10歳若い女性が、病床で年を越せるかどうかわからない状態でいる。

亡くなった二人は男性で、一人は43歳という若さだった。4月、突然の訃報だった。大学を出たあと、「限界集落」だらけの山間の町で、両親と暮らしながら役場に勤め畑もやっていた。明るい活動的な人だった。訃報に接してから、サボりがちだったツイッターを見たら、亡くなる前に「頭痛がする」というツイートをしていた。そのとき医者へ行っていたら、と思うが、なんにせよ、もうもどらない。

もう一人の男性は、おれより10歳上で、「食堂のとうちゃん」だ。毎年1、2度は行っていたのだが、だんだん出不精になったこともあり昨年は一度も行かなかった。

8月に亡くなり、すぐ知人が知らせてくれた。半年ほど前から入退院を繰り返していたそうだが、おれは最近行ってなかったから知らなかったのだ。

創業のおやじの跡をついで妻と食堂を続け、すでに息子夫婦があとをついでいる。とうちゃんは夕方になると店のすみで酒を飲んでいるだけだった。

じつは今日、風呂に入りながら、ことし亡くなった人たちを思い出していたのだが、なぜだか、このとうちゃんの母上つまりばあちゃんを思い出した。

ばあちゃんが亡くなったのは、いつだったか思い出せない。とにかく2000年代後半で、92歳ぐらいだったはずだ。あるときそのばあちゃんが店にいて、近所のばあさんと顔をよせあってヒソヒソ話をしていた。二人とも、眉根にしわをよせ深刻な顔をしていた。

きくともなくきいていると、「まさこさまだって、あんなぐあいだからね」「なにがしあわせかわからんよ」「わたしたち東京の真ん中の大きな御殿に暮らしたことないけど、まさこさんよりしあわせだよ」「そうだよ、いじめはいやだね」「おかげさまで、こんなとしになってもしあわせだね」「ほったらかしだからね」といったぐあいだった。

「まさこさま」とは「雅子さま」のことで、当時は、帯状疱疹だのなんだのだと騒がれていた。その原因が周囲のいじめであるような報道もあって、ばあさん二人はそれで「しあわせ」を考えたのだろう。

それからしばらくして、ばあちゃんは寝たきりになり、亡くなった。

とうちゃんも、ばあさんたちが感じていたしあわせを生きたにちがいない。

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2018/12/04

いまさら、のようですが…。

五十嵐泰正さんの『原発事故と「食」』(中公新書)が発売になったのは、今年の2月のことだった。「あのころは」と遠くを見る目をしたくなるほど、この話題がけっこう盛り上がっていた。それからもっといろいろに議論が発展するのかと思ったが、そうはならなかった。

一部では、「識者」たちが群がり言論的な話題として消費されておわった感じがあるし、一部では、それぞれの立場にこだわり続け分断の解決に向かうより私怨を深めていったように見えるし、ほかに、あれはなんといったらよいのかシノドスというかフェイクナントカをめぐるジケンは一部の人たちをしらけさせた。

もちろん、おれのしらないところで、いろいろ議論になっているのかもしれないが、どのみち、コトはそうは簡単ではないのだな。

簡単ではないから、ときどきこうやってぶりかえして、「いまさら、のようですが…」といってみるのも、悪くないだろう。

いつごろからか、いつも利用している近所のスーパーには、「福島産」の野菜が普通にならぶようになった。米はないが、もともと福島産はなかったような気がする。

「風評」の払拭には、どれぐらいの期間が(人と金もからめ)かかるものか、その基準というのは、あるのだろうか。また今回は対策として、風評のもとになるデマが、クローズアップされることが多く、デマを叩くことが対策であるような感じもあったが、そのあたり、どうなのだろう。風評対策のあるべき姿に近づいているのだろうか。そういうことが、けっこう気になった。

とにかく一日も早く風評をなくさなくてはならないということで、デマを叩きまくるってことが対策であり、どれぐらいの期間をかけてどのように風評を払拭していくのがよいのか、検討が深まっている感じはなかった。というのは、おれの印象だが。

五十嵐さんの主張である「切り離し」つまり、福島県産を普通のマーケティングとして追求することについては、「風評とデマ」のほうが耳目引いて話題になり、あまり深まった感じがない。

けっきょく「××派」対「〇〇派」の枠組みが前面に出てきてしまう。「××派」対「〇〇派」があっても、それは見て見ぬふりして、オトナの対応でいきましょうねと取引に持ち込むという関係は、あまり見られなかった。といっても、これはインターネット世間の主には「識者」のことで、実際には、ウチの近所のスーパーにも福島県産がならぶようになった。どっかで、誰かさんと誰かさんがいがみあっているうちに。

「食べて応援」については、五十嵐さんは次期尚早だったようなことをいっていたと思うが、おれは、この件についは、もともと農水省がやるべき仕事だとは思っていない。「食べて応援」は、あってもよいが、「民間」が主導する仕事だ。そのへんのケジメのなさというか、デリカシーのなさは、ま、官僚だからね、ということにしておこう。食育基本法にしてもだが、何を食べるかは「個」に属する問題だという基本的な認識が足りない。

ともあれ、検証となれば、どれぐらいの予算措置で、どれぐらいの期間に、どれぐらいの成果を出すつもりだったか、気になるところではある。が、たいして気にしてないか。おれの知り合いには、「食べて応援」に職務で関わっていた人もいる。大きな組織が動いているのだから、そういうこともあるし、大きな組織だから「食べて応援」でよかったのかが問われる。

「まずは生活者・消費者として、2011年3月から自分が何に悩み、憤り、悲しい思いをしてきたのかを振り返ってみること。そのときどきに下した一つひとつの小さな決断が、どういう意味を持っていたのか、あらためて考えてみること。/原子力発電を、肯定するのであれ否定するのであれ、いまこの社会に必要なのは、一人ひとりのこうした省察と、日常的な場でそれを話しあってみることだと、私は強く感じる。」と五十嵐さんは述べている。

ちゃんと向き合えるだろうか。

少し話はズレるが、このあいだ知り合いと飲んだとき、共通の知人で原発事故の後、「西へ」移住した人たちの近況を話し合った。二組の夫婦、一組は子供が二人いる。それぞれ移住した田舎町で、東京にいたときよりうまく商売をしているらしい。もちろん最初は大変苦労したらしいが。「東京にはもどりたくない一心でがんばったって、それはそれよかったじゃないの」と笑った。

ほかにも、原発事故がきっかけで「西へ」移住した知り合いがいる。みな結婚しているし子供がいる家族も、何組か。あの事故がなかったら、東京にしがみついて生きていたかもしれない。彼らは、そうでない方向へ向かった。抱えた不安や不信は、一人ひとりちがうのだ。

とにかく、原発事故については、何も終わっていない。

当ブログ関連
2018/03/11
3月11日だから、五十嵐泰正著『原発事故と「食」』(中公新書)を読んで考えた。

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2018/12/02

ひさしぶりに風邪で休んだ。

ごほごほごほ。水曜日は朝からイヤな咳が続いた。

止まりそうもないので、午後からドラッグストアへ行って、浅田飴を買ってなめていた。

熱はないようだが、といっても体温計をあててみたわけではない、その必要は感じなかったというていどだった。

がぼっ、げぼげぼげぼ。背中中が蠕動し、生ぬるいかたまりが喉にのぼってくるのがわかった。

かーっ、ぺっ。そのかたまりを喉から口中に押し出すようにしながら、テイッシュをとり、吐き出した。

10円玉の倍ほどありそうな、薄茶を帯びたドロッとした痰だった。

どうも食欲がない、味もない。唇から口中は乾燥した砂の洞窟みたいだ。酒を一杯飲んで、家にあったルルを飲んで寝た。

木曜日、症状は回復しない。一日ベッドで過ごしていたが、夜は毎月最後の木曜日に居酒屋ちどり@北浦和で開催の円盤企画「URCレコードを全部聴く会」の日だ、予約はしてあるし行きたい、だが、身体は無理そうだった。だいたいこう咳が出ては、まともに聴くこともできないし、ほかのお客さんの迷惑にもなるだろう。あきらめて、予約はキャンセルした。酒は飲んだが、あまりうまくなかった。

金曜日、朝、いくらか身体が軽くなった感じがした。どん底を過ぎたか。でも咳は止まらない。ルルがなくなったので、ドラッグストアへ行って、ルルと野菜ジュースとプリンの類を買った。ベッドで過ごしていたが、夕めしの買い物に出た。食欲がないときの買い物は難しい。前夜の鍋の残りに水餃子と野菜を入れた汁をつくり、生ザケのムニエル。酒は一滴も飲まなかった。何十年ぶりかの快挙だ。

土曜日、ぐたっとしていた身体に力がもどってくるのがわかった。咳は続いているが規模は小さくなった。断続的な咳の間に、ときどき、がぼっ、げぼげぼげぼ、かーっ、ぺっがあるが、出てくる薄茶色の痰は10円玉ぐらいになった。食欲はイマイチだが、スーパーへ買い物に行く。とにかく、やわらかいもの、身体があったまりそうなものにしようと、豆腐とひき肉とピーマンと麻婆豆腐の素を買った。ピーマン入りひき肉多めの麻婆豆腐をつくった。酒は飲まなかった。

ひさしぶりに「風邪で休んだ」という気がした。これほどひどい咳が続いたことは、ここ20年はなかったし、その前は記憶にない。

日曜日、きょう。唇から口中の乾燥した砂の洞窟みたいだった感じがなくなり、もとのボクチャンの柔らかい唇にもどったようだった。鼻をかむと、ずずずずっと気管の奥から何かを引きずりだすような感じがして、テイッシュの中に、薄茶色の痰よりもっと濃厚な色の小さなかたまりが出るようになった。戦いは終わりに近づいているようだ。

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