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2019/01/25

プロとアマ。

このあいだ、あることのアマチュアの方と話しているうちに、いまどきの「プロ」と「アマ」が気になった。

おれは、「プロ」だの「アマ」だのには興味はなく、ただ「人間としてどうか」で、生きているだけなのだが。

おれの体験では、1960年代ぐらいまでは「アマチュア精神」なるものが、けっこう称揚されていたのに、いつ頃からか、プロが優れていてアマが劣っていることになり、アマはプロに隷属し、プロを憧れや目標やモデルや模範にしなければならないようなことになった。

そのいつ頃からかが気になって調べてみたら、オリンピックの黄金看板だった「アマチュアリズム」が、1974年のIOC総会でオリンピック憲章から削除されたあたりからだと思われる。

「アマチュア精神」と「アマチュアリズム」は必ずしも同一ではないようだが、「アマチュアリズム」は崩壊し、「ビジネス」と「プロ」という言葉が盛んに使われるようになった。

おれがそのころ趣味でやっていた登山の分野でも、1971年には「社団法人日本アルパイン・ガイド協会」ができていて、プロ化とビジネス化に向かっていた。

そう、あの頃から、「ビジネス」と「プロ」という言葉が、日本の世間に広がっていったのだ。

そして、日本では、1980年代から新自由主義がマンエンするにしたがい、アマはプロの市場であり予備軍というぐあいになっていった。

「囲い込み」と「囲われる」関係が、色濃くなっていった。

「好きを仕事にする」のが称揚され、プロに憧れ、プロに近づき、プロの中のプロをめざすことが、世間の機運になった。

「好きなこと」で、産業とビジネスという籠の中の鳥になっていった。それが「プロ」ではなかったか。

でも、アマは、たくさんいる。

たとえば、絵を描く、テニスやマラソンなどのスポーツをやる、そのことそのものには、アマとプロのちがいはない。そして、どの分野でも多数を占めるのは、アマチュアだろう。

日本の料理の世間でもそうだが、昔から「プロ」つまり「玄人」は、「アマ」つまり「素人」を見下し、隷属させようとしてきた。メディアでは、プロ側の知識や情報が、圧倒していた。

「アマ」つまり「素人」の料理とは、家庭料理であり、「生活料理」であり、「下人」の料理だ。

だけど、その「アマ」が、のちの料理の可能性をひらいた。蕎麦、寿司、天ぷら、丼物、などなど、「下品」「下賤の食」といわれたものだ。

とにかく、いまどきは、あることを「趣味」としてやっているのが、「アマチュア」というらしい。それに対し、「プロ」というのは、あることを「職業」としてやっている、ってことらしい。「職業」というのは、それで生計がたつほど金をもらっている、ってことらしい。その結果によって、手にする金額が左右される。

それでいくと「プロ」と「アマ」のちがいは、「金」だ。その「金」は、稼ぐ「金」もあるが、そのことに投じる「金」もある。

それと、誰の目にも明らかになりやすい「技量」の差だけのことだ。ところがそれは既定の方向性やルールなどがあってのことで、普遍ではない。スポーツだって、観客を退屈させないためや、テレビなどのメディアの意向のために、基準は変わってきている。

考えるほど、イマイチ釈然としない。

それか?「プロ」と「アマ」のちがいというのは。「ちがい」を見ればよいというものじゃない、「同一性」もあるだろう。文化からすれば、どっちが上で、どっちが下ということもないだろう。

アマチュアの選手が競技して、勝って負けて、そのあとは職場にもどって労働者として働いていた時代は、たしかにあった。オリンピックが終われば、故郷の学校の教壇に帰るという選手も、たしか、いた。

それがゼッタイによいとは思わないが。飲みながら考え、酔ってしまった。

美術や音楽や文章などの「表現」の世間になると、かなり複雑のようだ。

「プロ」と「アマ」を超越したいものだ。「プロ」「アマ」に関係なく、スポーツなら「身体」ということがあり、文化なら「精神」や「こころ」というものがある。しかも、その二つは切り離して考えることはできない。

考えていると、ますます、酔いが深まる。

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