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2019/03/10

おかず、普通と普通からの逸脱が普通である状態。

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ここのところ「おかず」と「普通」について考えざるを得ないことになって、あれこれ考えている。「考えざるを得ない」状況が生まれるってのは、つまりは仕事だからなのだが、いいことだ。

「おかず」と「普通」は深い関係にあるのだけど、それをめぐる環境は2008年のリーマンショックあたりから変化し、「おかず」や「普通」はそれまで以上に話題になるようになったが、その概念も内容も変わってきた。同時に、その変化を認識しないでトンチンカンをいう言説も増えた。

とにかく、「おかず」といえば、無数の無名の人びとによって続いている生活料理であり、大衆食堂でおなじみのものだ。それが近年どう変貌しながら続いてきたかを眺めると、「これから」についてもあるていど展望できそうだ。

では、「普通」は、どうなるのだろう。これがなかなかメンドウなことになっている。

普通と普通からの逸脱が普通であるという認識が普通ではないからだ。ってわけで、普通と普通からの逸脱が普通であるという状態を、どう展望できるかなのだが、これがね。認識の問題もあるが、普通からの逸脱そのものが難しくなっている。

というモンダイを考えていたら、いいタイミングで「リスク論再考」を目にした。TASCマンスリー3月号に、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授の美馬達哉が寄稿しているものだ。

とくに東電原発事故以来、なにかと「リスク」という言葉が使われるようになったが、リスクに対する考え方や議論は、どれだけ深まったのだろうか。食についてのリスク論も「健康」や「不安」とセットでにぎやかだし、「福島」と「風評」をネタにした人たちの論争ともいえないような言葉の投げ合いも相変わらずだ。

「リスク論再考」は、これまでの「リスク論」と「リスク社会論」について、簡潔に整理し、おれにとってはすごく納得のいく方向を示している。

「リスクが、日常生活、人間の心理学、社会構想のあり方までに共通する問題設定であることわかっていただけましたか」と書いたあと、最後を、こう結んでいるのだ。

「リスクについて語り、リスクを問題化する傾向が強まっていることは間違いありません。ただ、このリスク社会の現状はどこかへ向かおうとするポジティブな意思のあらわれではなさそうに思えます。むしろ、未来への不安に対する防衛反応の一種ではないかと思えてならないのです。リスクというのは未来に起きる出来事のうちで良くないことだけを意味しているからです。
 こうした傾向が出てきた背景に、われわれのもつ未来イメージの変化――ユートピアの終焉のような――があるとすれば、今求められているのは、よりよい未来への構想力だと思います。リスクに関するガバナンスをどうするかということよりも、未来への不安にどう対処するか、おそらくそのためにはリスクに囚われない発想への転換こそが必要でしょう。」

今日は東京下町大空襲から74年、明日は8年目の3月11日なのだが。

よりよい未来の構想より、「リスクに関するガバナンスをどうするか」だけの話ばかりが目立つのは、どういうわけだ。けっきょくリスクを弄んでいるにすぎないのではないか。弄んで自分のストレスを解消しているだけなんじゃないか。なーんて思っちゃうんだよなあ。

普通の幸せのために、おかずから、普通と普通からの逸脱が普通である未来を構想する、なんてのもアリなのだ。人びとの平和な日常と共にあるおかずが、どんなにありがたいことか。

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