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2019/04/17

ヒグラシ文庫8周年トーク。配布資料の続き。

昨日の続き。配布した資料のテキストに、少し改行などを加え読みやすくしただけで載せておく。

トークの前半は、登壇者のプロフィールと時代背景について。

(「新しい食堂」より)とあるのは、スペクテイター42号「新しい食堂」を参照している。

◆印は、時代背景を、大きな力に寄らず「自ら生んでいく、自らつくりだしていく」インディーズ・カルチャーの視点からピックアップしたもの。

 

(前半 プロフィールと時代背景)

丸山さん 1969年 吉祥寺のbe-bopでアルバイトを始める「大学は七〇年安保前夜、闘争闘争で講義なんてほとんどない。僕自身も勉強なんかより街に出て、外でのいろんな出会いの方が何倍も面白いって気持ちもあって」。1年後ぐらいに高円寺にムーヴィン開店した。丸山さん「ムーヴィンの雇われ店長になる」

75年大学を卒業し「保父さんになる」「『ロック喫茶も保育園も同じ、まったく違った考え方や才能を持っている人がゴチャゴチャに集うからこそ面白い』——この丸山さんの発想が、無国籍食堂カルマを生んでいく」(「新しい食堂」より)

中原さん 69年『檀流クッキング』檀一雄、74年『庖丁文化論』江原恵を読む。「檀一雄と江原恵から教わったことは、権威に頼らなくとも、料理本なんかに書いてある通りに作らなくても、それはそれなりに旨いよ、自分が食べるものは、それでいいんだ、ということであった」(『わが日常茶飯』星羊社より)

◆インディペンデントなカルチャーの胎動と躍動…60年代後半~70年代、アングラ、ヒッピー、サブ・カルチャー、カウンター・カルチャーなど、既成の文化や業界に寄らない、自ら別の可能性をひらく生き方が若者のあいだに広がった。◆1969年~75年インディーズレーベルの先駆けURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)◆謄写版印刷、リソグラフ、コピーなどを利用した「自己表現」など。

1976年 按田さん生まれる。

1980年 丸山さん 中野にカルマ開店。「僕たちの頃って、とにかく始めちゃおう、やってみて、ダメなら仲間どうし頭を突き合わせて工夫してみようみたいな雰囲気があったよね。それは決して料理に限らずだけどね」「ちょうどカルマを始めた年、玉村豊男さんの『料理の四面体』(鎌倉書房)という本が出たんですよ」

「つまり世界は広いけど、同じ人間だから、決してまったく違ったものを食べるわけじゃないんだよね」「結局、系統立てて料理の勉強なんかしたわけじゃないメンバーが集まって、自分ができる料理をそれぞれ「これだぁ」って作ってメニューにしていくわけだよね」「僕の中には家庭料理というのが根本にある気がする」「料理を通してその日の一日の何かが交わされるっていうようなのが基本なのかなあ」(「新しい食堂」より)

◆「無国籍料理」が知られていく…カルマのほかにも渋谷のスンダなど。既成の「和洋中」の概念から自由な、型にはまらない。「第三世界の」あるいは「第三世界的」料理。84年、エスニック料理ブームはこの一冊から始まったといわれる、『東京エスニック料理読本』(冬樹社)刊行。美術家集団「キュール」のケータリングなど、とくに料理について体系だった修業をしてない「素人」による料理の営業が活発になる。カルマでは、のちの料理研究家、高山なおみと枝元なほみなど。「無国籍料理」つまり「国籍」より「人間」の視点からの料理。

◆すでに昭和の初期に、このようなことを言っていた日本料理人がいたのだが→「どこの材料を用いて誰がつくらうと、日本国内で成す料理はみんな日本料理となり、もう一段進むと、日本料理も支那料理も西洋料理も無く、そこには人間の料理があるばかりとなります。」(『日本料理通』楽満斎太郎、四六書院・昭和五年(1930)刊、「料理概念の巻」の「(一)料理にも国境が必要か?」)

◆80年代~90年代、消費主義の繁栄の一方で、自らつくりだすインディーズ・カルチャーの広がり。DIYやシェア、普通化するエスニック料理など。
◆21世紀の幕開け、2001年頃…「手づくり(DIY)ブーム」、シロートの台頭、月刊誌『MUTTS』(マガジンハウス)。ウマイ/マズイではなく、自分の好みを自由に料理で表現する。餃子が家庭料理の人気、定番化。「カンブツ・キュイジーヌ」「カフェごはん」などの動き。東京の新進人気カフェの担い手が語る…森田大剛(1973年生まれ。吉祥寺「FLOOR!」店長)「今カフェといわれるものは、大企業や大資本がつくり出したものじゃなくて、個人が本当に好きなことをやっているだけですよ」「ブームっていったって、普通のことを当たり前にやっているだけなんだけど」
◆2008年、リーマンショック。大阪から「間借り営業」の飲食店が広がる。「間借りカレー店」が急増、スパイスカレーブーム第三世代を担う。「ここ、20~30年の料理は自己表現の時代だと思います。5千円以上の世界だったのが、カレーなら千円前後で表現できる時代に」(定食堂金剛石、ミーツ・リージョナル2018年9月号「大阪スパイスカレー」特集)

 

2011年3月、東日本大震災と東電福島原発事故。

同年4月 中原さん、鎌倉に「ヒグラシ文庫」開店。のち大船にも出店。
同年8月 按田さん、『冷蔵庫いらずのレシピ』(ワニブックス)出版。写真を担当した鈴木陽介さんと、2012年「按田餃子」を代々木上原に開店。のち二子玉川にも出店。

 

(休憩を10分はさんで、後半)

「場」や「場所」と料理や食事をめぐって。

鈴木「放っておいてくれる関係がよい」「僕は普段の生活をしていく上でも無理をせず、自分たちが今できることをやればいいんじゃないかと思っているんで。無理をしている人は格好悪いというか大変そうだなぁ」「大事なことは吉野家で学んだ」

按田「(吉野家でのアルバイトから)お客さんと店員さんとの距離もそんなに縮まらないところも良いんです。その感じが銭湯にも似ていて、そこが自分の性に合っていたと思います。必要だから、そこに来ている感じというか。私たち按田餃子も、お客さんのお腹を満たすためにやっている。そこは似ていると思います」

鈴木「人間一番淋しい時って、居場所がない時じゃないですかね」「誰のものでもないし、特別な場所でもありません。たかが餃子屋ですが、どんな方にもご飯の時間と場所を提供したい。それが『助けたい包みた按田餃子でございます』ということになります。だから、ひとりでも、誰かとでも、今日はもう面倒だから按田餃子でいいか。そうだな、それでいいか。という時に、お店に来てもらえたらとっても嬉しいです」(「新しい食堂」より)

按田「ふだんの食事はしびれ旨くなくていい」「『ふつうの味』を作りたい」「だいたいの人の実家は頓珍漢でカオスに違いないと思っています」「鈴木さんも『家っぽく』『生活の邪魔をしないように』と思っていたのでした」「気取らず食事ができるように」(『たすかる料理』リトルモア、より)

中原「家と仕事先だけではなく、もう一つの『場所』が必要だ。それを自分で作ろう、と思った」「店はせまい、でも遠くへつながっている」「メインのスタッフも、誰ひとり包丁修行などをした経験者はいない」「メインスタッフが代わるたびに肴も変わる。しかし、時間が経って「名物」とでも呼びたいものが出てくる」(『わが日常茶飯』(星羊社)より)

丸山「いろいろ日々混じりあっている」「八十年代にはフュージョン(融合)って言葉が流行ったでしょう?」「食堂って場だと思うから、美味しいものを出すのも大切だろうけど、やっぱり楽しいところじゃないと、というのがあるよね」(「新しい食堂」より)

 

飲食店→産業や業界に位置づくためにがんばったり無理をするのではなく、大きな力のヒエラルキーの外側で地域に位置づくことで自由にやれる余地がある。→本当の自己責任。

 

20分ほど質疑応答のち終了。

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