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2019/05/19

「楽しむとは何か?」

毎号いただいている古い『TASCマンスリー』の整理をしていたら、面白い記事が何本もある。そのうちの一つが、これだ。

2012年8月号に載っている、國分功一郎さんの「生存の外部  嗜好品と豊かさ」という寄稿。最後のまとめが、こうなっている。

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 これは今後の私の課題なのだが、哲学は「美しい」については延々と論じてきているのに、「楽しい」についてはほとんど論じてこなかった。「楽しむとは何か?」という問いはこれから哲学が真剣に考えねばならない問いである。この問いは既に述べた通り、社会総体の変革と関わっている。そしてもちろん、一人ひとりの豊かな人間らしい生活につながる問いである。

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國分さんは、「贅沢」と「消費」を対比させ、「消費と浪費の違いは明白である。浪費は目の前にあるモノを受け取る。消費はモノに付与された意味・観念を受け取る。このことは消費社会の魔法そのものを説明してくれる。消費は満足をもたらさない。しかし消費者は満足を求めて消費している。消費しても満足が得られないから、更に消費を続ける。こうして、消費と不満足との悪循環が生まれる。20世紀に爆発的に広まった消費社会とはこの悪循環を利用したものである」と述べ、「贅沢」を取り戻すことはモノをきちんと楽しむことであり、それは消費社会の悪循環を断ち切る社会的な意義がある行為だし、「もしかしたら革命的と言ってよいかもしれない」と、「楽しむことには、そのようなすばらしい可能性が秘められている」と高らかに謳う。

そして、ところで、我々は「楽しむこと」を学習しているだろうかと問う。

ここで、國分さんは、グルメブームなどの事例も持ち出しているが、すでに消費そのものを楽しむようになって、「豊かな人間らしい生活」からますます離れてしまった現在の消費者の大勢のことまではふれてない。

そして、とにかく一方では、前のエントリーの「むくむく食堂」のところに書いたように、「自分はそこで何を楽しもうとしているのか」という主体が問われる新しい食堂の出現が見えるようにはなってきた。

『スペクテイター』42号「新しい食堂」に寄稿したおれの文章も、冒頭に『料理人』(ハリー・クレッシング著・一ノ瀬直二訳、ハヤカワ文庫)にある箴言、「人間とは料理をする動物である」「人間とは食事を楽しむ動物である」を引用し、最後は「もっと自由で楽しい食事を!」で終わっている。

ところが、消費そのものを楽しむようになってしまった消費者は、自分はけっこう楽しい生活をしていると思い込んでいる人も少なくない。これは、とくに80年代以降から猛威をふるい続けている消費主義のなかで「楽しむとは何か?」を学習することを避け忘却してしまった結果でもあるだろう。

いまでは、どこで、何を、飲み食いするかの細かいところまで、消費の細分化が徹底している。なんにかぎらず「細分化」が進むところ「生活」の姿は失われる。生活とは、いろいろなコトやコノが細分化されることなくからみあっているものだからだ。そこに「人間らしさ」があるはずなのだ。

しかし、そこへ行ったことがある、それをやったことがある、それを食べたことがある、それを飲んだことがある、といった、國分さんが指摘する意味や観念の「記号」を消費し、さらなる消費を求め、生活は分解されてしまう。

そういう潮流で、長年中心的な役割を担ってきた思想が、「美しい」に関することなのだ。これは飲食のレベルでは「美味しい」ということになる。「美味しい」は「美学」のことであり、消費が楽しくなると、「美味しいが楽しい」にもなるし「楽しいが美味しい」にもなる。現在は、この段階だろう。

だから、そういう大勢に流されずに、それ、ほんとに楽しいのか、楽しんでいるのかという問いかけが、ますます意義あることになる。

だけど、そういう問いかけは、消費を楽しんでいる人たちをしらけさせる。空気を読んでないね、そういうオベンキョウはいいから楽しめよ、と。そういう消費の悪循環に一役買っているのが、さまざまなメディアであり、そのあたりで「仕事」をしている人たちであり、おれもそこから少々の仕事をいただいている。おれの場合、周縁部あるいは外側にいるから、「少々」ですんでいるのだが。それは生活的には困ったことになる立場である。

メディアのヒエラルキーの中心部では、あいかわらず「文学(文芸)」な「美しい」が力を持っている。それは、「「美しい」については延々と論じてきている」哲学の反映かもしれない。おれは哲学も文学も詳しいことは知らないけどね。

「美しい」には憧れが作用する。「憧れ」が求心力となって、消費の構造の中心に座っている。これは確かだろう。

そんな中で「楽しいとは何か?」が可能だとすれば、消費者としてではなく「人間としてどうなのか」という問いかけしかないかもしれない。すっかり消費に飼いならされた中で、いまさら「人間として」なんて、なかなか難儀なことだが。

飲食の実際は、「美しい」話ばかりを消費しているうちに、「人間としてどうなのか」から問いかけなければならないようなことが多くなりすぎて、これからどうなるんだろうという感じでもある。美しい楽しい善意の消費の悪循環の構造は、ほんと、恐ろしい。

國分さんのような学者の立場にいる人たちに大いに真剣に議論してもらいたいと思う。おれは、たいした意味のない安酒を楽しみながら考えるとしよう。おれのばやい、「美食も粗食も贅沢も清貧もふみこえて、庶民の快食を追求」「気取るな、力強く」だからね。

 

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