« このままでは終わらない。 | トップページ | 「カレーを混ぜる、文化を混ぜる」 »

2019/08/07

『暮しの手帖』に、ぶたやまかあさんとぶたやまライスが登場。

Dscn0584

暑いからね、ということで、ほったらかしのブログだが、まずは、このことを書いておかなくてはならない。

先月末発売の『暮しの手帖』8-9月号、第5世紀記念特大号に、ぶたやまかあさん家族とぶたやまライスが登場した。

その見出しからして、こんなアンバイだ。

ハードルを下げれば
楽しく続けられる。
今日も一日のごはんを
「やり過ごす」ために。

ぶたやまかあさん。会社員、やり過ごしごはん研究家、40代。

この記事は、第5世紀1号記念企画「第1特集 ちゃんと食べてゆくために」の最初のテーマ「わたしが台所に立つ理由」の一つだ。

ぶたやまさん家族、勤め人の夫と子供3人の全員が登場、そして、「ぶたやまライス」をつくって食べる。

「ぶたやまライス」とは、ツイッターでも人気のぶたやまさんのやり過ごしごはんの代表作。いわゆる「汁かけめし」の亜種であるワンプレートクッキングであり、一つのプレートにごはんとおかずを盛合わせるのだが、ぶたやまライスらしい法則性がある。

「油っぽいお肉とさっぱりした酢漬けの野菜さえあれば、あとは何をのせても良し」というもの。これ、じつは、米のめし料理の基本を押さえているし、汁かけめしと大いに関係あることなのだ。そのことについてふれていると長くなるから、またの機会に書くツモリとして。

ぶたやまさんの、「大事なのは、毎日のごはんをやり過ごすことだから」という言葉と、「豚こま肉をゆでて、ポン酢をかける。人参はラペにし、ピーマンはグリルで焼く。私は決して器用ではありませんが、シンプルな作業ならムリなく同時進行できます。人参を切っていて時間がなくなったら、明日のスープに使えばいい」という考え方と方法は、かなり面白いと思うし、いろいろな可能性を秘めていると思う。

おれも最初の頃は、「やり過ごし」ということについては、よくわかっていないところがあったが、日々の暮らしにとっては、すごく大事なことで、ここで間違うと「呪い」にかかることになる。

料理に限らず、さまざまな「呪い」にとらわれやすい環境がある。自分は能力のない人間だ、自分の仕事も人生もツマラナイものだ、自分の住んでいるところはツマラナイまちだ、などなど「呪い」にかかりやすい。そういうことにまで、「やり過ごし」は効きそうだ。人によって程度のちがいはあるだだろうが、「呪い」からの脱走も可能ではないか。「まちづくり」とか「少子高齢化」とか、そういう社会的課題にまで、使えそうな「哲学」というか「思想」というか。

「シンプルな作業ならムリなく同時進行できます」については、野菜炒めなどを対比させ、具体的に述べているのだけど、なかなか深い。詳しくは、本誌を読んでもらうとして、とくに料理につきまとう「共時性」と「経時性」のさばきかたは、これまた、いろいろな作業につきまとうことで、とても面白い。

ところで、「わたしが台所に立つ理由」には、ぶたやまさん家族のほかに、二つの家庭が登場する。新聞社写真部に勤めるおとうさんと妻と子供一人、もう一人は、画家の牧野伊三夫さんで、おれが「理解フノー」の連載をしている美術同人誌「四月と十月」の発行人だ。

「台所に立つ理由」というと、チョイと堅苦しいが、日々のことには、それぞれが「個」の「事情」というものを抱えながら、あたっているはずだ。食事についていえば、その日その日によって異なる「個」の「事情」を抱えながらつくるひとはつくり、食べるひとは食べるのだ。

企業的組織的になるほど管理がつきまとい抑圧は強まり、「個」の「事情」は薄められ平均化や標準化されるし、「家庭料理」については相変わらず戦前からの「良妻賢母」モデルに組み込まれた抑圧が機能しているが、家庭では、家庭によりけりだが、「個」が比較的自由に表出しやすい。ぶたやまかあさんのように「私はいつも、自分が好きな味を貫いています」といったことが可能だ。

しかし、その「個」の「事情」が、さまざまにメディアにあふれるようになったのは、新しい。「とくにSNSの普及で、台所の料理の担い手が直接発信できるようになって、状況は大きく変わりつつある」と、おれは『現代思想』7月号に寄稿した「おれの「食の考現学」」に書いたが、従来の紙メディアでは、牧野伊三夫さんのような画家や文化的(クリエイティブ?)な職業の人たち、著名な方々など、あるいは飲食がらみの各種業の人たちなど、その仕事や肩書で耳目をひく人たちが登場し、チョイ「上」な「美しい」「上質な生活」を語ることが多かった。そういうところでは、「やり過ごしごはん」といった、生活の地声のようなものは、なかなか聞こえてこなかった。

それから、これだけいろいろなメディアがあるのに、住み分けがすすんでいて、それぞれが小さな水たまりに棲息し、越境やまじわることが少ない。例えば、牧野伊三夫さんと、共働き勤め人のぶたやまかあさん家族が同じテーマで並んで登場するなんてことは、「珍事」のたぐいだったと思う。交わることのない編集や制作、交わることのない読者、交わることのない生活が、割と広く存在した。

これからどうなっていくかわからないが、『暮しの手帖』の第5世紀の1号目にぶたやまかあさんが登場したことは、生活的に、希望がもてるような気がしている。

ぶたやまかあさんの記事に関して、ツイッターに、こんな感想があった。

からすねこ
@karasuneko_cat
ぶたやまかあさんの暮しの手帖入手。ゴハン作り大変だけど、ぼちぼちでいいよってユルさで良かった。暮しの手帖ってすごくストイックなイメージで、キチンと頑張らなくちゃって感じだけど。
午後10:25 · 2019年7月27日·Twitter for iPad
https://twitter.com/karasuneko_cat/status/1155107047072919554

当ブログ関連
2019/06/08
『暮しの手帖』100号、「家庭料理ってどういうもの?」。

Dscn0586

 

 

 

|

« このままでは終わらない。 | トップページ | 「カレーを混ぜる、文化を混ぜる」 »