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2020/01/24

「大衆」と「普通」について、ちょっとだけ。

断るまでもなく、おれは「大衆」と離れがたい関係にあるし、そのことに関係して2004年頃から「普通」という言葉もよく使っている。

だけど、「大衆」や「普通」について定義なんぞやったことがない。これが「大衆」であり、これが「普通」であるなんて、断言したことはないし、決めつけるほうがおかしいと思っている。

「大衆」も「普通」も一人ひとり違うのだ。それでいいじゃないか。一人ひとりに光をあてよう。

といって書いていられるのが、フリーライターのよさだと思っている。

学術業界もとより、ある種の分野の「専門家」のごとき立場をとろうとすると、そうはいかない。これはこうと定義し、体系にしたがい、枠組みを決め、そのために苦労もする。その根拠を説明するために、こんだけの本を読み、こんだけのフィールドワークをし、こんなに食べ歩いたぞ、こんな新聞や雑誌にこんなに書いているぞ、とか、やらなくてはならない。それなりに偉業である。

フリーライターであるおれは、そーんな面倒なことは関係ないのだ。偉業をやる気もない。

むしろ、「大衆」や「普通」をパターン化する傾向に抗うのだ。

「普通の日本人」とか、プッ、なんじゃそれ。かつては「大衆はカタマリである」なんてことをいった、民主主義の思想的リーダーのような立場の有名な学者さんもいたが、なんじゃそれ、てなもんである。

フリーライターは、いかなる定義や体系や枠組み、それらしきモデル化やパターン化や教条化などにもしばられない。だから、しがない「フリー」でいられるのだ。

ただ、生活の実態から出発し、書く時々の、テーマ、視点、論理は、しっかりしていなくてはならない。

というのがおれの考えなのだな。

四月と十月文庫『理解フノー』には「フリーライター」の項があるが、その補足をしてみた。

当ブログ関連
2016/12/15
「大衆」は葬り去られなかった。日本経済新聞の記事を読む。

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