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2020/02/17

「惣菜料理」×「宴会料理」

チョイと日にちがあいたが、前のエントリー「浅草・まえ田食堂」のところで、「料理と味覚の世界は、「おふくろの味」や「家庭料理」という言い方を使うのは、とても難しい事態になっていると思った。それは、いわゆる「多様化」以前の、きわめて大雑把なくくりが通用した頃の観念なのだ」「実際のところ、いまでは、多様化と同時に多層化・多重化もすすんでいて、人間の思考も味覚も、ずいぶん複雑になっているのだな」と書いた件。

その後調べるともなく読んでいた獅子文六の『私の食べ歩き』(中公文庫)に、「惣菜料理」と「宴会料理」を対義の関係で述べているところがあって、これはつかえそうだと思った。

たとえば、「日本の洋食は、野菜を肉料理の添え物、または飾り物と考える傾向が、あまりにも強い。料理を装飾するのは、宴会料理であって、日常の惣菜料理には、まったく不必要である」「日本の洋食は、宴会料理が輸入され、その形がいろいろに崩れて、普及されているのである」といったぐあいだ。

「日常の惣菜料理」というと「生活料理」と重なり、おれも「生活料理」という言い方を使うが、これは「生活」という概念が抽象的であるという難点がある。「生活」の中には、日常と非日常が混在するし、いわゆる「時と場所と場合」がからむ。

「生活料理」を造語した江原恵のばあい、「料理屋料理」である「日本料理」に対して、その支配から「料理」を解放する意図を持っていた。この場合の「料理屋料理」は、獅子文六が指摘した「宴会料理」と同じだ。江原恵は、日常一般の料理を「料理」とよべばよいのであって、それに対して「料理屋料理」があるのが本来だという趣旨を述べている。

これは一理あるが、文化の実態からすると適応が難しい。そこで「生活料理」という言葉が浮上した、という関係がある。

近年は、とくに「中食」といわれる「惣菜市場」が拡大し、それと「家庭料理」の区別がつきにくい。「惣菜市場」の拡大は、「家事労働」の外部化の一環として「家庭料理」が外部化した歴史がある。

大衆食堂は市場規模からすると大きなものではなくなっているが、空間的には「家庭」ではない「家庭料理」が広く存在した。これは料理論的な市場から見れば「惣菜市場」に近い。歴史的にも家庭の食事の「代替」と考えられていた。それは、食事は「家庭団欒」「家庭に属するもの」という思想が強固であった事情によるだろう。

これは、主に「食事文化」のことだ。つまり「家庭料理」という言い方は、「料理」の思想というより「家庭」という思想が背景にあって成り立っていた。

料理文化から見れば、料理がつくられる場所やつくる人によって分類されていては不都合が多い。家庭にも家庭の「外」にも存在する「惣菜料理」は、そのことを浮き彫りにする。

それから、もう一つ、とくに1980年代以後の「惣菜料理」の多様化と重層化だ。一般的には、あまり使われていた言葉ではないが、70年代ぐらいまで「中級レストラン」「中級料理店」「中級料理」といった言い方にくくられていた料理がある。これは高度経済成長と、それを背景にした「中流意識」によって成長したもので、当時の、まだ非日常だったファミレスが象徴的存在だった。それとは別に、洋食や中華、その他の専門店などが含まれた。

この分野については業態変化と料理文化が入り組んでいて、動向の把握が難しいのだが、80年代以後の成長がめざましく、料理文化をリードしてきた、といえるだろう。

たとえば80年代の「イタリアン」や「エスニック」などから、拡張し細分化しながら、国境を溶かし込み、「外食店」「惣菜店」「家庭」などの境界を溶かし込み、広がった。いたるところで「惣菜文化」が成長(多様化・重層化)した、と見ることができそうだ。もともと料理は、さまざまな「境界」を溶かす文化力があるのであり、それがいまや「家庭」まで溶かしている。と見るとおもしろい。

こうして「家庭」が溶かされて、「食べること」における「個」の存在があきらかになっているとき、その「個」が関わる料理は、「惣菜料理」か「宴会料理」か、ではないかと考えることができそうだ。この場合の「宴会料理」とは、宴会の形態で提供されなくても、元来が宴会の目的と様式にしたがった料理ということになるだろう。

すると、ますます「惣菜料理」の幅の広さや楽しみが見えてくる。レンジでチンしただけのものから、いまや類別すら難しそうな「スパイスカレー」や「スパイスカレー風」だの「ミールス」や「ミールス風」だの、絶えず変化しながら、そしてあまり変わらない大衆食堂の料理まで、なかなかおもしろいことになっている。

それを「日本料理」だの「家庭料理」だのという観念で見ていては、ツマラナイ。

あるのは、自分「個」と料理の関係だけであり、それは自分「個」と「世界」の関係であるということだ。

おれは習性からして、自分で「つくる」ほうだが、「つくる」「つくらない」は根本のことではないと思っているから、どうでもよい。カンジンなことは、「食べる」ということで、そこに「個」と「世界」が存在している。「つくる」にしても「つくらない」にしても、「食べる」過程のことであり、楽しむことが大事なのだ。

ついでだが、いわゆる「自炊」については、社会や歴史の実態を無視した、思い込みの話が多すぎる。現在の日本の「自炊」は、現在の日本のインフラに対応しているだけで、これが普遍のわけではない。どの国でも、インフラしだいのことであり、インフラの維持が困難になる事態だってありうるし、お粗末なインフラの中での「自炊」を強いられる事態だってあるのだから。そういう意味では、日本の現状は、これを使わないのは社会的損失ではないかと思われるほど「自炊」環境が整っているといえるだろう。

楽しむことについての議論が、いちばん欠けているんじゃないかな。惣菜料理は「生きること」に深い関係のある料理だから、これを楽しめるかどうか、どう楽しむかは、楽しい人生の少なくない部分を占めているだろう。惣菜料理の目的といったらソコだろう。宴会料理とは目的から違う。

そうそう、話はズレるが、『私の食べ歩き』に収録の「わが食いしん坊」には、「料理は、極めて日常的な、落ちついたキモチで食うべきであって、旅先の慌ただしさや、過度の好奇心なぞは、いずれも、味到を妨げる。」にというオコトバがあった。飲食店の食事での過度なコーフンについても同じことがいえると思う。

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